その7
プップー。
とおくの何処かで車のクラクションが鳴り、そうして、
プップー!
と今度はすこしいら立った様子で、その誰かのクラクションは鳴った。
すると、この誰かのクラクションに巻き込まれるように彼女は、ハッと顔を上げると周囲を見回した。
が、しかし、相変わらずの店内はガッラガラのスッカスカで、目の前の森永久美子以外、太ったスーツの男性も、ハンチング帽の細身の男も、ひとりはゆっくり本を読み、ひとりはじっと窓の外を眺めていた。
「八千代さん?」森永がこちらをふり向き彼女を見た。
彼女の手の中の景色――彼女が描いたこの春のスケッチ――は、いまだ七割ほどの出来であり、また、単なる白黒の鉛筆書きでもあったのだが、それでも、それはまるで、本物のさくらの林の下、本物の佐倉八千代が立っている、そんな風景にも見えた。
「ちょっと、きれいに描きすぎじゃありません?」恥ずかしそうに八千代は訊いた。
「そうですか?」意地悪そうに久美子は応えた。「でも、きれいでしたよ、八千代さん」本当に、「少なくとも、私にはこう見えました」
森永の言葉にウソはなかった。
と言うのも、これも前にも書いたとおり、彼女が極端な直観像記憶――これまでに見たすべてを、その細部に至るまではっきりと想い出せる能力――の持ち主だったからである。
まあ、だからもちろん、そこに彼女の主観(八千代がきれいかどうかとか)が入り込むのは避けられないわけだけれど――そのため、
「もうもうもうもうもう」
バンバンバンバンバンッ。
と、八千代は森永の背中を叩くことになる。顔を真っ赤にして、
「なにも出ませんよ、そんなおだて立って」
と言いつつ、銀のトレイで顔を隠しながら。
と言うのも彼女は、いつもの例の能力――こちらは極端な共感感応能力――で、森永の言葉にウソがないことを感じ取ってしまったからである――そのため、
「もうもうもうもうもう、そうやってからかってばっかり」
と恥ずかしさのあまり森永のもとを離れ、厨房へと戻って行く佐倉八千代であった――が?
確かに。いま見て頂いたとおり、この日の彼女にもいつもの共感感応能力は働いていた。が、しかし、そんな彼女のこの能力からも見事にその正体を隠しているものがいたのも確かであった。
「すみませーん」奥の席からハンチング帽の男が彼女に声をかけた。「お水のお代わりもらえますか?」
「あ、はーい」彼女は応えた。「すぐ行きまーす」
そうして、そのためこの日、彼女がその男の悪意、いや、底の知れない絶望に気付くことはなかった。
どんな能力を使っているのかは分からないが、男は細身で、背が高く、手足はひょろっとしていて、今日は濃い目の青のデニムシャツを着ていたが、目深に被ったハンチング帽は以前と同じ――パウラ・スティーブンスを襲ったときと同じ――灰色のものだった。
*
手帳を見付けて部屋に戻ると詢吾はいなくなっていた。すでに自分で試したらしく、問題のフラッシュメモリを抜きさえすれば、入れ替わり立ち替わりを続けるこのプログラム画面も消えて見えなくなる、とメモに残しておいてくれた。
「“Shinji? 灰原?”」
立ち上げられたままのパソコンを――そこに置かれたリストの一番上を――確認しながら彼女はつぶやいた。
「偶然……? じゃないわよね」
イスに座り、見付けて来た手帳――父の遺品のひとつ、意味の分からない文字が並んだ、防弾聖書型の手帳――の該当箇所を開いた。
様々な言語で書かれたとても読み難い文字たちの中で、問題の『灰原』の文字だけは、それでもしっかり、はっきりと見えていた。
「よほど重要だと考えたか、それとも……」
そうして、その意識を持って、目の前のリストと父の手帳とを比べて見ると、いままではっきりとしていなかった手帳の文字が何を示しているのかが分かった。
「これ……、このリストと同じひとたち?」
そう。手帳に書かれた意味不明な文字たちの一部は、このプログラムがリスト化した人たち、その名前を、急いで、あえて言えば興奮気味に、父・昭仁が書き写したものであった。
そうして、先にも書いたとおり、リストの文字は、平仮名だったり片仮名だったり、数字だったりキリル文字だったりが、決められたルールもなくランダムに、だけれど精緻かつ精確な何かの意思を持って、現れては消えるをくり返しつつ――まるで活版印刷工が、世界中の文字からひとつずつ文字をつまみ出すようにして――彼らの名前を形成しているものだったので、それをそのまま下手くそな走り書きで写した昭仁の文字が、人の名前を意味しているとは、一見しただけでは分からなかったのである。
そう。それは例えば、かなり読みやすいものでも、「灰原神士」なら「Shinji・灰原」に、「ナツヒコ・アンドウ」なら「나츠히코・安dou」と言った具合に表記されており、そうしてもっと例えば、「Куми子・Моринага」が意味するのは「森永久美子」であったわけだが、もちろん、いまのヤスコにそこまで――リストに森永久美子の名があることまで――気付けるはずもなく(彼女と森永は、カトリーヌ・ド・猪熊を介した知り合いであった)、そのため彼女は、先ずはパソコンのリストと父の手帳の文字とを上から順に比較、それを自身のノートに丁寧に、漢字あるいは片仮名に変換、併記させながら、書き写していった。そう。それは例えば、こんな感じに。
*
Shingi・灰原/シンジ・灰原
理o・san賀/リオ・サンガ
Касуми・센미/カスミ・センナ
亞SA・ウォウ克/アーサ? ウォウカ?
*
彼女は、この作業を前にも書いたスマートフォンの翻訳アプリを用いながら進めていたわけだが、リストは長く、また各地・各種の文字が入れ替わり立ち替わり現われては消えるをくり返していたため画面は読み難く、想ったように作業を進めることが出来なかったし、また、それに加え、うす暗い部屋の中、一定の間隔で増殖あるいは消失をくり返す黒い窓の集団は、彼女に急激な眠気を感じさせるものでもあった。
「う……ん?」
彼女は顔を上げ、パソコンから目を離すと、頭を左右に軽く振った。視界の端にベッドと枕が見えた。
「ちょっと? ……休憩?」
彼女はつぶやき、ふらつく身体をイスから離そうとしたが、
「あれ?」
と、パソコン画面の右端、そこにあるちいさな黒い窓に、新たな名前が作られかけていることに気付いた。
「“真広”?」
それは、名字まではまだ出来上がっていなかったものの、はっきりとした漢字で作られていた。彼女はくり返した。
「“まひろ”?」
その言葉の響きに、どこか懐かしさと戸惑いを感じながら、
「まひろくん……?」
そうして彼女は夢へと、あるいは自身の経験したことのない過去へと、落ちて行くことになった。
(続く)




