その6
「あのー、お隣り、よろしいですかあ?」
と左武文雄が、戸柱恵祐の記憶の中に、以前出会った奇妙な女性――祝部優太の部下・深山千島――の姿を見付けていた丁度その頃、石神井東警察署の彼らから東南東に1km移動、せまい住宅地のオンボロ一軒家では、樫山ヤスコがひとり、パソコンの前で何がしかを読み上げていた。
「チシマ……ミヤマ?」とか、
「リオ? ……サンガ?」とか、
「モント……? なんだろ? オフィーリア?」とか、
どうやら人名のようではあるが、その声はなにやら戸惑っていると言うか、心ここにあらずというか、正直彼女はテンパっていた。この後どうすればよいかも分からずに、
「これ、パソコン触っちゃっていいものなのかしら?」とか、
「これ、コンセント抜いた方がいいの?」とか、
「え? でも、ちょい待ち。その場合、中のデータってどうなるの? 消えたりしないの?」とか、
「え? でもでも、今日の午前、結構頑張って(締切過ぎの)原稿書いたわよ、わたし」とか、
「え? てかこのズラズラズラズラってリストが出て来るのって今日だけよね? 明日になったら消えてるわよね? 消えてるって言って! パソコン使えないと! ちゃんとお仕事出来ないじゃない!」とか、
まあ、パソコン使えても仕事しねえじゃねえか、あんた、とは想うものの、それはさておき、とにかく彼女はテンパっていた。テンパったままパニクってもいた。
どうして?
そう。それは、(その3)で見付けたフラッシュメモリ――亡父・昭仁のノートの間にはさまれていた小さなそれ――を、機械音痴のくせに好奇心だけは旺盛な彼女が、
「へえー、中身なんだろ?」
と、なーんの考えもなしに、自身のノートパソコンにぶっ挿してしまったからであった。そうして――、
*
「うーーーーーん?」
とそれからしばらくして樫山詢吾はうなっていた。こちらはこちらで色々仕事が溜まっているのに、無理やり姉に呼び出され、また面倒なことになってそうな彼女のパソコンの前に無理やり座らされ、
「どう? 分かる? 詢吾?」
と訳も分からずテンパっている彼女にせっつかれながら、急激に移り変わるその画面を眺めながら、
「おれ、別にパソコン詳しくねえんだけどな……」と、こころの中で想いながら、「ってか、ほんとなんなんだよ、この画面」と。
そう。
そこには、黒い背景の上いっぱいに、無数の文字が並べられていた。並んでは消え、消えてはまた別の文字として現われていた。それを繰り返していた。平仮名だったり片仮名だったり数字だったりアルファベットだったり、漢字やキリルやアラビア文字だったりもしたけれど、それは白や緑に、ときどき青に変化しながら、目まぐるしく入れ替わり立ち替わっていた。
そう。
そうして、その画面は、しばらくすると、例えば「ナツヒコ・アンドウ」のような人名を完成させるとふたつに分かれ、分かれたひとつは「ナツヒコ・アンドウ」の文字サイズにまで縮小されスリム化され、パソコン画面のうしろに見える何かのリストへと吸収されて行った。そうして残ったもうひとつは、引き続き、文字の入れ替わり立ち替わりを行なっていくのであった。
そう。
そうしてそれから、またしばらくすると残った画面は、それ以上人名が作られないことを理解すると一度すべてをリセットし、改めて画面いっぱいの文字を呼び出すのであった。その、新たな入れ替わり立ち替わりを始めるために。
そう。
そうしてまた更に言うと、ひとつの画面が「ナツヒコ・アンドウ」のような人名を完成させることはかなりまれで、その場合画面は、一定の時間を置いてから、一つが二つ、二つが四つ、といった感じに分裂を続け、パソコンの画面いっぱいにひろがっていくのでもあった。増殖を続ける沈黙や末期のガン、闇夜の雨にひびきを増す多元宇宙のように――が、まあ、それはさておき、
「それはさておき取り敢えず、そのまま抜いちゃえばいいだけだと想うぜ、そのUSB」と樫山詢吾は言うのであった。
「え?」樫山ヤスコは訊き返した。「いいの?」とパソコン知識皆無のまま、「なんか突然、爆発とかしない?」とまるで60年代の人間のような認識で、「『スパイ大作戦』みたいにいきなり燃え出すとか」
「え?」詢吾は答えた。「うん。いや、そりゃ俺もよくは分からないけどさ」ITが結局なんの略なのかもよく知らないが、「親父のノートから出て来たんだろ?」流石に爆発とか、変なウイルスとかはないと想うし、それにこれ、
「パソコンはモニターの役目をしているだけで、プログラム自体はクラウドで走ってんじゃないかな?」と。
「モニター?」ふたたびヤスコは訊き返した。とても真剣な表情で、「モニターって、そもそもパソコンがモニターなんじゃないの?」
「は?」詢吾も訊き返した。ヤスコの方をふり返り、すこし考えて、「あー、えっと? だから……、『モニター』ね、『モニタリング』の『モニター』。『監視』とかの『モニター』。要は、クラウドで実行されているこのプログラムを、姉貴のパソコンを通して見ているワケだよ」と。
「なるほど?」みたびヤスコは訊き返した。腕を組み、眉根を寄せ、とっても真剣な表情で、改めてパソコン画面をのぞき込みながら、「でも、『クラウド』って『雲』って意味よね? この画面とお天気になんの関係があるの?」と。
「へ?」とふたたび詢吾は訊き返そうとしたが――ってめんどくさいな、ヤスコ先生。
*
と、言うことで。
ヤスコ先生を通していたら一向に説明が進まないので、こちらでザクッと、色んな部分を端折りながら解説すると、いま、詢吾くんも言ったとおり、ここでヤスコ先生のパソコンに映っている画面は、彼女たちの父・昭仁が生前に組んだとあるプログラムの計算画面で、そのプログラムは、インターネットなどのコンピューターネットワーク、いわゆる『クラウド』を利用し実行され続けているものであり、詢吾くんは、その実行画面の速さと複雑さ、それにヤスコのパソコンのスペック――「どーせ、ネットとワードしか使わねえだろ」と彼が選んでやった安物――から、父親のフラッシュメモリに入っていたものが、計算プログラムなどではなく、ただただ、クラウド上のプログラムを見るためのアクセスキーだったのではないか? と想像したワケである。
*
「なるほど」とここでヤスコ。ようやく深くうなずきながら、「それで、USBを引き抜けば画面が消えるかも? と想ったワケね」
「そうそう」と詢吾。右の説明を彼女に理解させるのに30分以上もかかったが、どうやら姉も納得したようである。「もっとちゃんとした切り方もあるんだろうけど、姉貴のPCだと調べるのも難しいだろうし、半分無理やりだけどな」
そのため、彼らがこうしている間にも、プログラムは仕事を続け、パソコンの画面いっぱいに黒い実行窓を増殖させては、ときどき想い出したように、人名を見付けるのを諦めた窓をフッ。と分裂もさせず、そのまま消し去っていたりもした。
「うん。じゃあ、まあ、試しに抜くだけ抜いてみるぞ」と詢吾は言い、彼がパソコンのフラッシュメモリに手を伸ばし掛けたのと同じタイミングで、
「あれ?」とここでヤスコが何かに気付いた。「“灰原”?」
画面のうしろに見えるリスト、先ほど「ナツヒコ・アンドウ」の名前が吸い込まれて行ったあのリストのトップの方に、最近どこかで見た名前が、まるで彼女に見付かるのを待っていたかのように、置かれていたからである。
「“Shinji? 灰原?”」
これも亡き父・昭仁が遺した品のひとつ、あの防弾聖書型の手帳に書かれていた名前であった。
(続く)




