その8
そうしてふたりは家を出た。
手に手をつないで、わらいながら、まるで子どもの頃にもどった感じで。
「おぼえてる?」彼は訊いた。「前にもこうやって手をつないだよね?」
「もちろんおぼえてるわよ」彼女は答えた。「“目隠し鬼”で逃げ出したときでしょ?」
当初の彼の計画では、彼と彼女は、彼が用意したはしごを使って窓から逃げ出す予定だった。が、結局それは、その必要はすでになくなっていた。なぜなら家には、彼女ひとりしかいなかったから。
「絶対気付いてたよね、おばさん。僕のこと」彼は訊いた。
「わっかんない」彼女は応えた。「でも、窓を開けるよう言ったのはお母さんだったわ」
高校に向かう途中の公園では、バットマン気取りの男の子とガンマン気取りの女の子が世紀の対決の真っただ中だったが、手をつなぎ笑い合いながら走り去っていく彼らを見ると、
「あっ! カップルだ!」
「かけおちよ! かけおち!」
と言っては一旦休戦、彼らに手を振り声援を送った。
「がんばれー!!」
と仲よく、ふたり同時に。街角では早上がりのサラリーマンが新聞片手にバスを待ち、どこかの家では醤油の切れた母親が今夜のメニューを変更していた。
「かすみちゃん、なんだって?」彼女は訊いた。
「君を連れ出して欲しいって!」彼は応えた。興奮して、「それまでは彼女が代役を務めるからって! だけど本当のジュリエットは君しかいないって!!」
ロミオもパリスもティボルトも、もちろんマキューシオだって知らない。これは先名かすみが清水朱央にしか――貴方なんですよね? 司祭さま――彼にしか頼めないことだったから。
「いまならギリギリ、三回目の公演に間に合うからさ」彼は続けた。「そこでドレスを返してもらって、彼女はふたたびロミオにもどる」
共演者や観客の反応は分からないし、周りのひとが、特に君のお父さんが、なんて言うかは分からないけど、そんなのはもう関係ない――そう。そうだ、あの時もこうして君を連れ出しておけばよかったんだ。
「きっとみんな上手く行くさ」彼は続けた。「なんてたって先名さんの計画だもん」このあと起こる悲劇も知らずに、「それが終われば後夜祭だろ? 一緒に踊ろうよ、ぜったい楽しいからさ」
庭園通りのパン屋からは古びたラジオが流れていた。彼らが生まれるずうっと昔のラブソング。だけれどしみったれたバラードなんかじゃない。ご機嫌のロックンロールだ! 男が歌っていた! 最強のバックバンドを従えて、
*
『さあ、いっしょに逃げ出そうぜ。
窓はウソ吐きのもので、
クローゼットはハンガーたちのもの。
俺たちはきっと、壁を突き破るんだ。』
*
「朱央!」彼女は叫んだ。とうとう。学校が見えて来たから、「大好きよ! 朱央」と。
が、しかしこのとき、彼はあまりに先を急いでいたし、また、
パァア―ッ。
と大型のトラックが数台、彼らの横を通り過ぎて行ったので、彼女のこの告白が彼の耳に届くことはなかった。彼はふり返った。
「ごめん! なにか言った?!」何台ものトラックに対抗するかのように。彼女は応えた。
「ううん!」もう一度同じセリフをくり返してもよかったが、それはなんだか違うような気がした。「まさか! こんな感じになるなんてね!」
「いつか!」彼はわらった。彼女に届くか不安だったけど、それでも、「いつか一緒に!」いま言わないと、二度と言えないような気がした。「今日のことを想い出してさ!」もう、あんな後悔だけは、したくはなかった。「一緒に笑い合えたらいいよね!」
くり返しになるが、今回のお話は、祝部ひかりがひとりの友人を失くしてしまう、その顛末である。
そうして――?
*
プルルルルルルルル。
プルルルルルルルル。
プルルルルルルルル。
プルルルルルルルル――カチャ。
「もしもし? どうしたの? 今日も残業なんじゃないの?」
そう。それから少しして、祝部守希は電話に出た。残業中である夫からの電話に。
「ひかり? ひかりのスマホなら、あなたに言われたとおり、取り上げてタンスにしまってあるわよ」
どうやら夫は、自分がした指示も忘れて、娘に電話を入れたのだが、それには誰も出ず、仕方がないので改めて、こちらに掛けて来た様子だった。
「本人? さあ、どこかしらね」守希は続けた。彼への非難も込めながら、「私が買い物からもどったときにはいなくなっていたから」と。
何故なら彼女は、今回の夫の仕打ちに腹を立てていたし、窓から忍び込んでくれるボーイフレンドなんて、応援するしかないではないか。
「そうよ、朱央くんがあの子を迎えに来たから黙って行かせたの。きっと今ごろふたりで文化祭を楽しんで――」
が、ここで電話向こうの夫から怒声が返って来た。守希は言い返す。
「そんな大声出すほどのことじゃないでしょ?」と、こちらもかなりの大きな声で、「ひかりのことを心配するのは分かりますけどね」と。
朱央くんなら変なことはしないだろうし、あなたはあの子に過保護過ぎますよ、あなただって昔は――、
「あなただって昔は、私とデートするのに何度私のお父さんを出し抜いたかおぼえて――」
ブツッ。
とここで突然電話は切れた。まるでこれ以上話すことは何もないといった感じに。
「ふん」祝部守希はつぶやいた。スマホをソファに投げ出しながら、「いいかげん子離れしなさいよ、まったく」と。
そうして――?
*
「え? だったらひかりちゃん、こっちに来てるんですか?」
と、それからほどなくして、小紫かおるは電話に出た。彼の上司・祝部優太からの電話に。
「いえ、例の劇は三回公演で、さっき二回目が終わったところです。なんか知りませんが満員御礼の大盛況で、俺も遠くからしか見れなか……、あ、いえ、たしかに、ジュリエット役は別の女の子でしたよ」
彼は、優太からの指示で、今夜ここに来るであろうひとりの男――石橋伊礼の預言に出て来たあの殺人鬼――を探すため、単身、ひかりの高校に乗り込んでいたのだが、
「そしたら、ひかりちゃんのスマホの位置情報から彼女を……え? 家に置いて来てるんですか? ちょっと待って下さいよ、祝部さん。いま、ここ、高校の文化祭ですよ?」
ただでさえだだっ広い校舎に、生徒、職員、その家族に友人知人、老若男女があふれ返って浮かれ上がっている。しかも、
「生徒の中には変なカッコのヤツらも――あ、ほら、いま、ドラキュラとピカチュウが欽ちゃん走りで走って行った」
この中を探すんですか? 例の殺人鬼も探しながら?
そうして――?
*
「まずは、ひかりの教室を中心に捜してくれ。俺もすぐにそっちに向かう」
そうして優太はこう答えた。かおるからの質問に。
彼はいま、深山千島に呼ばれ、ひかりの高校から数kmほど離れた場所にいた。石橋伊礼の別の預言――ひとを燃やす青年のビジョン――に出て来た問題の青年を探すために。が――、
「深山!」優太は叫んだ。小さく。しかし強く。スマートフォンをしまいながら、「状況が変わった。ここはもういいだろう。高校に向かうぞ」
このとき深山は、畳の上に残った奇妙な血の跡と焦げ目に首を傾げているところであったが、それには構わず優太は続けた。
「ここの詳しい内容は警察の資料を用意して貰うことにしよう。その戸柱って青年も、ひょっとしたらすでに警察が捕まえているかも知れないしな」と。
そう。ここは、例の気弱な青年・戸柱恵祐の自宅、彼の母親が殺された、彼女の焼死体の下半身部分だけが残されていた、あの和室である。
「あ、はい」深山千島は応えた。それでもひき続き首を傾げながら。
電話の内容から優太を止めることは無理だろうし、警察の資料が見られるのなら、それに越したことはない――が、それでも、
「それでも、どうやって?」とひき続き彼女は首を傾げる。「これは、彼のちからではないはずよね?」
彼女の知る戸柱恵祐の能力はあくまで『燃やすこと』だけであり、こんな風に人体を切り割くことは出来ないはずだった――だったら、
「だったら誰が? なんの目的で?」
(続く)




