その12
厚いカバーの奇妙な手帳。防弾聖書にも似た父の形見のその解読は、まったく進んでいなかった。
もちろん。
いまの世の中、ネットの自動翻訳も格段に進歩しており、いくらそいつが多種多様な言語で書かれた大変読みにくいものであったとしても、それこそ手元のスマートフォンで、ピッとササッといますぐにでも、それら言語の翻訳、解読を始めることは可能であった。
がしかし、それでもヤスコはそれを躊躇っていた。便利な道具を使うことにと言うよりは、手帳の中身を見ることに。
名も知らぬ少年に殺された父の形見ということもあったが、それ以上に、最初に見つけた《灰原》の文字、そのあせったような走り書きや、手帳全体を覆う、切羽詰まったような、残された時間(どこの? なにの?)を必死で掬い上げるような彼の筆跡に、その中身を知ることが果たして良いことなのか悪いことなのか、彼女にはよく分からなくなっていたからである。
そのため、ここでも彼女は、いちど手帳を取り出すと、改めて問題の《灰原》の文字を確認してから、再びそれを鞄に戻そうとして、
「あのう、すいません」と呼ぶ優しい声に顔を上げることになった。「こちら、相席してもよろしいですか?」
そこにはひとりの、これといった特徴のないサラリーマン――サラリーマンよね?――が、コーヒー載せたトレイを片手に立っていた。「ウェイターの方に言われまして」
「あ、はい、どうぞ、すみません」ヤスコは応えた。まひろが残していったパイと紅茶を自分の方に引き寄せつつ。店はまだ、満員のようだった。
「すみませんね、読書中に」男は言った。
「読書?」ヤスコは訊き返した。
「そちら、なんだか古そうな……」男は答えかけ、「あ、すみません、てっきり何かの文庫本かと」ひとのよさそうな笑顔だった。
「あ? ええ、」ヤスコは答えた。手帳を鞄に戻しつつ、「なんでもない、ただの手帳です」
「そうですか、それは失礼」男は続けた。「私も本が好きなもので、それでついつい」
男の格好は、どこもかしこも、普通のサラリーマン――という感じだった。
年は四十後半だろうか、白いものが混じり始めた黒髪は短く刈り揃えられ、ひげはきれいに剃られていた。スーツは地味なチャコールグレー、きっと大型店の吊るしだろう。シャツは白、タイも地味な黒色で、背は気持ち高め。筋肉質に見えなくもないが、それもどちらも平均的。賢そうな顔をしてはいるが、例えばここが英国なら、ちょっと上質の殺人ミステリー(『ミス・マーブル』とかその辺)なんかに、悪意のない第一発見者として出てくるような、そんな普通人、人畜無害な男性のように見えた。見えたのだが――、
「実は娘も本が好きでしてね、近所の古本屋で本を借りて来ては――」とか、
「ここはいいお店ですね。甘いのは苦手なんですが、コーヒーの味が実にいい」とか、
「あ、どうぞお気になさらずに。手帳の続きをお読みになって」とか、
例えばヤスコを口説くとか――彼女を口説いた男性はこれまでに二人しかいない――、例えばヤスコのファンだとか――彼女の本の読者はその存在を疑われるほどに少ない――、そんな亀に毛が生え兎に角が生えるようなこともないのだろうが彼は、何故かしきりに、それでもぎりぎり不審に想われない程度に、彼女に声をかけてはこちらを――ヤスコの鞄を――気にしている様子であった。
「あの、」とヤスコが言いかけて、
「はい?」と男がとぼけ声で返そうとしたところで今度は、
ブー、ブー、ブー、ブー、
ブー、ブー、ブー、ブー、
と、ヤスコのスマートフォンが鳴り出し、彼らの会話はここで終わった。待ち合わせに遅れ続けている彼女の編集者からだった。
*
さて。
そうして今度は、男がひとり取り残された。彼のターゲット、問題の小説家・樫山ヤスコが結局、彼女の編集者と編集長に編集部へ来るよう言われたからである。
「ふむ」
ターゲットの消えたテーブルに座ったまま男は、かけていたメガネを外すと、鼻あての跡をすこし気にしてからウェイターを呼び、ヤスコとまひろが残して行ったパイと紅茶を片付けさせた。
そうしてそれから今度は、スーツの内ポケットから薄手のシステム手帳を取り出すと、黒のボールペンで何事かを書き込んでから、ふたたびメガネをかけ直した。コーヒーをひと口すすり、
「うん」とひとりつぶやいた。「まだまだ時間はかかりそうだが」わざわざ忍び込む必要もなかったか、「あいつから渡してくれたおかげで、どうやら意識はしてくれたみたいだな」
*
「どしたの、ひかり。ご機嫌じゃない」と祝部守希は訊いた。家族の食事を用意しながら、「なにかいい事でもあった?」
と言うのも今日の昼間、いつもの古本屋に出かけて行った彼女の娘が、一冊の本も――年頃の娘らしからぬ宇宙だ時間だ異星人だのといった愚にも付かない小説類を――買っても借りても来ずに帰って来たと想ったら、
「ダダン、ダン、ダンダン、ダダン、ダンッ、ラ~ラ~♪」だの、
「ラッタ、タラタッ、タッタ、ラ、ラッタ、タラタッ、タ~♪」だの、
「レント、ア、テント、ア、テント、ア、テントッ♪」だの、
まあ、これらもこれらで、年頃の娘のする鼻歌ではないような気がしないでもないが、それはさておき、なんだか陽気に、せまいリビングをゴロンゴロンしていたからであった。
「え?」娘は言うと、「なーんでもないわよっ」ひょいっと立ち上がり、彼女のところに来ては、「ねーねー」と訊いたが、
「なに?」と訊き返す母親に、
「うーん?」とすこし頭を傾けてから、「やっぱりなんでもない」と元いた場所に戻ろうとするのであった。
「なによ」続けて彼女が訊くと、「訊きたいことがあるなら言いなさいよ」
「うーーん?」と娘は身体をくねらせたが、それでもやっぱり、「やっぱりなんでもない」と言って、ソファの上にダイブした。
「なるほど」守希は気付いた。彼女だって伊達に女を四十年以上して来たワケではない。「男の子ね」彼女は訊いた。うれしそうに、「だれ? 早川くん?」
「え? ちがうわよー」娘は応えた。
「だったら誰? 伊藤くん?」
「ぶー、ぜっんぜんちがう」
「そしたらあの子? 背の高い、野球部の、内田とか天海とか――」
「ええ?」娘は言った。「いやよ、あんなさわやかイケメン」
「いい子じゃない、あの子」母親は応えた。「ハキハキしてるし、お似合いだと想うけどな、あなたに」と自身の希望も少し込めて。
「いや、ダメ、ほんとやめて」娘も応えた。「わるい子じゃないのは知ってるし」他の子たちに人気なのも分かってるけど、「ほんとダメなタイプなのよ、内海くん」
「もう、だったら誰よ。私も知ってる子?」
「うーーーん?」とふたたび、娘・ひかりは身体をくねらせたが、今度ははっきりと、「“あけお”っておぼえてない?」
「“あけお”?」守希は訊き返した。調理の手を止め、しばし考えてから、「あー、“あーちゃん”? “朱央くん”? 清水さん家の? え? なに? あの子たちこっちに戻って来てるの?」
「朱央だけらしいけどね」ひかりは答えた。
今日、『ウィリアム書店』で偶然再会したことや、公園で話し込んだこと、家の都合で彼だけこっちに来ていることや、趣味がとっても近いこととか、そんなこんなを、まあ色々、ダラダラダラダラダラダラと。
「ふーん?」続けて守希は訊いた。娘のにやけっぷりから訊くまでもないこととは想いつつ、「で? どう? 彼、すこしはカッコよくなってた?」
この質問にひかりは、にやにや顔をピタッと止めると、赤くなった耳と彼女らしからぬ沈黙で答えた。
「ふーーーーん?」守希は続けた。「いっいんじゃない、ひっかりちゃん」娘の代わりにニヤニヤしながら、「これは、お父さまにもご報告が必要ね」
「え? ちょ、ちょっと、だめだめだめだめ」ひかりは応えた。必死で、両手をぱたぱたさせながら、「お父さんにだけは絶対にダメ」
「えー、でも、せっかくひかりちゃんに恋のチャンス到来なのにー」
「お父さんに知れたら朱央の命が――ってちょっと待って、まだそんなんじゃないわよ」
「えー?」
「ちょっと、こう、カッコよくなってたってだけで――」
「だったら別に、お父さんに話しても――」
「だーめ、ダメダメ絶対。あの人、親バカもいいとこなんだから」
「えー、はっなしたいなー、おっかあさんはー、おっとうさんにもー」
「だーめ、だめだめ、お願い、お母さん。女だけの秘密にしておいて」
(続く)




