その3
カラカラン。
と、扉のカウベルが鳴り女性がひとりはいって来た。ここはいつもの街の小さな喫茶店、青い扉の『シグナレス』である。
「あれ?」店に入るなり女性はつぶやいた。「なんか……空いてますね」
と言うのも、いつものこの夕方の時間帯であれば、お店は近隣のお客さまや仕事帰りの常連さんであふれ、ガヤガヤガヤガヤうるさく楽しく、厨房係もウェイトレスも、上へ下へとテンヤワンヤ、基本ひとりのこの女性は、毎度入るのをためらうぐらいなのだが、今日のこのお店の状態ときたら、
「あ、森永さーん。よかったー、来てくれてー。もーねー、今日ですねー、ヒマでヒマでヒマでヒマで、どうしようかってくらいヒマで、ほんとどうしようかって想ってたところだったんですよー、ヒマで」
と赤毛長身看板娘、ウェイトレスの佐倉八千代もついつい言ってしまうくらいに、ガッラガラのスッカスカだったからである。
「ほらほら、もうもう、お好きな席選んで座っちゃって下さーい――エマちゃーん、ご新規一名さーん。森永さんだよー」
第七話で来店したペトロ・コスタとアーサー・ウォーカーのふたりも既におらず、店には、ハンチング帽を被った細身の男と、スーツ姿の太ったサラリーマンがいるだけだった。森永と呼ばれた女性は、彼らの位置を確認し、しばらく考えてから、
「だったら」と言って窓際の席を指さした。「あそこの席、いいですか?」
そこは、先ほどまでペトロとアーサーふたりが座っていた場所で、彼女のお気に入りの席でもあったが、ひとりで座るには広く、混んでいる時にはいつも遠慮する場所でもあった。
「どうぞどうぞ」八千代は返した。いつもよりより明るく元気な声で、「すぐにお水とおしぼり、お持ちしますね」
彼女のこの声と笑顔に女性はうれしくなると、仕事でクッタクタのヘッロヘロだった身体も元気を取り戻したのか、彼女には珍しく、ちいさなスキップでも踏むかのような足取りで席へと向かって行った。彼女がこの席を気に入っていたのは、テーブルが広く、外の景色がよく見えたからであるし、また、この席からなら、せまい店内を忙しそうに立ち回る、佐倉八千代の姿がよく見えるからでもあった。八千代は、彼女の数少ない友人のひとりでもあった。
「いつものココアとクッキーでいいですか?」水とおしぼりを渡しつつ八千代は訊いた。
「あ、はい」そう言いかけて彼女・森永久美子は、「あ、でも今日は」と、お店に人が少ないことを想い出し、「クッキーはやめて、パンケーキを下さい。この前おすすめしてくれたやつ」
彼女はいつも、八千代や、厨房にいるエマの負担がすこしでも軽くなるよう自身のメニューを選んでいたのである。「ずっと、気になってたんですよね」
と、言うことで。
森永久美子は、ちょっとばっかしとっつきにくくて神経質で、「でも、根はけっこういいヤツだよな? おまえ」と問われると、「え? そうですかね?」と自分で自分に首を傾げるくらいに根はいいヤツで、
7月19日生まれの蟹座らしいひと当たりのよさと、一度仲間と認めた人たちに向けるさりげなくも奥深い愛情は、8月6日生まれ獅子座の佐倉八千代や、9月12日生まれ乙女座の木花エマとの相性もよく、年の離れた姉妹のような友情を築いているのであっ――
え? ああ、そうそう。見た目童顔なんで勘ちがいされやすいんですけど、彼女、けっこう年上なんですよね、八千代ちゃんたちよりも。えっとー、初めて会ったのがあの事件が起きた年だから、ひい、ふう、みい……、たしか今度の誕生日で――、
「それはッ! さておきッ!」
とここで突然、森永久美子は叫んだ。まるで作者の地の文を遮るかのように。去って行こうとする佐倉八千代に向かって、
「猪熊先生がッ! たまには遊びにおいでって言ってましたよッ!」と。
「あ、そうなんですか?」八千代は応えた。突然の久美子の大声に驚きつつも、「そう言えば、最近あんまり行ってないですね」
「たぶん、『ガールフレンズ・ワンダーランド』の新作頼まれてたんで、八千代さんやエマさんに会ってインスピレーション貰いたいとかじゃないですかね」
ちなみに。
いま名前の出た「猪熊先生」とはもちろん、例の女流マンガ家、カトリーヌ・ド・猪熊大先生のことであり、『ガールフレンズ・ワンダーランド』とは、彼女の代表作のひとつで、不思議な能力を持った女の子が練馬区桜台を中心に様々な事件を解決していくという日常SFの傑作で、もっと言うと、その主人公の女の子のモデルになったのが、こちらの佐倉八千代ちゃんであり、猪熊先生が彼女をモデルにマンガを描こうと想い立ったのは、こちらの森永久美子さんが彼女の似顔絵を描いているところを先生に見付かっちゃったからなんですけれど――
って、そうそう。そう言えばすっかり書き忘れてましたけど、こちらの森永さん、猪熊先生のところでアシスタントをされている、結構すご腕のマンガ描きさんなんですよね。そうそう。“あの”カトリーヌ・ド・猪熊の下で。
ねー、ほんとよくまああんな化け物の下でしらふで働けるなって想いますけどね。だってね、あそこのスタジオね、普通わかい子は三日で打ちのめされて倒れるのが定番で、二週間持ったらそれだけで紹介した編集者は人を見る目がある……
って、そう言えば結構長いですよね、森永さん。あそこのスタジオ。入門エピソードは僕も書きましたけど、あのときの森永さんの年齢が23才でしょ? で、それからずっとってことだから……、ひい、ふう、みい、よ、いつ――、
「ところでッッッ!!!」
とここで突然、森永久美子は叫んだ。ふたたび。今度は明らかに作者の地の文を止めてやろうという意識で持って、
「そろそろッ! 場面転換する頃合いじゃないですかねッ!」と。
ついでにこちらのプロット構成すら心配してくれて――って、年齢のことは悪かったよ、内緒ね、内緒。
*
と言ったところで。
別に森永さんに言われたからというワケでもないのだが、ここで場面は転換する。どこに? えーっと……?
ああ、そうそう、ふたたび樫山家に。なんで? えーっと? これは……、なんでだったっ………………けって、そうそう。これはあれ、ヤスコ先生が、お父さまの遺品ノートを整理している時に「あるもの」を見付けないといけないからでした。そのための場面転換。うん。大丈夫。うん。プロット通り。……多分。
*
と言ったところで。
ドサドサドサドサドサ、
と書籍の山のひとつが崩れ、続けて、
ドサドサドサドサドサッ、
ドーサドサドサドサドサドサドサッ、
ドーーーーサドサドサドサドサドサドサッ、
とそのまわりの山々も崩れ始めた。連鎖反応的に。すると、
「ギャッ!」という小さな叫びがそれに続き、樫山ヤスコは、本とノートとホコリの山に埋もれることなった。「うッぐぐぐぐぐ……」と、小さくうめきながら。
ここは、先述した通り、彼女の暮らすオンボロ戸建ての一階書庫――と言う名の、本とノートとホコリに埋もれた、要は物置き部屋である。
長期出張先のエジプトで亡くなったヤスコの父・昭仁の本やノートや手書き原稿の類が、ドカドカドカドカッと追加で送られて来たのは前にも書いておいたとおりで、また、それら段ボール数十箱分の書籍類、その大半は、(樫山家にはもう置くスペースがなかったので)『ウィリアム書店』の若く美貌の女店主(自称)小林乙葉に引き取って貰うよう相談する――ということでヤスコ&詢吾姉弟間の話し合いが決着したのも、以前書いたとおりである。であるが、
「そしたら、この辺がノートや原稿っぽいからさ」
と後は、さすがに引き取って貰えないだろう昭仁のノート類、書きかけの原稿類を、この物置き部屋に押し込むだけ押し込んで、またいつか、少しずつ、古紙回収の日にでも出すようにしておけば、本日のヤスコの仕事もそこで終わり――のハズだったが、
「しっかしよくまあ、あんだけ外飛び回ってて、よくこんなに書けたわね」
と、そのうちのひとつに手を伸ばしてしまったのが運の尽きで、
「なになに? 『エズラの話によると、彼とラージの出会いは、コンスタンティノープル郊外の競売場で――』」
と愛書家・文書中毒患者の性でもあろうか、ついつい、ついつい、つーいつい、その日記とも報告書とも研究記録とも言い難い、それらが混じり合った父のノートを、延々、延々、エーンエンと、何時間も何時間も読み進めてしまう彼女なのでもあった。なので、そのため、
「ふーん? でもこれは、父さんの方も悪いわよね。結局なんの調査かはよく分からないけど、その天台って人にも伝える約束はしてたワケだから」
と父の調査・研究の内容自体は難し過ぎて読み飛ばしていた彼女だが、それを取り巻く人間模様の方はかなり面白く、
「なるほど。それで友枝さんへの連絡はブッチしてエジプトに行くワケか……って、それはそれで大人の態度としてはどうかと想うけど――って、続きはどれだっけ?」
と物置き部屋の片づけはおろか、溜まりっぱなしの仕事も忘れ、まるで何かの連載小説でも読むように次のノートを探すヤスコであった――がここで、
「あ、あれかなあ? かーなーりッ、奥の方にあるんだけど…………って、キャア!」
ドサドサドサドサドサ、
ドサドサドサドサドサッ、
ドーサドサドサドサドサドサドサッ、
ドーーーーサドサドサドサドサドサドサッ「ギャッ!」
と冒頭のシーンへと繋がるのであった。
「いっててててててて」とそれからヤスコは起き上がり、「……あれ?」と手にしたノートに小さな膨らみがあることに気付いた。「なにこれ? USB?」
それは、昭仁が記した最後のノート、その間にはさまれた、ちいさな青いフラッシュメモリ。それに、それを包んだ半晒のクラフト紙であった。
(続く)




