その8
『予言』と『預言』はちがう。
『予言』とは「予め言われる言葉」であり、『預言』とは「あずけられる言葉」である。
もちろん。
『預言』には未来を語った物が含まれることもあるので、その場合は『予言』でもあるのだけれど。
そうして。
前回更新分の最後にも書いたとおり、現代日本の東京都練馬区に住むひとりの行政書士・石橋伊礼に備わっている能力とは、この『預言』を、どこかの世界の何者かから受け取る能力であった。
『お告げ行政書士』と、彼の恋人・川島重雄は、からかいと愛情を込めてそう呼ぶこともあったが、この『お告げ』が、彼の仕事をより善き方向へと導くことがあるのも事実であった。
救けるべき人を、救けるべきときに、救けるべき方法で、救けるために。『お告げ』は彼を援けるのである。時々彼は首を傾ける。
「うーーーーーん?」
と目をつむりながら、道にまよったときや、未来がよく分からなくなって来たときなんかに。彼自身もよく分かっていない、宇宙のどこかの何者かが彼に『預言』を授けてくれないだろうかと。
そうして。
その授かった『預言』はしばしば、彼や彼の依頼者・相談者たちにより善い結果をもたらしてくれる。伊礼はこう考える。
「これを授けてくれる人たちは、きっと善い人たちなのだろう」そうして、「すくなくとも、世界を善くしたいと考えている人たちなのだろう」と。
そう。
そうして彼のこの考えは、あながち間違いでもなかった。その存在が「人」であるかは不明だし、善くしたいと考えている範囲が「世界」なのか「宇宙」なのかはたまた「すべての多元宇宙」なのかは、きっと彼らにもよく分かっていないのだろうが。
*
遅い午後に、温かいコーヒーと甘いパイのかおりを想い出しながらカフェの扉を開くと、そこはいつもの数倍の客で埋め尽くされていた。
「すみませんね、相席でもいいですか?」カメレオンのようなウェイターが訊いた。「なんだか近くで、催し物があったらしくて」
そんな言葉に山岸まひろは、すこしは不満を感じたものの、そんなことは顔にも出さず、
「あ、はい」とだけ応えて、示されたテーブルへと歩いて行った。
舌も口も、すっかりこの店のパイの舌と口になっていたし、これ以上不満を感じるようなことは避けておこう、と彼女は考えたからであった。
そう。
山岸まひろは不満を感じ、憤っていた。彼の兄に――駄目だよ、兄さん。
*
「駄目だよ、兄さん」
と、この一時間ほど前、兄・富士夫のオフィスでまひろは語っていた。
「いくら父さんと付き合いがあったからって、あんな天台みたいなヤツ、兄さんが付き合っていいようなヤツじゃないよ」
前にも書いた通り、天台烏山あるいは烏薬なる人物は、この地を中心に活動する金貸し・実業家で、いわゆる暴力組織とも付き合いがあるような男で、
「そりゃあ僕も、実際の場面を見たことはないけどさ」
天台の会社や関係者に泣かされた人の多いことは、まひろのような普通の会社員の耳にも入っていた。
「付き合ってればいつか、面倒なことに巻き込まれるよ」
が、しかし、そんな妹の忠告に、当の富士夫は、いつもの偏屈な顔を変えぬまま、
「いや、それでも」と目をそらしながら応えた。「付き合いをやめるにも一方的というわけにはいかんだろう。親父が何故、彼との付き合いを続けていたのかの理由も知らないとな」
「ちょっと待ってよ、兄さん」まひろは訊いた。「会うつもり? あの人でなしと?」
富士夫は答えた。声のトーンを落としながら、「実はいちど、会いに来てくれと言われている」
「行かないよね?」続けてまひろは訊き、
「いや、いちどくらいは」続けて富士夫も答えた。「礼儀として、挨拶だけでも」
「そんなの、一度会ったら付き合いを続けるしかなくなるじゃないか」
と、その後もまひろは、兄を止めようとしたのだが、それが逆に富士夫の頑固さ偏屈さを刺激したのか、議論は平行線をたどり、結局富士夫は、天台の誘いを受けることにしたのであった。
*
「まったく、あの偏屈オヤジ」
と、そんなやり取りを想い出しながら彼女は、それでもどうにか心を鎮めようとこのカフェの扉を開き、さらには、店員に言われたままごった返すカフェの中を歩いて行き、
「すみません、相席お願い出来ますか?」
と、窓際奥のテーブルにすわる女性に声をかけることになった。
「え?」女性は応えた。読んでた本から目を上げて、「すみません。なにか?」
「あ、ごめんなさい」まひろはほほ笑んだ。「お店の人に言われて」なにか彼女に、奇妙な既視感をおぼえながら、「相席、お願い出来ますか?」
すると女性は、まるでいま店内の混雑に気付いたかのようにあたりを見回すと、
「ご、ごめんなさい」と言って立ち上がろうとした。食べかけのパイや飲みかけの紅茶なんかもそのままに、あわてて、「つ、つい読みふけっちゃって」
「あ、いえ、そういうわけでは」まひろは応えた。こちらもあわてて、彼女を止めながら、「ただ、相席してもいいか聞きたかっただけで」
「あ、いや……、あー」女性は応えた。読んでた本は開けたまま、上げかけた腰も中腰のまま、「ああ、はい、どうぞ。どうぞ、どうぞ」と、そのまま腰を戻しながら、「私なんかでよろしかったら……」と妙な言葉づかいで。
くすっ。
まひろはほほ笑んだ。ふたたび。なんだか妙な既視感をおぼえながら。
「……なにか?」女性が訊いた。
「あ、いえ、すみません」まひろは応えた。崩れた顔を元に戻しながら、「なんでも、なんでもありません」
すでに彼女――樫山ヤスコに、やわらかい好意のようなものを抱きはじめていた。
(続く)




