その8
「ありがとうございましたー」
明るい顔で八千代が言って、ハンチング帽の男は店を出て行った。無言で。軽い会釈だけして、改めて店内を見まわすことなどもせずに。八千代はつぶやいた。
「ふむ――いよいよ閑古鳥だわ」
と言うのも、ハンチングの彼が帰ってしまったせいで、ただいま現在残ったお客は、ひき続き絵を描いている森永久美子と、読み始めた恋愛小説がよほど面白かったのだろう、少女のように赤く頬を染め目に涙をためている、太ったスーツの男性だけであった――であったので、
「やっぱりプロの方はちがいますよねー」
と、いつもなら厨房から出ることのない木花エマも、よっぽどすることがないのだろう、森永久美子のうしろに座って、彼女の描くスケッチ画を興味深そうに眺めているところであった。「ほんと、なんにも見ないでよく描けますよね」
森永の直観像記憶については前に書いたとおりであるし、エマが美術大学の一回生であることも結構前に書いたとおりであるが、デッサン力のあれやこれやはさておき、実物や写真資料その他を見ながらでないと描けないエマにとって、想像で描けるマンガ家や、記憶を基に絵を仕上げて行くいまの森永の姿などは、興味と憧れとインスピレーションを同時に与えてくれる特別な存在であったし、また、それに加えて、
「でもでも森永さん、ちょおっとヤッチを美化し過ぎてません?」
自分もあの子をモデルに絵を描くことはあるが、鼻はも少し上向いてるし、おでこだってもっと広いし、そんなお上品なお口はしていませんし、ああ、あと、それに、
「背が高いから仕方ないんですけど、やっぱ気持ち猫背ってるんですよね、あの子」
が、しかし、エマのこの言葉に森永久美子は、改めて自身の記憶を見直してみたが、それでもただただ、「そう……ですかね?」と、首を傾げて答えるだけであった。
もちろんこれは、森永の記憶が間違っていたワケでも、彼女のデッサンが狂っていたワケでもなかったし、そのことは、いまの彼女の態度からはエマにもよく理解出来たし、なのでそのため彼女は、
「まあ、でも」と嬉しそうにニヤつくと、彼女の肩に顔を乗せ、「森永さんの目には、あの子がそう見えてるってことなんでしょうね」と、ささやくようにつぶやいた。「あの子、ゾウガメ並みに鈍いんで、いろいろ大変でしょうけど、応援してますからね、わたし」
そうつぶやいたのだが……ダメだよエマちゃん、それは。相手見てから言わないと。
「え?」と言うことでここで森永さん。描く手を止めると彼女の方をふり返り、「えっ?」とエマに訊き返した。目を大きく見開いて、「えっ?」
するとエマちゃん、こちらも大きく目を見開いて、
「あれ?」と乗せてた顔をそこから離し、「あれ?」それから後ろに身を引いて、「あっれえ?」
すると今度は、そこに、タイミングの悪いことに八千代が、
「ねえねえ、どしたの? なんの話?」とレジから戻ってふたりに訊いた。「ってか森永さん、なんか顔赤くないですか?」
それから彼女はそのまま、問題のゾウガメ並みの神経回路でもって森永の顔をのぞき込むと、
「冷房が弱いのかな?」とか、
「お水持って来ましょうか?」とか、
「熱は……うーん? なさそうですね」とか、
そんなこんなを言いながら森永さんのおでこに手を当てちゃったりなんかもするもんだから、彼女の顔はさらに赤く、赤く、あかーくなって行くのだが――、
カラカラカラン。
とここでようやく、例のハンチング男がいなくなったせいでもあろうか、
ドヤドヤ、ドヤドヤ、ドヤドヤドヤ。
と、この店の常連、一見、通りすがりの人たちが一斉にお店へはいって来て、
「あー、おなか空いた。八千代ちゃん、ナポリタンちょうだい、大盛りで」とか、
「あ、僕カレー。コーヒー付きで」とか、
「あの、ほら、あれ、この前食べさせて頂いた、あの、丸くて、甘くて、美味しくて、上にサクランボが乗っている美味しいの」とか、
まあ、これまで止まっていた客の流れが一気にもどって来た形となり、
「あ、はーい、すぐ行きまーす」と八千代は仕事に戻って行くし、「じゃあ森永さん、熱はなさそうですけど、気を付けて下さいね」
「なんか、あの、その、森永さん?」とエマはエマで申しわけなさそうに厨房へと戻って行くわけで、「なんか、私の勘ちがいとかなら、気にしないで下さい。すみませんでした」
と作者も予期していなかった、ふたたびまさかの百合展開も、どうやらここで、一旦ストップとなるようであった。そうして――、
*
そう。
そうしてここで、時間と空間はマルッと切り替わる。いつに? いまから数年前の春に。どこへ? それは成田空港第一ターミナルへ。
そう。
いまから数年前の春。樫山昭仁は、成田空港第一ターミナルで、なにやら調子っぱずれのカルテットを聴いていた。歌っているのは彼の同僚。彼ら男性四人組は、これからエジプトに向かう昭仁のため、旅路が平安となるように、その歌をうたっていたのである。
が、まあ、この歌のどこに、『旅路の平安』を望む、あるいは想起させる部分があるのかはまったく持って不明だが、彼らがうたったこの歌――タイトルは忘れた――の歌詞は、おおむね次のようなものだった。
*
『墓の上には古いイラスト。
砂のダンスを彼らはおどる。
あまりに素早くおどるので、
倒れる様子はドミノのよう。
それを見かけた異国の人は、
シーシャ片手にこうわらう。
ウェイ・オウ、ウェイ・オウ、
ウェイ・オウオウオウオウォ、
エジプト人のようにあるこう。』
*
『シーシャ』とは要は水タバコのことで、歌は、このような意味不明の、意味があるのかないのかさえ意味不明の、歌詞によって組み立てられていた。彼らは続ける。一層グルーブを上げて、
*
『金を手にした日本人。
パーティーボーイはパレスに電話。
事情を知るのは中国人。
ドーナツショップの警察官。
彼らはわらう。いっせいに。
ウェイ・オウ、ウェイ・オウ、
エジプト人のようにあるこう。
ウェイ・オウ、ウェイ・オウ、
エジプト人のようにあるこう。』
*
歌に合わせて彼らは踊り――まるでエジプト人のように――それを見た昭仁も大いに笑っていたし、そうして、そんな彼らの様子を樫山ヤスコは見つめていた。裸足で。部屋着のままで。すこし離れた宙に浮かんで。奇妙な顔をして。作者同様歌詞の意味も分からないままに、彼女は想った。
『あ、これは夢なのね』そうして、『でもこれ、私の記憶にはない夢よね』
何故ならこの日、昭仁がエジプトに向かったとされるこの日、彼女は出版社の打ち合わせに出ていたからであるし、それにそもそも、この日この時――だけではないが――彼が世界のどこにいるのか、彼女も彼女の弟の詢吾も、ほとんどまったく知らされてこなかったからである。彼女はつぶやいた。カルテットの真似をして、
『エジプト人のようにあるこう。』
そうして歌はおわり、仲間内だけの拍手が聞こえた。昭仁はゲートをくぐって行った。そのためヤスコも、彼に合わせてゲートをすり抜けようとしたのだが、
カチッ。
とここで夢は突然停止。そのまま時間は圧縮されては更に遡り、これまた彼女の記憶にない場所と時間へと彼女を移動させた。
(続く)




