その12
教室の電気は静かに消えていた。
舞台を下りた先名かすみは、担任の石田文子の指示に従い、外のベランダを通って、舞台からも楽屋からも離れた、別の教室へと来ていた。ひとりで。朱いジュリエットのドレスそのままに。ただし上から、紺のウインドブレーカーを羽織って。
ゴロゴロゴロゴロゴロ。
と、とおい空の雷はいまだ鳴り止まず、降り続く雨のせいで室内は妙に暗かった。
「だーめだめだめだめ、このまま出ちゃ、もみくちゃにされるわよ」とは、あまりの観客たちの熱狂に不安を覚えた石田のセリフだが、「着替えは私が取って来るから、先名さんは一組の教室に行ってて」
と要は、舞台あるいは楽屋の外で彼女を待ち構えているであろう観客たちから彼女を守ろうということだった。暗闇の中、かすみは想った。照明のスイッチを探しながら、
「考え過ぎだと想うけどね」それから、「あっ」となって右手を口もとに当てた。「ひかりちゃんのことを頼んでおけばよかった」と。「こっちに来るよう頼んでおけばよかった」と。
結局いっしょの舞台には立てなかったが、それでも、自分の演技を、彼女を想い、彼女になったつもりで行なった演技を、彼女に観て貰えたのがうれしかった。
「ひかりちゃん」かすみはつぶやき、とつぜん照明のスイッチは見付かった。
パチッ。
黒板側のライトが点いた。教室には誰もいなかった。彼女は青のウインドブレーカーを脱ぎ、誰もいない教室の黒板には、大きな白い文字で次のような言葉が書かれていた。いつかの天使と、八重咲きのムレナデシコのイラスト付きで、
『EVERYTHING
WAS
BEAUTIFUL,
AND
NOTHING HURT.』
「祝部ひかりだな?」
突然、誰もいないはずの教室に、低い、男の声が響いた。彼女はふり返り、とっさの叫びを上げようとした。が、
「なかなか、いい舞台だった」
そう続ける男の声に、その叫びは封じられた。男は長身で、グレーのハンチング帽を被り、その下に見えた顔は、いつかどこかの救世主を想い出させた。
「あれも、能力の一部か?」
男は訊いたが、かすみの答えを待つ風はなかった。
「ま、奪えば分かるがな――」
それから男は、右手をかすみの方に伸ばすと、そのまま、
ドンッ。
と彼女を南側の壁へと叩き付けた。彼女に触れることもなく。男はうたった。つぶやくように、
「あるものすべてはうつくしく、
そうして誰も、傷つかなかった。」
そうして――?
*
そう。
そうしてそれはたしかに、彼女の目には一見、美しき絵画のように見えた。
はげしい雨音をバックに、うす暗いライトの下、白い壁に架けられた朱いドレスの少女。その顔はわずかにうつむき、長いまつげと、血の気の失せた頬にはひと筋の涙の痕が見える。が、しかしそれは、やはりぞっとするような光景でもあった。
ゴロゴロゴロゴロゴロ。
と、そうして、とおい空の雷鳴に祝部ひかりは我に返った。くり返しになるが、今回語っているのは、彼女がひとりの友人を失くした、その顛末である。
そう。
壁に架けられた少女は、先名かすみであった。
ゴロゴロゴロゴロゴロ、
ゴロゴロゴロゴロゴロ、
ふたたび、とおい空で雷が鳴り、祝部ひかりは、ひざからその場にくずれ落ちそうになった。そのおぞましい絵画の意味に気付き、と同時に、その風景を美しいと感じてしまった自分自身に。が、しかし、それでも、ここで彼女がその場に倒れ込むことはなかった。手近の机に右手を置き、左手に抱えていた服や鞄――それは石田文子に頼まれた、先名かすみの持ち物であった――をその椅子の上に置いた。
「逃げなければ」
直感的に彼女は想った。教室の片すみに、その暗がりに、ひとりの男がいることに気付いたからである。右手を胸に当て、かすみを仰ぎ見、まるで彼女に祈りを捧げるかのような灰色の男が。ひかりは想った。くり返し、
「逃げなければ」
教室に入るとき、ドアを開けた音に男は気付いただろうか? いや、実は気付いていないのかも知れない。何故ならこちらを、この場の目撃者である自分を、男は見ようともしていないから――いまなら、逃げ出せるかも。
「うん?」
男がつぶやいた。首をかしげ、ゆっくり半歩後じさり、
「……ちがうのか?」
それから男は改めて、先名かすみの顔をジイッとのぞき込んだ。
「ちから……? が……? 祝部ひかり……? ではない?」
ガタッ。
机が鳴った。ひかりが手を付いていた机が。突然出た自身の名に、彼女のひざは激しくふるえ、身体はバランスを崩したから。
「逃げなければ」
彼女は想った。みたび。ただ今度は、直感でも、目撃者だからでもなく、自分こそが男の、この男の獲物、標的である。と、そう確信したからであった。が――、
パチン。
とここで男が指を鳴らした。残っている左の手の指で。やっと、ゆっくり、こちらを向きながら。使徒と聖者と盲目のローマ兵のような表情で、
「おまえか?」男は訊いた。「おまえが……、祝部ひかりか?」
彼女は答えられなかった。彼女のひざは激しく震え、呼吸は止まり掛けていた。足裏と腰の感覚が無くなりそうだった――が、直後、
バァッシィー――ンッッッ!!!
と、驚くほどの雷が西の空からこの地に落ちた。彼女は走り出していた。扉を開け、先ほどまでいた人ごみ――の方ではなく、何故か、それとは反対の、より暗い校舎の奥へと。
そうして――?
*
そう。
そうしてこれは言い訳でも何でもないのだが、この日、さして複雑でもないこの学校の中を、山岸まひろが道に迷った理由については、いくら調べてみても、いくら仮説を立ててみても、確としたものをこの作者は想い付けなかった、どうしても。
あるいは、ひょっとすると、彼女と祝部ひかりの関係が、この日この時この状況に、何がしかの影響を与えていたのかも知れないが、それも結局、はっきりとした証拠が見付かるようなものではないし、結局のところ、要は、この日この時この状況に、何かしらの偶然、物語的ご都合主義が働いた……そう考えた方が良いのかも知れない。何故なら結果、祝部ひかりの命は助かったのだから。
ドンッ。
と突然、ここで、山岸まひろの胸にぶつかって来たのは、先ほど廊下で言葉を交わしたあの少女・祝部ひかりであった。ただし今は、先ほどとはまるで別人のような、青白い顔と怯えた表情をしていたが。
「す、すみま――」と言い終わるが早いか彼女は、「た、たすけ――」そう言い掛けて目を閉じると、ぶるっと首を横にふってからふたたび目を開け、「逃げて下さい! はやくッ!」そう言ってまひろに叫んだ。
「逃げる?」まひろは訊き返した。こちらを見上げる少女の目や耳のかたちに、やはりどこか見覚えを感じながら、「どこに? っていうか、なにから? だれから?」
彼女が走って来た廊下の先を見ても、遠くに見える人ごみ以外、そこには誰も、何も、彼女を追って来るようなものはない。窓の外は土砂降りの雨で、彼女たちのいる場所はうす暗く、他にひとの気配もない――はずだった。
パチン。
と突然、彼女の数mほど後ろで、指を鳴らす音が聞こえるまでは。
「すみませんがね、お兄さん、その子をこっちに渡して貰えますか?」
と、先ほどまで誰もいなかったはずの廊下と廊下の十字部分に、不意にそいつが現れるまでは。
そっ。
と男の方をふり返りながらまひろは訊いた。ひかりに。ちいさく。ささやくような声で、
「あいつ?」背筋に冷たいものを感じながら、「……だれ? ……なに?」
「あれ?」とここで男はつぶやいた。あごを軽く上げ、まひろの顔を確かめながら、「すまない、お嬢さん。あまりにイケメンなんで、男と間違えたよ」
ドォオォオオオオン。
と、すこし離れた場所に雷が落ちた。雷光が彼らのいる廊下を照らしたが、それでもやはり、男の顔ははっきりしなかった。
「友だちが」ひかりが言った。しぼり出すような声で、涙をこらえて、「あいつに殺されたんです」
ドォオォオオオオン。
とふたたび、先ほどとほぼ同じ場所に雷は落ちた。まひろが訊き返した。
「友だち?」と驚いた声で、「それってひょっとして」石橋伊礼の預言を想い出しながら、「祝部ひかりって子?」
「え?」ひかりも訊き返した。「なんで私を?」
そうして――?
そう。そうして男は手を上げた。
「ちっ」とつぶやき、その左手をふたりに向けて、「やっぱりお前か」直後――、
パンッ!
とふたりはうしろに弾き飛ばされていた。誰にも、何にも、触れられていないのに。
「友だちには悪いことをしたがな、祝部ひかり」男は続けた。「だが安心しろ」床に倒れる彼らに近付きながら、「すぐにあっちで再会出来るさ」
それから男は、ふたたび左手を、今度はひかりにのみ向けると、
パンッ。
と空気あるいは真空の塊のようなものを放った――が、これは、
「あぶない!」
とひかりをかばうかたちで間に入った山岸まひろが受けることになった。
ドンッ。
とふたたび彼女は弾き飛ばされた。廊下に打ち付けられた。男が言った。
「おいおいおいおい、お嬢さん」と笑いながら、「ヒーローごっこ? 女もヒーローって言うのか? 知らないけどさ、ジャマはしないでくれ」
とみたび、空気あるいは真空の塊のようなものを、限りなく透明にちかい球形のようななにかを、
「どけっ」と無防備なまひろの背中に向けつつ、「“リスト”が本当なら、そいつのちからが一番――」
が、ここで、
パシュッ。
とちいさな、サイレンサーの音がして、男を襲った。続けて、
パシュッ。
パシュッ。
と、計三発の9mm弾が。
一発目は男の頬をかすめて外れ、二発目は男の力により宙で止められ、三発目は、これも男の力で止められた――が、その前に、男の左目をわずかに傷付けることに成功した。
「ひかりッ!」
三発の弾丸を放ったのは、ひかりの父・優太であった。
(続く)




