その11
さて。
「前にどこかで会ってますっけ? 私たち?」と、そう訊いておいてから樫山ヤスコは、「いや、でも、そんなはずはない」とこころの中で首を振った。小さく。「絶対、知り合いのはずがないわ」と。何故なら、「こんなきれいな顔だちの人、いちど見たら覚えているはずだもの」と。
そう。
事実、山岸まひろの顔はうつくしかった。
浅黒いが肌理の細かなきれいな肌に、すこしクセのある黒い髪は短くまとめられ、ちいさく盛り上がったおかしな鼻は、整い過ぎた彼女の顔を、整い過ぎないようギリギリのバランスを取ってそこに立っていた。
「いちど見たら、忘れるはずがないわよね」ふたたびヤスコはそう想い、と同時に、ながい長い迷路の先に置き忘れた、痛みや花束といったようなものも一緒に想い出した。
「あのー」ふたたび彼女はこう訊いた。それでも記憶を疑いながら、「前にどこかで、」すこしだけだが言葉を変えて、「会っていませんか? 私たち」
まひろはおどろいていた。喉のかわきが胸の鼓動へと変わり、いまにも手足が踊り出しそうだったから。彼女もずっと、ヤスコと同じ印象を彼女に抱いていたから。なので彼女は、
「そ、そう、僕も――」と、なにかを言い出し掛けた。掛けたのだが、しかし、ふたりのこの出会い、再会は、まだまだすこし早かったようだ――と、どこかで誰かが、作者以外のどこかの誰かは想った。なのでそのため、ここで突然、
ブー、ブー、ブー、ブー、
ブー、ブー、ブー、ブー、
と、まひろのスマートフォンは鳴りはじめ、ふたりの会話は、ここで打ち切られることになった。
*
さて。
そうしてヤスコは取り残された。いつかの恐ろしくも無意味な木曜日のように。ひとりで。目の前のテーブルには、すっかり冷めたパイと紅茶がふたつ並んでいた。
「すみません、樫山さん」と、その電話は唐突だった――誰よ、電話なんてものを発明したのは。「祖母が、急に来るよう言ってるそうで」まひろは続けた。「電話のひとの言い方だと、なんだかとても深刻な感じで――」
ちなみに。
この電話の相手とは、彼女の祖母の友人というか知人というか、祖母の家の居候というか協力者のような存在なのだが、
「お話も途中なのに、すみません。なんだかとても気になって――」と、たとえそれが電話越しでも、純真素朴なひとの心を、不安にさせるなんてな朝飯前で、
「あ、いえ、全然。そんな急用なら、すぐに行ってあげて」そんな彼女の不安に触れた、相手の気持ちも操るのだって日常茶飯。それに、
「あ、」と更にはその十分後、相手の女性・樫山ヤスコに、並々ならぬ後悔の念を感じさせる底意地の悪さをも兼ね備えている――そんな存在なのであった。ヤスコはつぶやく、「スマホの番号、聞き忘れた……」と。
が、もちろん。
この「聞き忘れた」は、物語――じゃなかった、シナリオの進行上必要な「聞き忘れた」なので、そっちの後悔の半分は、作者である私の責任でもあるのだが、それとは別に、問題の電話相手が、なかば面白半分に、彼女に植え付けた後悔の方がヤスコ的にはダメージであった。彼女はつぶやく。ふたたび今度は、「はしゃぎ過ぎてた? わたし」と。
そう。
山岸まひろの顔の美しさについては、先にも述べたとおりだが、それに比べて樫山ヤスコの見た目と言えば、けっして不器量とは言わないまでも、それでも中の中のちょっと上、化粧は苦手で、胸もお尻もぺったんこ。服も地味だし色気は皆無、恋愛経験だって……まあ、数える程度。
なので、そんな彼女が、たまたま相席となっただけの山岸まひろに、積極的に話しかけていた姿は、いい年こいたおば……お姉さまが、きれいな若い子と一緒になった嬉しさに、ついついついついはしゃいでいるようにしか見えないワケで、
「うっわ、やっちまったかも……」と、彼女の顔を赤くさせ両手で両目を覆い隠させるには十分な光景でもあった。「しかもなによ、スマホの番号知りたいなんて、ずうずうしい……」と。
なので彼女は、それからの8分27秒を、先ほどまでの会話を想い返すことに使った。必死で。なんかキモかったり、自身の指向を匂わせたりする――彼女は女性同性愛者だった――発言がなかったかを点検する意味で。
…………、
…………、
…………、
…………、
あ、なのでこの点線は、ヤスコ先生がひとり脳内反省会を行なっている様子を示しています。
…………、
…………、
…………、
…………、
もういいかな?
「あ! ……………………うん、ま、まあ、許容範囲内よね、あれは」
もうちょっと待った方が良さそうですね。
…………、
…………、
…………、
…………、
…………、
…………、
…………、
…………、
えーっと?
「うん」とここでヤスコは目を開いた。今度は両手を、左右の頬に移動させながら、「たぶん、大丈夫」と。
が、まあ、それでも、彼女は引き続き動揺してはいたのだが。
なのでそのため彼女は、なんとか気分を落ち着かせようと、隣に置いた鞄から、読み掛けの本かスマホでも取り出そうとして、「あ、」と小さくつぶやくことになる。「そう言えばこれ、入れておいたんだっけ」
厚いカバーの奇妙な手帳、父の形見の青い手帳が、その手に触れたからである。
(続く)




