その5
実際のところ、風見千尋のそれはただの嫉妬であった。ただ、彼女本人が、それに気付いていない嫉妬であったが。
また、彼女の嫉妬の原因、内海祥平も、まさか彼女が嫉妬をするような女の子だとは想ってもいなかったし、実際のところ、このとき彼は、自分がいったい何をどのように考えているのかもよく分かっていなかった。
と言うのも、彼の意識の一部は――例の『ジャンプ』の前後の記憶は――彼の時間の中を行っては戻りをくり返し、フワフワフワとしていたからで、仕方がないと言えば仕方がないのだが、それでも彼は言ってしまった。つい。ドレス姿の祝部ひかりを見て、とてもうれしくなって、
「祝部!」と。千尋の気持ちに気付きもせずに、「すごいな! ドレス! よく似合ってるじゃないか!」
と、よく言えば純真、悪く言えば女心の分からない、いつもの無神経さでもって。彼は続けた。ひかりの方へと歩きながら――と言うことは、風見千尋から離れながら、という意味だが。
「ほんとステキだな」とか、
「いまからでも俺がロミオをやりたいよ」とか、
「実は、ちょっとだけど記憶も戻ってるんだ。たとえばロミオのセリフもな」とか、
「“傷の痛みを知らぬものだけが、他人の傷痕を笑うものだ”」とか、まあ、云々。
彼の中では現在、彼が祝部ひかりに惹かれる理由・経緯は記憶のどこか彼方に行ってしまっているのだが、それでも、彼が彼女に惹かれる感覚・感情だけは――あの『ジャンプ』の恐怖も含めて――頭と身体のそこかしこに残っていた。そのため、それはまさに運命、自分では如何ともしがたい何ものかのように、彼には感じられるのであった。彼は続けた。ぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺら、歯の浮くようなセリフを、ひかりが彼から距離を取り、かすみが不思議に彼を見て、幼なじみの風見千尋がはっきりイラついていることなどには、まったくもって気付かぬままに。
「先名さん」とうとう千尋は言った。ひかりにでも祥平にでもなくかすみに向かって、「祝部さんももちろんそうだけど、先名さんもすっごく似合ってるわよ、カッコよくて。本物のロミオみたい。ねえ? 祥平?」
が、この呼びかけに内海祥平は応えなかった。彼はひかりに語り掛けることで忙しかったし、その語り掛けは、如何に自分が彼女をステキに感じているかの段階を過ぎ、彼女への謝罪の段階に入っていたから。
「もとはと言えば、俺のせいでお前に負担を」とか、
「その後も結局、クラスの役に立てていないし」とか、
「それどころか、あんな変な事故? 事件?起こしちまって、皆に迷惑を」とか、まあ、色々。
が、しかし、彼のこの懺悔なり告白なりにも正直ひかりは戸惑っていた。何故なら、いまだ確証はないものの、彼の記憶が消えた原因は自分にあるかも知れないと、彼を飛ばしたあの『窓』は、自分のものかも知れないと、彼女はそう考えていたから。なので、
「明日はがんばってくれ」と彼が彼女の手を握って来たときも、彼女は自分でそれをふり解くことが出来なかったし、「俺、祝部を――」
「でもほんと、おふたりお似合いですよねー」と風見千尋が、彼の言葉をさえぎってくれたときも、一瞬、その手を離すのが遅れてしまった。千尋は続ける。「こんなにー、お似合いだとー、嫉妬するんじゃないですかー? 祝部さんの彼氏さん。先名さんに」
一瞬、奇妙な間があった。
先にも書いたとおり、風見千尋は祝部ひかりに嫉妬していたし、それに当人は気付いていなかった。いや、気付きたくなかった。何故なら彼女は、内海祥平のことを面倒な幼なじみくらいにしか見ていなかったし、それ以上の可能性があるなどとは、考えたこともなかったから。が、しかし、自分が撮ったひかりと清水朱央の写真がきっかけで彼が彼女に好意を持ち始めたことや、例の事故で、彼が自分のことも忘れてしまうのでは? という恐怖等から、彼女の中にある内海祥平という存在は大きく変わってしまっていた。そう。彼女は認めたくはないだろうが、やはりこれは、明らかな嫉妬であった。
「彼氏さん?」ひかりが応えた。奇妙な間の存在に気付き、それを破るように、「あーもー、あれ風見さんなんでしょ?」と必要以上に軽薄な声で、「朱央は彼氏でもなんでもないですよー」
と、しかし、そう続けながらもひかりは考えていた。千尋がなにをどこまで気付いているのか? と。
朱央に対する私の気持ち? いや、それは別に知られても問題はない。
かすみちゃんに対する私の気持ち? いや、それはきっと私の勘ちが――いや、勘ちがいじゃないかも知れないけれど――いずれにせよ、いまのふたりの関係なら、彼女が何か言い出しても、ただの笑い話に出来るだろう。ひかりは続けた。
「そりゃあ、かすみちゃんのイケメンっぷり見たら朱央もおどろくでしょうけどー」と、かすみの腕を取りながら、「嫉妬なんかはないんじゃないかなー、逆によろこぶくらいで」と、より一層おどけた態度で、「私たちのラブラブっぷりに。ねー、かすみちゃん」
ふたたび、一瞬、奇妙な空白があった。
が、この空白の意味を、もちろん内海祥平は理解していなかったし、先名かすみも同様だった。なんなら、この奇妙な沈黙・空白を招いた祝部ひかりすら、何故ここで沈黙が訪れたのかを分かっていなかった。が、しかし、これで千尋は気付いてしまった。彼女のわざとらしい態度に。ひかりが何かを隠そうとしている様子に、
「ああ」と徐々に広がる夕闇のような恐怖を感じながら、「祥平の記憶を消したのは、この女だ」と。
ぎゅっ。
とそれから彼女は、内海祥平の手を取り静かに彼を引き寄せると、いまだ時間の中をさまよい続けている彼の記憶や言動――彼は依然、祝部ひかりに惹き付けられていた――は無視し、ふたりで彼女から距離を取り、彼を庇護しようと、自分に出来ることをしようとした――が、これが悪かった。
彼女の悪いくせが、ここで出てしまったのである。彼女は言った。いつもの皮肉めいた口調で、ここに書くのも憚られる、ひかりへの誹謗中傷を。そうして――、
「お、おい、千尋」と驚いた内海が彼女を止めようとしたが、それは逆効果であり、且つ、彼女のひかりに対する恐怖は、そんなものでは止められなかった。彼女は、口を閉ざすことも出来なければ、その場から逃げ出すことも出来なくなっていた。ひかりは固まり、顔は笑っていたが、それが余計に彼女を恐怖させた。誹謗中傷は続いた。内海が彼女の肩をつかんだ。
「やめろ! 千尋!」
が、彼女はそれをふり払うと――彼を守ろうとすると――ひかりと内海の間に立ち、そうしてとうとう彼女は言った。どこで聞いたのかは分からないが、
「そうそう、そう言えば祝部さんって養子? もらわれっ子? なんですよね」と。
ひかりの様子が変わった。が、それに気付いても、彼女にはもう止める方法はなかった。彼女は続けた。
「それでね、わたし、すっかり納得しちゃったんですよお」と。そうして、「前にお父さまが学校に来られたときあったじゃないですかー」それから、
「おい! 千尋!」と内海が叫び、
「風見さん、それ以上は」とかすみも止めに入ったが、
「『あ、だからなんだー』って想っちゃったんですよね、わたし」そう彼女は言った。言ってしまった。どうして自分がこんなことを言ってしまったのかも分からないまま、「祝部さんとお父さん、ぜっんぜん似てませんよね」
(続く)




