その9
改めてその男の顔を見たときマリサ・コスタは、おどろくよりも早く、「あっ」と想った――なるほど。
「なるほど。そっくりなのよ、なんとかって地中に住むネズミに」と。
男の毛はうすく、歯は前に突き出しており、目はそもそも陽の光に耐えられないような色と形をしていた。彼にとってこの地上は、きっと生きて行くだけでも息苦しく、まぶし過ぎるのだろう。
「お待ちしてましたよ、奥さん」とその男、夫の借金取りのひとり、猫背でずんぐりしている方――名前はたしか、森田とか石森とか――は言った。
ここは、閉めたままになっている夫のレストラン。いまマリサは、甥のアーサー・ウォーカーを友人に預け、店の書類関係を整理しにやって来たところだった。だったのだが、
「金平さんは?」彼女は訊いた。例のネズミの名前を想い出そうとしながら、「あなたひとり?」
「金平なら上に呼び出されましてね」男は応えた。とても下卑た顔つきで、「ただ、私ひとりってわけでもありませんがね」
この世には、こころの中の悪意や毒心なんかが自ずと顔に出てしまい、それで下卑た顔つきになってしまうタイプの人間が少なからずいる。が、この森田だか石森だかの男の場合は、それとは違い、ただただ、生まれながらに下卑た顔つきをしているタイプの男だった。
「おいっ」男は叫んだ。
すると、店の奥から、きっとこいつが呼んだのだろう、また違うタイプの顔つきの男がふたり、ゆっくりとした足取りで出て来た。顔も、歩き方も、なんなら存在そのものも、下卑た感じの男たちだった。
「今度は我々三人が、奥さんのお相手をしようと想いましてね」
猫背の男は帽子を使い、意識して顔を隠そうとしている様子だった。マリサは先ほど、アパートでこの男が自分に向けていた足指に付いた垢のような視線を想い出していた。
「お話なら」彼女は応えた。店の出口へ後退りながら、「ぜひ、金平さんもご一緒の時に」
「いいから」別の男が言った。マリサの背後に回り込み、「奥で話しましょうや、奥さん」その荒れた手を彼女の肩にかけながら。
「ちょっと!」マリサは叫んだ。男の手を払いのけようとして、「勝手に触らないで!」
が、叫んだ瞬間、男の平手がマリサの頬を叩き付けた。
「おい!」男が叫んだ。猫背の男に向かって、「やるならやっちまおうぜ、はやく」
男の平手にはじき飛ばされながらもマリサは、森田だか石森だかの下卑たうす笑いを見、この後自分に訪れるであろう運命に想い至ると同時に、お店のカウンター越しに見えた小さな鏡にも気を奪われた。いや、鏡の中の自分の顔に意識を奪われた。
そう。
それは、いつかどこかで見た顔だったが、いつも見ている自分の顔とはまったくちがう、また別のひとの顔だった。
『ねえ、』彼女がわらった。
「どうする?」彼女に向かって、
『代わったほうがいいんじゃない?』彼女が彼女を、ジィッと見つめながら、「あんたとあたしさ」
直後、マリサ・コスタの視界は暗転し、彼女の意識は鏡の向こうへと溶暗していった。
*
カラカラン。
と、お店のカウベルが鳴り、佐倉八千代はそちらをふり返った。ここは、彼女がウェイトレスを務める街の小さな喫茶店、青い扉の『喫茶・シグナレス』である。
「あ、石橋さん」彼女は言った。うれしそうに。ベルを鳴らした相手に向かって、「なんだかそろそろ、来るころかなって想ってたんですよ」と。誰からも好かれる、ひとなつっこい笑顔で。
「これから東石神井まで行くんですがね」ベルを鳴らした男性・石橋伊礼は答えた。「ちょっと時間が早すぎて」とこちらも彼女にほほ笑みながら。
そう。
彼らは旧知の仲であった。
伊礼がこの店の常連であることもそうだが、それ以上にふたりは、ある事件をきっかけに、互いが互いの能力を知る仲になっていたからである。
そう。
なのでそのため、石橋伊礼は、先ほど佐倉八千代が言った「なんだかそろそろ」を客に対する世辞や社交辞令の類いとしてではなく、額面通りの言葉として受け取る癖が付いてしまってもいた。彼は続ける。窓際のテーブルに座りながら、
「僕が来ること以外には?」と。
「え?」と八千代は訊き返した。「あー」としばし口を開け、なにかが飛んでくるあるいは落ちてくるのを待ってから、結局なんにも飛んでも落ちても来ないことに気が付いて、「いいえ、なんにも」と続けて首をふり、ふたたび軽くほほ笑みながら、「ご注文は? いつものホットコーヒーでいいですか?」
「うん。お願いします」伊礼は応えた。なんの屈託もないような彼女の笑顔に、気持ちのよい好意と若干の恐怖を感じながら。
そう。
佐倉八千代の能力は大変強力かつ強靭で、その事に当の本人はほぼほぼ無自覚・無頓着で、しかも、それを制御出来ているのかいないのかも、当人はもちろん、周囲もまったく分かっていなかったからである。
そう。
それは例えば、先ほどの「なんだかそろそろ」といった軽めの未来予知――というか“虫の知らせ”――から始まる強力な精神感応もそのひとつで、この能力は、相手のこころを読んだり、こちらの想いを伝えたり、使い方によっては相手に幻覚を見せたり、なんならこころや記憶を壊したり、消去したり、操った後に狂気に陥らせたりも出来る代物で、実際彼女は、伊礼の知らないある事件でその罪を犯したこともあった。あったのだが、しかし、
「やっだなあ、そんなマンガみたいなちから、本当にあるわけないじゃないですかー」
と、先ほども書いた通り、当の彼女はこのちからにほぼほぼ無自覚かつ無頓着で、しかも彼女が日々考えていることといったら、
「あー、でも、だったらもっとお客さん増えて欲しいですよねー」とか、
「ねえねえ、あそこのふたり、さっさとくっ付けって想いませんか?」とか、
「きゃー! じゃあいよいよ重雄さんとご結婚されるんですね! 式は? 式はいつ挙げられるんですかッ?!」みたいな?
せいぜい自身の半径5m以内のことに限られており、しかも、
「だってー、そこはー、やっぱー、みんな幸せな方がー、みんな幸せじゃないですかー」
という小学生低学年並みの彼女の性格および思考回路がこの“制御出来ていない”能力を動かしていることなんかもあって、この能力はもっぱら、
「あー、今日もお客さんいっぱいで忙しかった」とか、
「え? じゃあ、彼氏さんの方から告白されたんですか? きゃー、もうもうもう、今日はお店のおごりですよー」とか、
「あ、石橋さん、石橋さん、これ、この前の結婚式の写真! おふたりがチューしてるところッ!! もうもうもうもう、ごちそうさまでしたーーーーーー」みたいな?
そんなバイト先の商売繁盛や見知らぬ男女の恋の手助け、それに式を挙げるつもりもなければ人前でのチューなどこっぱずかしくって絶対出来ないタイプの行政書士をその気にさせてチューさせる――といった、大変牧歌的かつ人畜無害的かつ楽天的な使われ方ばかりしているのであった。そうしてそのため、
「はーい。ホットコーヒーお待たせしましたー」場面もどって八千代は言った。問題のひとなつっこい笑顔で、「でもなんだかステキなお家ですね」と。
「え?」石橋伊礼は訊き返した。コーヒ―に砂糖を入れながら、「なにがですか?」
「あれ?」八千代も訊き返した。「これから東石神井に行くんですよね?」と不思議な顔で、「なんだかとってもステキなお家、庭にも屋根にもお花が咲いて、まさにいまが花の盛りのような、そんなお家」と。
きっと彼女は、これから伊礼が向かう場所の風景――山岸富士夫・まひろの祖母が住む花盛りの家の風景――を、これまた我知らずのうちに見てしまっている様子であった。
(続く)




