その2
*
『神よ、願わくば私に、
変えることの出来ないものを、
受け入れるための落ち着きと、
変えることの出来るものを、
変えていくための勇気と、
そうしてなにより、
変えられぬものと、
変えるべきものを、
常に見分けられる賢明さを、
どうか、どうかお与えください。』
*
目を覚ました彼女の目にまっ先に飛び込んで来たのは右のような祈りの言葉だった。もちろん日本語でもなければイタリア語でもない英語の原文だったけれど。
それから彼女は、ぼやけた頭でこの祈りを一、二度反芻すると、そのまますこし身を起こした。そうして、ふたたび自分が、やわらかなベッドの上で派手なドレスを着ていることに気付いた。右手にスマートフォンをつよく握りしめて。
「“神よ、願わくば私に――”」
反芻していた祈りが不意に口を突いて出た。もちろん日本語でもなければイタリア語でもない英語の原文だったけれど――依存症の母親がアリバイ作りによく唱えていたわね。
ここはどこだろうか?
壁の文字から、記憶の母から目をそらしながらマリサは寝返りをうった。反対側の壁に鏡がかけられていた。その下の机にはなんだかキラキラ光るものが置かれていた。無造作に。
『あら、起きたの?』
鏡の向こうで姉が訊いた。改めて見ると顔が半分映っていた。油断した。
『安心して、男遊びとかはしてないから』
たしかに。身体はキレイなようだ。派手なドレスと対照的に。式に備える新婦のようだった。
『年齢言ったらびっくりしてたわ、エステの子。「おキレイですね」ってずっと言ってた』
姉の、オフィリア・モンタルトの意図は不明だが、きれいに仕上げられた自身の左腕にマリサは、自身の記憶にはないはずの過去を想い出していた。姉の結婚。新郎新婦と司祭だけの、秘められた――いや、私もいたのだろうか?
「家にかえして」
とうとう彼女は言った。言葉に出して。しかし口が自分のものではないような感じがした。その声はとても小さくかすれていた。
「ダメよ」
姉が応えた。彼女の口を使って。こちらはとても、はっきりとした口調で、
「つかれたからだを整えて、きれいなすがたで会いに行くのよ」と。
「ペトロとアーサーが心配なの」マリサが言った。
「そっちのふたりに興味はないわ」オフェリアは答えた。
「あなたがどこかに飛ばしたんでしょ?」
とここで一瞬会話は途切れたが、それでもすぐに姉は応えた。「ふうん」と小さく鼻を鳴らして、
「ま、でも、やっぱ、もすこし寝ていて」と軽いが有無を言わせぬ口調で、「あの子が一緒なら、あんたの旦那もきっと無事よ」と。
え?
と声には出さずマリサは訊き返した。が、次の言葉が出る前に、
ふっ。
とふたたび、彼女の意識はここで途切れた。そうして――、
*
「なんだ、ここにいたのか?」
そうペトロ・コスタは言った。彼女の意識と切り替わるように。甥のアーサー・ウォーカーに向かって、「いやに静かだから、今度はひとりで飛んじまったのかと想ったよ」
彼らは、例の山へのジャンプから無事帰宅していたが、彼らのマンションにマリサのすがたはなく、ひと晩かけて知り合いに――例の通信障害があってもずっと――連絡を取っていたのだが、誰も行き先にこころ当たりがなく、たまたま彼女らしき人物を見かけた人がいても、
「なんだか別人みたいだったわよ」とのことだった。
「きっと別人だよ」アーサー・ウォーカーは答えた。「おばさんは、“あの女”に操られてるんだ」
「“あの女”?」ペトロは訊き返した。
例の通信障害からこっち、アーサーの様子もすこしおかしかった。光の上を歩ける自分や、遠く千葉までふたりを飛ばしたマリサを棚に上げ、「おかしかった」と言うのも奇妙な話だが、それでも。彼は、なんだかひとりブツブツ言っては、さっきみたいなことを急に言い出し、こちらの質問には答えない。そうして更には、
「それ、俺のパソコンでなにやってるんだ?」
と続けて彼も訊くとおり、アーサーはいま、ペトロたちの寝室に置いてあったノートパソコンを立ち上げると、ものすごい勢いで何事かを始めていたのである。これには彼も答えた。
「街中の監視カメラの映像を見てるのさ」と。
「は?」ふたたびペトロは訊き返した。「カメラ?」アーサーは続けた。
「小さな個人商店とかのカメラは無理だけど、ネット経由で行けるところには、行ってもらってる」と。
「“もらってる”?」
「ほら、ここ見てよ」更にアーサーは続けた。ペトロの質問には答えず、パソコン画面を指差しながら、「交番前のカメラの映像。遠いし、変な服着て歩き方も違うけど、これ、おばさんでしょ?」
たしかに。画面に映っているのはうしろ姿と横顔だけだが、これは彼の妻のマリサ・コスタだ。いや、マリサのように見えるけれど――、
「僕らが助けなくちゃ」アーサー・ウォーカーは言った。「おばさんはきっと、“あの女”に閉じ込められてるんだよ」
そうして――、
*
「山岸?」
と樫山詢吾は訊き返していた。いつもながらの突然の姉の質問に、「いや、聞いたことないけど……」と一応考えてから、「そのひとがなに? 親父かヒトミさんの知り合いってこと?」
ここは、彼らが暮らす樫山家の一階キッチン。詢吾はこれから、昨夜に引き続き、マンガ家仲間のアシスタントに出掛けるため、遅めの朝食を取っているところだった。ヤスコは応えた。
「父さんは分からないけど」と、昨晩見付けた古い写真を弟に見せながら、「“あの人”の知り合いであるのはたしかみたい」
ここで言われている「ヒトミさん」「あの人」とは、ヤスコの実母・柳瀬ヒトミのことであり、彼女に対するヤスコの気持ちは、おおむね第八話で書いたとおりであるが、ヤスコが見せたその写真には、我々もよく知る山岸の家の祖母と赤い顔の男・不破友介、それにその「あの人」が映っていた。詢吾はすこし首を傾げた。
「ふーん?」と姉には気付かれぬよう心の中で、「で? このおばあさんに何を聞くの? ヒトミさんのこと?」
と言うのも、実母に対するヤスコの気持ちをよく知る彼は、彼女が自ら、母親の関係者と連絡を取ろうとしていることがにわかには信じられなかったからである――写真のうしろに手書きのメモが残されていた。
「なんだ、東石神井のひとじゃないか」それは、件の花盛りの家の住所であった。「でも俺、今日も明日も江崎の手伝いで――」
と詢吾は続けようとした――まさか姉ひとりでそこへ出向くとは想っていなかったからである――であるが、
「あ、いや、別にそういうんじゃないのよ」ヤスコは答えた。「ここには私ひとりで行こうと――いや、行った方がいいと想うの。理由は分からないけど、なんだか呼ばれているような気がして」と。
詢吾はふたたび、首を傾げた。
(続く)




