その14
そう。
そうしてヤスコは夢を見た。
いや、正確に言うと、彼女の能力が働き始めたということなのだが、その自覚がない彼女にとってそれは夢と変わりがなかった。
きっかけは父の手帳と彼のリスト、赤毛のタイムトラベラーとの再会、それに「ヤマギシ・まひろ」という名前だった。
一瞬、ある家のソファで眠る自分の姿が想起された。それは見たことはあるが記憶から消去させられている花盛りの家の居間だった。彼女は泣いていた。眠りながら。彼女の横に誰かいた。彼女は目を閉じたまま、その誰かのため息を聴いていた。彼女の望みを叶えてあげられないその人の後悔を。彼女は言ってあげたかった、後悔する必要はないのだと。が、しかし、ここで彼女の意識は飛ばされる。何故ならこれは、彼女の過去の記憶で、夢でもなければ彼女の能力が見せているビジョンでもなかったから。能力が働き始め、彼女は飛んだ。花盛りの家の居間から、先ずはある病院へと。
*
「それで僕らはシェルターを出ました」ベッドの中の少年が語っていた。毛布を頭から被り、「そこはまるで月の表面のようでした」と。
そこには丸太のようなものがいくつも転がっていたが、それは爆弾に焼かれた人々の死体だった。そう彼は言った。彼の話を聴いているのはヤスコだけではなかった。ベッドの横に中年の看護師がいた。彼女は毛布越しに彼の背中をなで、ただただ、「うん」とか「そうね」とか「大変だったわね」とつぶやくように応えていた。
少年は月の表を歩き、川を目指した。途中、友軍の偵察機が彼らを見付けたが、手を振る少年に彼らは機銃を向けて来た。敵味方の区別は既になくなっていた。
「そうね」看護師は続けた。「それは大変だったわね」少年は声も出さずに泣き、そうしてヤスコの意識は飛んだ。今度はどこか山深い奥の村へと。
*
「いけません、司祭さま」老婆が言った。彼女はその村の世話役だった。「あの子は自ら命を絶ったのです。司祭さまに葬儀をして頂くなど、決して許されません」
司祭は老婆よりも年寄りで手足は細く、“あの子”の家の前で老婆に押し止められていた。彼の背中にはいまなお途方もなく大きな月が昇っていた。
「せめて、祈りの言葉だけでも」彼は願った。
「とんでもございません!」老婆は答えた。お分かりになるでしょう? と。「これでも典礼に許される限りのことは行いました。司祭さまがなんとおっしゃろうと、これ以上のことをしてもし地区の教会にでも知られれば、この村全体がお咎めを受けます」
死因に不審な点がある限り、教会の領する土地に埋葬すること自体もってのほか、最後の審判が訪れるその日まで、打ち棄ておかれるのが本来でしょうに、と。
「しかし彼女は、」司祭は言い掛けて口を閉じた。扉の向こうに“あの子”の父と飲んだくれの兄の姿が目に入ったからだった。司祭はうなだれ、ヤスコの意識は飛んだ。今度はその日の翌日に。小さな男の子が歌っていた。泣きながら、“あの子”の墓地のそばに座って。
*
『巡礼の それその姿 いじらしく
その人 いまは昔と あの世へと
その人 いまは昔と たび立ちぬ
青草も 今は繁りて トビは舞い
爪先に 立てる墓石 こえもなく。』
*
彼はひとりで、村の者から隠れ、花輪をつくり、かざり、どこからか持って来た小さな鐘を鳴らし、うろ覚えの祈りをあげていた。涙は彼の想いに従ってはくれなかった。父親や村人たちの言うとおり、彼女が地獄に行ったとは彼(あるいは彼女)には到底信じられなかった。彼女(あるいは彼)は想った。「お姉ちゃんは、きっとあっちで天使になっている」
*
そうしてヤスコの意識は飛んだ。飛び続けた。彼女の記憶にないはずの時間や空間や人々の生活の中に。これが彼女の能力だった。
彼女は、美しい双子が両親の家から逃げ出す場面とすれ違い、成長したその姉が許されぬ恋に堕ちるところを見た。魔女狩りの村とその処刑人。炎に包まれる女とその姿にこころ奪われる男の声を彼女は聞いた。
そう。彼女、樫山ヤスコの能力、それは、物語を語る能力――いや、もっと正確に、『想い出し、語る能力』であった。
彼女のこの能力については、また別の物語に詳しく書いておいたので(注1)、その詳細は省かせて頂くが、要は彼女は、この世界のあらゆる時空――だけではなく、あらゆる並行世界、あらゆる多元宇宙のあらゆる時空――へアクセスすると、その世界の人々と繋がり、話し、語り合い、彼らの身に起きたあらゆる物語を想い出すことが出来たのである。
そう。そうしてだから彼女は物書きになった――なってしまった。
何故なら、彼女の書く小説、いや物語は、彼女が繋がり、話し、語り合った彼らの想い出や希望を、いつかどこかの何者かに伝え繋げるための、決して忘れさせないための、そんな一種の道具であったから。
が、ただ、彼女のこの精神的時空間旅行は、例えばミスターのタイムスリップや石橋伊礼の預言能力同様、あくまでランダム的、痙攣的、行き当たりばったり的であり、且つ彼女の性格を反映してか、それとも彼女の精神の安定を保つためか、あくまで彼女の意識の外、あるいは彼女の無意識のもとで行なわれていた。彼女自身は、その繋がり、話し、語り合った記憶を、夜に見た夢、あるいは昼間に見た彼女の空想の産物であると想っていた。想い込んでいた。少なくとも、今回のこのトリップに遭遇するまでは――車のラジオから女性たちの歌声が聞こえた。賑やかなタンバリンとともに。
『墓の上には古いイラスト。
砂のダンスを彼らはおどる。
それを見かけた異国の人は、
シーシャ片手にこうわらう。』
彼女は気付いてしまった。これは先ほどの夢の、いや、現実の続きだ。ミスターと再会する前に見ていた彼女、いや、彼女の父・昭仁の現実の。そう。何故ならそこは真夜中で、小紫かおるから見せて貰ったエジプトの、オールドカイロの風景にそっくりで、彼女と彼女の父、それに顔の見えない痩せぎすの男以外ひとかげはなかったから――ラジオは歌い続けていた。きっと、エジプト人のように歩きながら。
『金を手にした日本人。
パーティーボーイはパレスに電話。
事情を知るのは中国人。
ドーナツショップの警察官。
彼らはわらう。いっせいに。』
彼女は目をそらした。誰から? 彼女の父親から。どうして? 何故ならここが真夜中のオールドカイロで、それは小紫かおるから見せて貰ったエジプトの、彼女の父親が殺された場所と同じ場所であったから――痩せぎすの男が笑っていた。静かに。音も立てずに。嬉しそうに。
父の身体は磔にされ、月明かりに照らされたその皮膚からは既に血の気は失せていた。男は歌っていた。ラジオに合わせて、つぶやくように――「エジプト人のようにあるこう。」
『それを見かけた異国の人は、
シーシャ片手にこうわらう。
ウェイ・オウ、ウェイ・オウ、
ウェイ・オウオウオウオウォ、』
「エジプト人のようにあるこう。」
男がこちらを見た。いや、見えているはずがなかった。しかし、確かにヤスコと目が合った。目深に被ったハンチングのせいではっきり顔は見れなかったが、それでも。目が合った感触だけは確実にあった。男は細身で、背が高く、手足はひょろっと伸びていて、顎の辺りが朱く染まっていた。きっと父の返り血だろう。男は笑った。つぶやくように。そうしてとても、嬉しそうに。
「ウェイ・オウ、ウェイ・オウ、」そうして、「エジプト人のようにあるこう。」と。
(続く)
(注1)樫山泰士製作の中編小説『SHEEP:ヤスコ先生の恋人』のこと。




