その18
「お話はやっと、三分の一が終わったところだ」
と、赤い顔の男・不破友介がつぶやいて嵐は消えた。取り敢えず、佐倉八千代が起こしてしまった負の嵐は。彼女を眠りに落とすことで――そうして?
そう。そうして父親は叫んでいた。彼の娘の名前を、
「ひかり?! ひかり?! おい! ひかり!!」
と電話口で、彼らしくもない取り乱しようで、たっぷり30秒ちかく。
「おい! なにがあった! ひかり!!」
そうして彼が部屋を飛び出そうとした瞬間、沈黙を続けていた娘は応えた。
『――っさと帰るように ……って、え? なに? お父さん? どうしたのよ? いきなりそんな大きな声で』
とまるで何事もなかったかのように。だけれど自分の名を呼ぶ父の声にすこし安心した風に、
『なに? お仕事終わったの? もう帰って来れそう?』
とそのまま夕飯のことや買って来て欲しいもののことを伝え、父親は彼女に、すぐに家に戻る旨を伝えた。動揺を悟られないように、いつも以上の優しい声で――そうして?
そう。そうして刑事はつぶやいていた。ある容疑者の名を、
「戸柱……? え? 戸柱……?」
と室内を見まわし、先ほどまでそこにいたはずの少年の名を。それから、
「おい……どこ行った? 右京? 小張さん?」
と彼は、部屋の片すみにいた同僚と上司に声をかけた。が、彼も彼女も自分同様、目の前の状況に頭が――だけでなく、こころと精神も――追いついていない様子だった。
「左武……? 戸柱は……?」同僚は言った。
「それ……、焼き切れてるんですか?」上司が言った。
逃亡防止のため容疑者に付けられていた腰のロープが、途中で黒く途切れていたからである――そうして?
そう。そうしてそれから、弟は訊いていた。物書きの姉に向かって、
「おいおいおいおい、今度は何を探してんだ?」
と、非難の意味も込めて。
何故なら彼が忘れ物を取りに家に戻ったときその姉が、父親の遺品の整理が済んでいないにも関わらず、新たに家中の棚やタンスをひっくり返していたからである。
「わっかんない」姉は答えた。「わっかんないけど、なにか忘れているような気がするの」
「わっかんないってなんだよ」弟は訊き返した。「わっかんないもん探しても、見付からねえだろ、わっかんないんだから」
が、しかし、それでも彼女は探し続けた。なにかを。それがなにか分からないまま。だけれどそれが、先ほどまで彼女が見ていた夢、その夢の中で彼女が見落としていた、見逃していたものであることは分かっていた。弟は言った。いつものことだと諦めて、
「まあ、だったら探すのはいいけどよ、ちゃんと後で片付けとけよ」
分かったと姉は応え、弟は友人の家へと戻って行った――そうして?
そう。そうしてそれから二時間半後、彼女は見付けた。義母の仏壇があるタンスの引き出しに。その奥の奥に。古ぼけた一枚の写真として。
「あれ……?」
彼女はつぶやいた。何故なら、彼女はその写真に見覚えがあったが、どこで見たかの記憶がなかったから。そうしてまた、それが探していたものであることはすぐに分かったが、それがなにかが分からなかったから。
そう。写真の中には母がいた。彼女の実の母親が。アルミフレームのメガネをかけた鼻の長い老母と、黒いあごひげと赤い肌をした中年の男と並んで、彼女によく似た雰囲気を持つその女性が――そうして?
そう。そうして街の預言者は夢を見た。三つの夢、三つのビジョンを。
*
「おやすみ、かわいいお嬢さん」
ひとつ目の夢、ひとつ目のビジョンは、ひとりの少女が壁に磔にされているビジョンだった。以前の預言と同じ高校の教室。あれより時間は戻るのだろうが、美しいドレスを着、細身の男に首を持ち上げられていた。呼吸は残っているようだった。彼女が? 祝部さんの娘さん? 彼は想うと、男と少女の顔を確かめようとした。が、
「ぐっすり眠ると――」
そう言い掛けた男の目がこちらを向いた。暗いハンチング帽の奥から、まるで彼の存在に気付いたかのように。咄嗟に彼は後ろに下がった。爆撃で融けたガラスのかたまりのような瞳だ。と彼は想った。男は続けた。ガラスの瞳をふたたび少女に向けて、
「ぐっすり眠るといい」落ち着いた、聖者のような声だった。「“それ”は、俺がもらってやる」
時計のカチコチ音が時を刻み、少女の呼吸は消えて行った。とおくの何処かで少年たちの笑い声がひびき、少女の命の消える音が聞こえた。そうして――、
*
『我は罪人にて嘆き、
我が過失を赤面して祈る。
我は罪人にて嘆き、
我が過失を赤面して祈る。』
ふたつ目の夢、ふたつ目のビジョンは、彼の住む街が光と影の嵐に飲み込まれ消え去ろうとしている場面だった。これまでにも何度か見て来た風景だったが、これまでと違っていたのは、どこからかグレゴリオ聖歌の一節がくり返し聞こえて来たことであった。その嵐の中心、そこにいる人物により近い場所にいたために。
『我は罪人にて嘆き、
我が過失を赤面して祈る。
我は罪人にて嘆き、
我が過失を赤面して祈る。』
彼は、その人物に出会ったことがあった。光と影と嵐の中で顔はよく見えなかったが、それでも彼女だとすぐに分かった。首に奇妙な碧いペンダントを下げていた。
『我は罪人にて嘆き、
我が過失を赤面して祈る。
我は罪人にて嘆き、
我が過失を赤面して祈る。』
グレゴリオ聖歌がくり返され、彼女の命の燃え尽きようとしているのが分かった。
*
『呪われたもの、呪わるる者を退け、
はげしき火に、処され給わんとき。
呪われたもの、呪わるる者を退け、
はげしき火に、処され給わんとき。』
みっつ目の夢、みっつ目のビジョンは、彼の住む街が炎に包まれている場面だった。先ほどの光と影のビジョンによく似ていたが、この預言ははじめて観るものだった。ふたつ目のビジョンと同じようにグレゴリオ聖歌がくり返し聞こえていたが、しかしこちらは、また別の一節をくり返しているようだった。彼は気付いた。周囲に燃える丸太のようなものがいくつも転がっていることに。これらが街を、炎に包もうとしていることに。
『呪われたもの、呪わるる者を退け、
はげしき火に、処され給わんとき。
呪われたもの、呪わるる者を退け、
はげしき火に、処され給わんとき。』
その中心にもひとがいた。こちらは小さな青年のようだった。彼のまわりにも燃える丸太のようなものがいくつもあった。燃え始めたばかりなのだろうか、転がることもなく二本の足で立っていた。それは、自ら燃え炎を上げる生きた人々であった。
「戸柱ッ!!!」
とおくの何処かで男性の叫ぶ声が聞こえた。が、直ぐにそれは炎の音でかき消された。誰かが歌った。小さな声で。
『呪われたもの、呪わるる者を退け、
はげしき火に、処され給わんとき。
呪われたもの、呪わるる者を退け、
はげしき火に、処され給わんとき。
恵まれるもの、彼らとともに
我も招きたまえ。』
(続く)




