その16
プルルルルルルルルッ。
と、佐倉八千代と木花エマが森永久美子の死を認識する少し前、祝部優太と小紫かおる、それに石橋伊礼がいるビルの一室で、その電話は鳴った。
この部屋は、優太とかおるが所属する会社の持ち物で、都内および関東周辺に点在する彼らの活動拠点のひとつだった。
その為、ここに置かれた固定電話への通話も、その他の拠点に置かれた固定電話同様、同一の番号に掛けることで可能となっていた。
そう。それはつまり、いま、この電話を掛けて来た相手・祝部ひかりは、父・優太がこのビル、東京と埼玉の境に立つこのビルにいるとはまったく想定しておらず、都内の、いつも彼が通っているとされる会社のビルに居ると想って電話を掛けて来ていた、と云う意味である――電話に出たのは、小紫かおるであった。
「もしもし? ※※事業部ですが?」
『あ、遅くにすみません。私、そちらの部署の祝部優太の娘でひかりと――』
「お嬢さん?」驚いた声でかおるは言った。優太の方をふり向きながら、「どうかされたんですか? 突然。小紫です」
『え? あ、小紫さん?』ひかりは応えた。『よかったー、知ってる人で』と途端に砕けた口調になって、『それがー、お父さんに連絡入れたいんですけど、携帯つながんないんですよ、あのひと』
「え? あ、そうなんですか?」かおるも応えた。優太を見ると、スマホを指差し首を横に振っている。どうやら電池切れか、確認漏れのようである。「あー、それがですね」とかおる。咄嗟のウソを考えながら、「部長にちょっと急な来客があって、そっちの打ち合わせが延びているようでして――」
ひかりの用事は他愛のないものばかりだった。母親がご飯をどうするのか訊いているとか、帰りに買って来て欲しいものがいくつかあるとか、結局文化祭には来るのか来ないのかとか、色々。メールやチャットで済ませられないこともないのだろうが、すぐに返信のなかったこと、電話に出てくれなかったこと等もあり、彼女は彼女で不安――と言うほどでもないが、なにか寂しい気持ちになっていたのである。
「はいはい。分かりましたよ、ひかりさん」かおるは応えた。噴き出しそうになる自分を必死で抑えながら、「部長には私が責任持って伝えておきますから、ご安心下さい」
たとえ彼らが贋物の親子であっても、こんな彼らのやり取りはかおるにとってはとても羨ましく、またほほ笑ましいものでもあった。
『すみませんね、小紫さん』ひかりが言った。『きっと今日も残業に付き合わされてるんでしょ? あのひとの』
「ああ、まあ」かおるは言った。優太の方をほほ笑みにらんで、「半分はそんな感じですかね」
優太は、人差し指を口に当て、何か言いたそうな石橋伊礼を牽制している様子であった。会社人間ではない、子を持つひとりの親として。
『小紫さん?』ひかりは続けた。父親への愚痴とも悪口とも感謝とも付かない言葉を、若い子特有の取り止めない口調で。そうして、『ほんと、たまには早く帰って来るよう言ってやって下さいよ、小紫さんのためにも』とも。
「はいはい」かおるは応えた。「でもね、ひかりさん」と彼には珍しく本心に近いトーンで、「お父さまは、本当によい方ですよ」理由は決して言えないが、「だからこそ、私や深山も、部長に付いて行っているワケですから」
先ほど優太が彼女のために、伊礼に頭を下げていた場面を彼は想い出していた。ひかりは応えた。必死で言葉を探しながら、
『ありがとうございます。小紫さん』しかしすぐに恥ずかしくなったのか、すこしの間を置いて、『でもでも、でもですね』と、いつもの彼女に戻りながら、
『あんまり甘やかせるとやっぱりダメですよう』とか、
『昨今のコンプライアンス状況を鑑みるとですね』とか、
『千島さんだってあんなにキレイでカワイイのにあんな親父に遅くまで付き合わされてカワイソウですよ』とかなんとか、
頭よりも口の方が速く回ってしまうのだろう、自分でも何を言っているのか分からないまま、想い付くままというか口が動くままというか、ペラペラペラペラペラペラペラと喋るひかりであった――が、しかし、ここで“それ”は起きた。
“ォァアァアァアァアァ。”
と、“それ”は、こちら側のかおるにはそう聴こえただけであった。が、直後、
『ですからあのオヤジには、さっ――』
と、その音に合わせるように、ひかりの言葉は途切れた。
「ひかりさん?」かおるは訊いた。が、返事はなかった。
「ひかりさん?」もういちど訊いてみた。が、
“アァァアァアアォァアァアァ”
と電話からは、何かの波のうねりのような音が聞こえて来るだけだった――いや、たしかに回線は繋がっていた。
「どうした?」優太が訊いた。奥のテーブルから立ち上がり、「おい、かおる、何かあったのか?」
が、もちろん、この質問にかおるが答えられるハズもなく、またそもそも、直接この現象を経験した人々、だけでなく、彼らの周辺にあった電子機器類、記憶媒体も、それを保存することは出来なかった――現象の範囲は、石神井公園記念庭園付近を中心に概ね半径1km。現象が起きた長さは丁度、49.57秒だった。
*
ト、ォオーーーーーーーーン。
それは、とおくの空で、ほそくてかたいナニカの弦が切れる音によく似ていた。そうして、それに続くように聞こえた、
コ、ォオォオォォォォォォォオォォォオン。
という音は、氷で出来たナニカの社にひびき渡る、奇妙なコインの倍音によく似ていた。そうして、
「だめ! ヤッチ!」
と木花エマは叫んだ。彼女の方をふり返り、彼女に“それ”を見せてはいけないと、彼女に駆け寄りながら――が、しかし、
「アァ、」
と彼女は叫んだ――どうして?
彼女が“それ”を見てしまったから。
“それ”って?
彼女が絶対に見てはいけないもの。
“見てはいけないもの”?
手足を折られ、『窓』に半分にされた森永久美子の遺体を。
“遺体”を?
「アァァアァア!」
彼女は叫んだ。続けて。声にならない声を。声にしたと同時に二重抹消線を引かれるあの声を。闇にひびき、誰とも共有されることのないあの声を。
「ヤッチ!!」
木花エマは叫んだ。ふたたび。
が、彼女の手は、彼女にまで届かなかった。電話に気を取られ過ぎていた。と彼女は後悔する。何故なら――、
ォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアアァアァアァ ォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアアァアァアァ ォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアアァアァアァ ォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアアァアァアァ ォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアアァアァアァ ォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアアァアァアァアアォァアァアァアァアァアァァアァアアォァアァアァアァアァアァァアアァアァアァアア
と、沈黙の音、暗闇の音、黒い扉の奥に潜ませておくべき彼女の負の想念が、あまりに強力なその共感能力および精神感応能力によって、街に、森に、周囲の人々にひびき渡ったからである。彼女の友人・佐倉八千代を中心に、概ね半径1kmの範囲で。
(続く)




