その14
それからまひろは部屋を出た。不破から聞いた祖母と天台の関係や彼の過去の話などから、より一層、兄の富士夫と天台をこれ以上接近させてはならない。彼女はそう考えるようになっていた。
「もちろん。その“マリサ”って人とも、もう会わせないようにしないとね」
富士夫の、妻・美紀へ対する不義理もそうだが、それ以上に、問題の“マリサ”が天台の関係者であることを踏まえれば、余計に彼女と兄を会わせるわけにはいかない――「だよね? 不破さん」
「うむ」不破は応えた。この“マリサ”とやらが色仕掛け以上のどんな役割りを担わされているのかは分からないが、「まあ、そうでしょうな」とまひろが兄に対して期待するイメージを想い出しながら、「まひろ様から言われれば、富士夫さまも従わざるを得ないでしょう」
とそうしてなんだか彼女が、どんどん山岸の家の祖母に似て来るな、とかなんとか、そんなことをも合わせて想いながら。
トントントントントン。
と階段を下り遠ざかるまひろの足音を聞きながら彼は、今いる物置き部屋の電気を落とすと、そこの窓辺へと向かった。夜がすっかり世界を覆い尽くしていた。
「ふむ」不破はつぶやいた。手を組み、「うまく行っている……のですよね?」と遠い町の灯かりを見下ろしながら、「ねえ? 咲子さま?」
『さあ、どうだかね』山岸の家の祖母は応えた――どうやってだかは知らないが。
「ふむ」ふたたび不破はつぶやいた。わざとらしく首を傾け、「あの赤毛、ちゃんと動いているのでしょうな?」
『さあ、それもどうだかね』ふたたび山岸の家の祖母は応えた――どこからだかは分からないが。『でも、ま、信じるしかないんじゃないかい?』
「ふむ」みたび不破はつぶやくと、そのままうしろをふり返った。無言で。うしろ向きに時間をスキップさせて。窓の外から初夏の風景が消え去り、暗い闇の中、銀と黒の雪はいまだふり続いていた。
「すまない。どうもよく分からない」彼の前には彼がいた。半年ほど前の。部屋が寒いのだろうか、冬用の赤黒いコートを着こんでいた。「なぜ、まひろ様の記憶まで消す必要があるんです?」戸惑い、いらついた声で、目の前に座る何者かに向かって、「たしかに今はおつらいだろうが、それでもあのおふたりならば必ず――」
しかし――、
「不破さん」とここで山岸の家の祖母が彼の言葉をさえぎった。「私は、このひとの言うことを信じるよ」彼女は彼女で、厚手の寝巻きにどてらや毛布をたっぷり重ねていた。「たしかに間の抜けた顔をしてはいるがね、ウソは吐けない顔だよ、この顔は」そうして、目の前に座る男の顔をじいっとのぞき込みながら、「“あの方”が言われたこととも話が合うしね」
「しかし咲子さま」冬服姿の不破は応えた。「記憶の消去には相応の負荷が掛かります」数日・数時間ならまだしも、「半年分の記憶だなんて」それもお互いに、相手に関する部分だけを消すなんて、「この半年、あのおふたりがどれだけ互いを想い合って来たか、まさかお忘れになったわけではないでしょう?」
この質問に山岸の家の祖母は顔を毛布に埋めると、なにか反論を試みようとも想ったのだが、それを彼女が想い付くよりも早く、
「あのー」と問題の男――彼らの前に座る赤毛の少年? 青年?――が手を上げた。ゆっくり、そうしておずおずと、「どうも誤解があるようなので、すこし補足しておきたいんだけどさ――」と。
彼の服はボロボロで、この家に堕ちて来た時のままだった。
「あなた、不破さんのいた世界ではどうか知らないんだけどさ」男は続けた。「記憶を『消す』なんてことはそもそも出来ないんだよ。エントロピーは増大し続けるかも知れないけど、エネルギーは保存され続けるからね」
「……は?」不破は聞き返した。男がなにを言っているのか正直よく分からなかったからだ。「それは一体、どういう意味だ?」
「……え?」赤毛男は応えた。まったく悪びれる風もなく、キョトン。とした顔で、「どういうって、いま言ったとおりだけど?」
うん。
まあ、この人らしいと言えばこの人らしいのだが、目の前の相手がクエスチョン・マークを出していることくらい気付こうか、怒筋マークが飛び出す前に。
「だからッ!」不破は続けた。ついつい本性ならびに背中の黒い羽根が出てしまいそうになったが――いやいや、ここは私が大人にならなければ――咲子の手前それは隠し抑えつつ、「もう少し……、その……、わかりやすく言ってもらえますかね?」
が、もちろん、こんな悪魔の抑えた怒りがこの赤毛に分かるはずもない。彼は続ける。
「そうなの?」と言って眉根を寄せて、すこし考えみせてから、「あ、なるほど」人差し指をピンッと立てつつ、「もう少し、この辺境惑星に寄り添ったかたちで説明した方がよかったってことかな?」
と、普通ならここでグーパンチが飛んで来るイラつく声と丸顔で。しかも、更に輪かけてこの“寄り添ったかたちの説明”ってやつが、
「そもそもゲーリケさんが真空ポンプを作ったのが確か西暦1650年だったと想うんだけど――あ、もちろん、この惑星の西暦ね――で、それから十年経つか経たないかの頃にロバート君――あ、ロバートって言ってもフックじゃなくて、ボイルの方ね――が、「一定の温度下では、気体の体積は圧力に反比例する」って言い出したわけなんだ――って、もちろんこれは圧力が十分低い領域下においてのみ成り立つ近似法則だけど――で、僕もたまたまその最初の発表の場に居合わせたワケなんだけど、そしたらアイツさあ……ぷーっ、くすくすくすくす、いっやあ、ほんと想い出しただけでも面白いんだけど、アイツあの時(*三千字ほど中略)って、まあ、そういう滑稽味のあるやつなんだけどね、アイツは。で、あ、そうそう、滑稽味と言えば、ダニーが気体運動論を――」
みたいな? この惑星――あ、地球ってことね――の熱力学の歴史をその前史から話し始めてくれることになったりなんかして、
「咲子さま?」
「なんだい? 不破さん」
「灼いてもいいですか? こいつ。地獄の業火で」
「あー、いや、まあまあ落ち着いて。きっとこういう話し方でしかお話出来ない子なんだよ、かわいそうに」
と、こちらはこちらでその辺まったく興味のないおふたりなので、
「それよりやっぱり身体が冷えるね。ココアかなにか持って来てくれないかい?」
「そうですな、私も酒でも入れねばやってられません」
と不破さんは一旦席を外すし、
「どうぞ、咲子さま」
「あ、ありがとう。ふたりは? ちゃんと寝てたかい?」
「ええ、ぐっすりと――こちらは? すこしは話が見えて来ましたか?」
と彼が戻って来た時点でも、
「そこで僕はロバートに言ってやったね――あ、こっちのロバートってのはブラウンの方ね――水面に浮かべた花粉を指さしながら――って、もちろんこれは厳密に言うとシャドー協定第7条のB項に引っ掛かるかも知れないんだけどさ、未開惑星の歴史に介入した形になるかも知れないからね――だけど言わせて貰えれば、彼は既にそのことに半ば気付いていたワケだから、僕がやったのは、あくまで彼の背中を押すというか、すこし手を引いてやっただけのことで、それに、そう、この運動の謎が解明されるのは彼の死後、西暦1905年にアルバートが――」
とまあ、肝心の「“記憶”は消えない」にたどり着いていないどころか、熱力学の第一法則ならびに第二法則の定式化にも届いておらず、なんなら今回更新分の紙幅もそろそろ尽きそうなので……えーっと? どうしようかな…………あー、うん、それでは。ここは一旦ここまでとして、続きはまた次回更新分で、この赤毛の話はすっ飛ばしつつ話を進めてみることにしましょう。
(続く)




