その6
長いながい石段をペトロ・コスタは下っていた。どこだか分からない深いふかい山の中を、寝巻姿のまま、こちらも同じく寝巻姿のままのアーサー・ウォーカーを肩に担いで。サイズの合わない皮革のサンダルを履いて。
「あら、お父さん頑張るわねえ」登山姿の老婆が言ったが、彼は愛想笑いで返すだけであった。すると彼女は今度は、
「あらまあ、お父さんそっくりね」と肩の上のアーサー・ウォーカーに声を掛け、彼と彼女はいくつか言葉を交わすことになった。
「それじゃあ気を付けてね」アーサーが言い、
「僕もね、元気でね」と言って老婆は登山へと戻って行った。
空はよく晴れ、風はここち良く、山の青葉は美しかったので、状況が状況でなければペトロ・コスタも是非、登山を楽しみたいところではあったが、正直いまは、それどころではなかった。と言うのも、先述した通り、彼も彼の甥っ子も昨夜寝室から謎の力でふっ飛ばされままの格好で――サンダルは道に落ちていたのを拾った――金もなければスマホもなく、ここがどこかも分からない。先ほどの老婆や、道がきれいに舗装されていること、そこら中にこの国の神さまだかなんだかの石像が置かれていること等々から、ここが日本の、どこかの観光地的な山であることは分かるのだが――最初気付いた時は無数の石像に取り囲まれていたので、どこかの地獄にでも堕ちたのかと想ったが――、
「あ、おじさん」とここで肩の上のアーサー・ウォーカーが何かに気付いた。
「どうした?」ペトロが訊いた。こいつも随分重くなったな、そう想いながら。
「なんだかおっきな顔が見えるよ」
「顔?」
ふり返って見上げると、たしかに。たかい樹々のすき間から、大きな男の横顔が見えていた。そうして――、
*
崖に彫られた男の顔を見上げながらアーサー・ウォーカーは、「クラスのオサラギくんっぽいな」と想い、続いて「なんでこんな大きなひとを掘ったんだろう」と想った。ここはどうやら、千葉にあるお寺のひとつで、この山全体がそのお寺の持ち物なのだそうだった。彼は男の顔真似をし、その場にすわって格好も真似た。若い女のひとがプッと笑ってとおり過ぎ、見知らぬおじいさんに「おっ、そっくりじゃないか、ぼうず」と声をかけられ爆笑した。
「わるい、待たせた」ペトロが戻って来て彼の隣に座った。「なんでそんな変な顔してんだ? おまえ」
彼が管理所の人に聞いて来たところによると、この前の道をそのまま下れば駅があり、そこから乗り継ぎを重ねれば彼らの町へ戻れるとのことであったが、
「いかんせん、金がない」とペトロは言い、
「お寺の人に借りられないの?」とアーサーは返した。
「身元を保証するものもないしな」さっきもかなり怪しまれたし、「警察が来ても厄介だ」千葉は管轄が違うとは言え、ペトロには殺人の容疑が掛けられている。
「おばさんに電話して来てもらう?」ふたたびアーサーが訊いた。
が、この問い掛けにペトロは、すこし考えてから――「おまえ、どう想ってる?」
「なにが?」
「今回のこれ、一体なんなのか? とか」
道を探すこと、山を下りることで忙しく、ちゃんと話せていなかったが、事情を知ってる自分はともかく、偶然巻き込まれたにしてはアーサーはかなり落ち着いている。
「もちろんビックリしたけどさ」アーサーは答えた。こういうのなら、テレビやマンガで見たことあるし、「要はテレポートとか瞬間移動とか、そういうのでしょ?」
「テレビ?」ペトロは言った。たしかに昔の映画で似た話を見たこともあるが、「こわかったりはしないのか?」
「こわくはないよ」アーサーは答えた。笑って、「だって、おじさんと一緒だもん」
それから彼は、こちらもすこし考えてから――「それよりさ」
「なんだ?」
「おばさんじゃないと想うよ、今回のこれ」
「……なに?」
「おじさんはおばさんを疑ってるかも知れないけどさ、今回のこれはおばさんのせいじゃないと想うよ。すくなくとも、おばさんひとりでやったんじゃない」
そうして――、
*
きゅっ。
と夢もない眠りの中で時間と空間は圧縮され変換され、折り畳められた状態で正数から虚数へと反転させられ、そこまで来てやっとマリサ・コスタは、
ペッ。
と現実側へとはじき飛ばされて行った。現実側のマンションの、寝室の、夫婦のベッドの上へと。
ギシッ。
とそれから現実側のマットが軋み、それはまるで現実側へはじき飛ばされた彼女が、そこに軽くダイブしたかのような音だった。
えっ?
となって彼女は目を開いた。開いた目の前にはいつもの天井があった。部屋は異様に明るかった。それは誰かがカーテンをしめ忘れていたからだし、それは太陽が空の高いところで光っていたからである。
えっ?
となって枕もとの時計を見た。驚いたことに、それは先ほど見たときよりも――夫と甥が消えたことを確認したときよりも――4~5時間ほど先へと進んでいたが、それよりも彼女を驚かせたのは、彼女が着ているその服であった。
「ちょっと?」
それは、赤と白と紫それぞれのバラを集め縫い合わせたような絹のドレスだった。裾のスリットは大胆に深く、胸の谷間は極端に強調させられるデザインになっていた。
「ちょっと?!」
彼女は戸惑い起き上がると、今度は下着を確認した。上下とも一応着けてはいたが、こちらも彼女が見たこともない、言い方は悪いが、まるで娼婦かアバズレが着けるような、そんな代物だった。
「なにが、いったい」
困惑したままベッドから下りると、近くの姿見に顔を映した。まぶたの縁は玄く染められ、目はまるでメスの野良猫のよう。頬はまるでムーラン・ルージュで、唇は赤味の強いラベンダー色に塗られていた。
「くっそ!」
彼女は叫びそうになったが、その代わりに、鏡の中の開いた口から、
『やっとお目覚めね、マリサ』と明らかに自分のモノとはちがう声が聞こえて来た。『どう? ステキでしょ? このドレス』
「……え?」
おどろく彼女を無視しつつ声は続けた。うれしそうに、たのしそうに、出来れば彼女にもうれしそうにたのしそうにして貰いたい様子で。
『メイクもばっちり。下着は、まあ、なくてもいいかとも想ったんだけど、あんた年の割にはしっか――』
「……リア?」とここでマリサが彼女に訊いた。「……オフェリアなの?」
『はーあ』彼女は応えた。『やーっと想い出したわね』といまにも彼女に、キスでもしそうな雰囲気で、『ずーっと一緒だったのに、まるで知らない他人のようなんだもの、あんた』
(続く)




