その9
カチリ。
と時間と空間が固定される音がして、樫山ヤスコは、父・昭仁が誰かと話している声を聞いた。彼は言っていた。
「それじゃあ、山岸さんのところへ?」と。誰に? ヤスコの実の母親に、「あの人とは縁を切るんじゃなかったのか?」と。
「事情が変わったのよ」ヤスコの母親は答えた。「こんなの、あの魔女に頼るしかないじゃない」ヤスコは想った。
『あ、やっぱりね』と。『これも、私の記憶にない夢なんだわ』と。
なぜなら、ここはいまもヤスコが住む彼らの家で、だけれど父も母もずうっと若く、そうして母は、今まさにこの家を出て行こうとしているところだったから。ヤスコは想った。
『よりにもよって、この人の夢なんて』と。
ヤスコの父と母がとおい昔に――ヤスコがずうっと幼かった頃に――離婚していたことは前にもすこし書いたが、母が家を出る数日前から彼女は、初台の伯母(父の姉)の家に預けられており、彼女がこのシーンを見ているはずはなかった。父が続けた。
「しかし、別に今夜じゃなくても」云々かんぬん。「せめて最後にヤスコにひと言――」
『いいわよ、父さん』ヤスコは想った。彼女は母を恨んでいたから、『どうせこのまま、ずうっと会わないんだから』と。
それからヤスコの実母・柳瀬ひとみは、昭仁の顔を一瞥すると、そのうしろに立つヤスコの気配にも一瞬気付いた様子であったが、それでもそのまま無言のまま、古びた絨毯地の旅行カバン片手に彼らの家を出て行った。ヤスコはつぶやいた。
『ふん』そうして、『ほらね、やっぱりね』と。
ヤスコと彼女はよく似ていた。容姿というよりはその雰囲気という意味で。ふたたび彼女はつぶやいた。誰に助けを求めるでもなく、
『エジプト人のようにあるこう。』
父は母の後を追おうとはせず、ひとり書斎へと戻って行った。ヤスコも、彼の後を追い書斎へ入ろうとして、そこで扉は閉められた。強く、しっかりと。圧倒的な断絶。彼女はその場にくずおれた。突然。足にも腰にも力が入らなくなった。それはまるで、小さなボロや布切れや、嵐の予兆を受けた塩の柱のようだった。彼女はつぶやいた。今度はハッキリと、助けを求める子どもになって。
『ミスター……』と。
カチッ。
そうして時間は停止した。ふたたび。停止して、圧縮して、今度はほんの少しだけ下って行った。いつに? ヤスコの九才のイースターの夜に。どこへ? 彼女とミスターが初めて会ったあるホテル、その地下二階のエレベーターホールへ。
*
「ダメだ! ヤスコちゃん!!」ミスターが叫んだ。誰に? 九才の頃のヤスコに。彼女の目をふさぎ、手もとのタブレットのスイッチを切りながら、「ごめん、おそかった、見てないよね?」
「うん」九才のヤスコは応えた。しかし、彼女の膝と肩は震えていたので彼女は、ミスターの服のえりをギュッとつかんだ。「あのひと、なんであんなことしたの?」
彼らはいま、そのイースターの夜にいて、ある人物を探しているところだった――が、この夜の顛末については別の物語に詳しく書いておいたので(注1)、今回は端折らせて頂くこととして、簡単に概要だけ書いておくと、この夜、例の『修道士たち』との契約によりこの時代へと飛ばされて来たミスターは、そこで偶然……か必然かは分からないが、家族とともにここへ来ていたヤスコと遭遇、互いに協力し合い、先述のある人物――戦争で傷を負い、拳銃自殺を決行するはずだったある男――のこころと魂を助けることになるのであった。そう。つまり先ほどミスターがヤスコの目から隠したのは、彼らが男を助けられなかった場合の未来、彼らが使命を果たせなかった場合に訪れていたであろうその未来であった。
カチッ。
とここで時間がすこし進んだ。もちろん夢の中でだが。
コンコン、コンコン。
とノックの音がホテルの廊下に響いた。問題の男の部屋を、ミスターが叩いた音であった。
くすっ。
とここで現在の、夢を見ている方のヤスコは笑った。『これは、確かに私の記憶にある夢ね』と。
コンコン、コンコン、コンコン。
ふたたび、こんどはすこし強めに、扉を叩く音が聞こえた。室内の男からなんの応答もなかったから――が、もちろん、このすこし強めのノックにも、室内からの返事はなかった。
「うーん?」
ミスターはうなると、さらに強く、もっと力を入れて扉を叩こうとしたのだが、その時手にしていた大量の食糧――ホテルの宴会場から盗んで来たパンやお寿司やコーヒーゼリー――が落ちそうになるのに驚くとそれを止め、すこし考えるふりをしてから、こちらを見つめる大人のヤスコに気付き、それからにっこりほほ笑んで、
「ヤスコちゃん、ぼくの手をにぎって」
と彼女に向かって言った。ヤスコはよろこび、彼の手を握ろうとしたが、
「どうするの?」
と子ども時代のヤスコが言って、その手は彼女に取られてしまった。ヤスコは苦笑し、彼女のことを憎らしくも想ったが、それでも、その時にぎった彼の左手、すこし震えるその手の感触を想い出し、出し掛けていた手を引っ込めた。
「すこしの間、目をつぶって、」ミスターは言った。昔の彼女に向かって、やさしい声で、「それから、あるく」
「壁があるわ」子ども時代のヤスコが言った。
「壁もぼくらも、量子のゆらぎさ」彼は応えた。
「“りょうし”?」ヤスコは訊き返した。
「いいから」ミスターは続けた。「目をつぶって」とふたりのヤスコに向かって、「ぼくを信じて」
『信じてるわよ、ミスター』大人になったヤスコは応えた。
「いいって言うまで、目を開けちゃダメだよ」
それから彼らは、手をつないだまま目の前の壁へと、問題の男の部屋の中へと消えて行った。しばらくすると中から、
「いいよ、目を開けて」とささやくミスターの声が聞こえ、
「どうやったの?」とおどろくヤスコの声が続いた。
『ミスター……』ふたたび彼女はつぶやいた。壁のこちら側で。とおり抜けられないかとも考えたが、それは止めておいた。おさない自分がうらやましかった。そうして、
『ミスター……』とみたび彼女はつぶやき、
ジリリリリリリッ。
という電話の音が、彼女の夢を終わらせた。
(続く)
(注1)樫山泰士製作の中長編『カトリーヌ・ド・猪熊のバラの時代』の第一話「ときを見た少年」を確認のこと。




