その6
「祝部さんとお父さん、ぜっんぜん似てませんよね」
と、風見千尋が言った瞬間、祝部ひかりは彼女を突き飛ばしていた。
ドンッ。
と想いもかけず大きな音で。
陽はすっかりと落ち、渡り廊下は暗く、硬いその床に千尋は背中から倒れ、身体をいくつか打ち、そうして擦りむき、血もすこしだが流れていた。
幸いなのはこのとき――ひかりのそばには先名かすみがいたため――彼女が『窓』を出すまでには至らなかった点であろう。
十数秒後、たまたまそこを通りがかった教師が彼らを止めた。話を聞き、取り敢えずの仲直りをさせた。
それから彼女は、これも念のためとして、それぞれの家庭に連絡を入れた。もちろんこの報告は、少なくとも教師の中では、あくまで「念のため」であり、そこまで話を拡げるつもりもなければまさか拡がるとも想っていなかったが、それでも何故か、祝部ひかりの父親だけは、必要以上に娘を責め、叱り、文化祭への参加を止めるよう言い出したのである。
「ダメだ! 明日は一日うちにいろ!」
そうして実際、彼女は自室に閉じ込められることになるわけだが、これが、問題の文化祭の前日に――祝部ひかりがひとりの友人を失くしてしまう前日に――彼女が起こしてしまった事件の顛末である。
そうして――?
*
そう。そうしてそれから夜は明け、小さな丘の、小さな家は、まさにいまが花の盛りであった。もちろんここは、いつか逃げ出した楽園同様、いつでもそこが花の盛りであるわけだけれど。
ピンポーン。
と古いタイプのベルが鳴り、樫山ヤスコは、改めて家のあちらこちらを見まわした。
窓にはツタが、屋根にはフジが、戸口には白いユリとアジサイが見事に咲きほこり、来るとき見かけた裏の庭では、元の家主の自慢のオールドローズとアヤメグサが、ケンカもせずに、まるで歌でも唄うかのように、風に吹かれて咲いていた。
ガラ。
と突然とびらが開き、ヤスコの前には背のたかい、見ようによっては背のひくい、奇妙な男が立っていた。まるでせこい悪魔のような、赤い顔と黒いあごひげをして。
「あの、」とヤスコは名乗ろうとし、
「お待ちしておりました」と男は応えた。即座に、「奥さまもお待ちかねですよ、ヤスコさま」と。
そうして――?
*
パタン。
と、そうして彼女は本を閉じた。すこし考えるふりをしてから。それからそれを、机に置いた。机の上にはすでに、いま閉じられた本と同様に、数ページ、あるいは数行読まれては閉じられるをくり返しているいくつかの本があった。
むーん。
彼女はうなると、机の端で充電中のスマートフォンに手を伸ばした。通話履歴から彼女の友人・佐倉八千代へ電話をかけた。
プルルルルルルルル。
プルルルルルルルル。
プルルルルルルルル、カチャ。
『……あっ! は、はい、もしもし、佐倉八千代です。現在わたしは、電話に出られないか、電波の届かないところにいるかしており電話に出られません。ですのでっ、ご用とご用件のあるお方は、ぴいぃっ。て発信音のあとに、ご意見・ご用件の程、お入れしておいて下さい! よろしくお願いします!…………………………あれ? これってどうやって止め――ピーッ!』
ピッ。
そうして彼女は電話を切った。伝言なら既に何件も残しているし、ラインもメッセも、そろそろふられたストーカー並みの量になっていた。もちろんこれらは、すべて未読のままだったけど。
むーん。
ふたたび彼女はうなった。あちらのお母さまの話だと彼女は、ときどき起き出して来てはチキンスープやなんかを口にしてはいるようなので、死んだりしているわけでもないのだろうけれど、それでも、それ以外はずうっとベッドの上で眠っているのだという。ピンクのパーケルシーツを下に敷き、淡いブルーのカシミアのアフガンなんかをかぶって。まるで小さな女の子が、声なき抗議行動でも行っているかのような格好で。こぶしを強くにぎって。
ふぅん。
と彼女、木花エマは、軽く息を吸い込むと、しばらくそれを止めてから、ベッドの上の彼女を想像し、ゆっくりそれを吐き出した。きっと、窓からのひかりがあの子の赤い髪とブルーのアフガンに当たり、それはどうやら、なかなか絵画的な美しさなのだろうな――と。しかし、
ぶるぶるぶるぶるぶる。
とすぐに彼女、木花エマは大きく首を横にふった。その悲劇的な美しさに。そんな美しさを想像してしまった自分自身に。友人をひとり亡くしてしまったのは、自分も同じではないか。
ぶるぶるぶるぶるぶる。
ふたたび彼女は首をふった。横に。さっきよりも速く、強く、一昨日の夜、森永久美子の身に起きた悲劇と、その後佐倉八千代が引き起こした、引き起こし掛けた惨劇を想い出し、想像しながら、そのイメージに憑りつかれそうな自分を、どうにか正常に機能させようとしながら、
ふんすっ。
と彼女は、残った息を一気に吐いて、それからこうつぶやいた。
「ねえ、ヤッチ」と。
誰が森永久美子をあんな目に会わせたのかは分からないし、なにがどうなって八千代の“アレ”が止まったのかもまったくもって分からないが、
「それでも、」
それでもこれは、八千代のような特殊な能力を持つものが関わるべき事件のような気がしてならない。
「ねえ、ヤッチ」ふたたび彼女はこうつぶやいた。「眠ってる時間なんて、もうないかもよ」
そうして――?
*
そう。そうして彼女は会社を休んだ。祖母の忌引き休暇は昨日で終わっていたけれど、有給休暇ならたっぷり残っていたし、使う予定もなかったから。
「大好きなおばあちゃんだったんだろ? 悲しんで当然さ。しっかり休みな」
と電話の向こうで先輩の小田さんは言ってくれたが、葬儀を終えた彼女に不思議とその手の悲しさはなかった。結構な大往生だったこともあるだろうし、なんだか今でも、あの花盛りの家に、あの姿のままいるような感じがしたから。
「※※高校、祝部ひかり」
彼女はそうつぶやくと、ベッドから起き上がり、洗面所へと向かった。
「※※高校、祝部ひかり」
石橋伊礼から伝えられた高校の住所と行事予定を検索すると、たしかに今日、その高校では、文化祭が行なわれていた。
「※※高校、祝部ひかり」
伊礼の預言を信じるならば、また、奇妙な赤毛を信じるならば、今日、彼女は、そこで殺されるかも知れないし、それは、自分が救わなければいけないのかも知れない。
「※※高校、祝部ひかり」
最後にもう一度だけ彼女、山岸まひろはつぶやくと、鏡に映った自分の顔を頼りなく想いながらも、それでも、短くカットされた髪をすべて後ろへ撫で付けた。兄・富士夫の姿かたちを想い出しながら、彼の確とした姿かたちを、見よう見まねでも真似しながら。問題の高校へと向かう準備を始めた。
そうして――?
(続く)




