その3
それから10分ほどがしてマリサ・コスタは寝室へと戻って来た。ドア横のイスにすわるか先ほど脱け出したベッドにもどるか一瞬迷ったが、結局ベッドの端に座ることにした。
キシ。
とベッドのスプリングが鳴って彼女は、夫のペトロ・コスタと甥のアーサー・ウォーカーが、この家のどこにもいない事実に向き合うことになった。ふたりの靴や帽子、アーサーお気に入りのカバンやジャケットなんかは昨夜とまったく同じ場所にあったにも関わらずである。すると――、
キッ。
とドア横のイスの鳴る音がして、そこに一人の女性が居ることに気付いた。と言ってもそのイスは、ベッド脇の小さな鏡にうつったイスだったけれど。
『どうしたのよ、マリサ』彼女は訊いた。音楽的と言ってよい滑らかな声で、『なんだかむずかしい顔して』
マリサ・コスタは応えなかったが、顔をそちらに向けたので、鏡の中の彼女は少し嬉しそうだった。
そうして、それからしばらくふたりは、そのまま黙って見つめ合っていたのだが、マリサが不意に、彼女はオフェリアではないのか? という想いにたどり付いてしまったため、彼女あるいは彼女たちの記憶装置は規制され、制限され、抑制された。が、その代わり、
『ひょっとしてアンタ、覚えてないの?』と鏡の中の彼女は言った。
「覚えてないってなにがよ」とマリサ・コスタは応えた。
『ペトロとアーサー』彼女は続けた。
「ふたりを知ってるの?」彼女は訊いた。
『行き先までは分からないけどね』彼女は応えた。『なるほど、やっぱり覚えてないわけね』
「覚えてないってなにがよ」彼女はくり返した。
『ま、いつものことだけどさ』彼女はわらった。呆れた口調で、『私ばっかり覚えてる』
「だからなにがよ?」マリサが訊いた。
『だからふたりを飛ばしたのはさ』彼女は答え――ようとしたところで、
くにゃ。
とマリサの時間と空間は歪み曲げられ鏡像反転し、彼女は、ドア横のイスの上で眠りに着くことになった、鏡の中の。
「やれやれ」鏡の外で彼女はつぶやいた。こちら側のベッドの端で、「やっぱりあんた、私が必要なんじゃない?」
*
打ち合わせ用の小さな部屋の小さな机には、次のようなものが置かれていた。二日酔いの錠剤、誰も使わない灰皿、ノートパソコン、セミB5サイズのキャンパスノート、気の抜けた炭酸水、砂糖を入れ忘れたコーヒー、むずかしい顔で部屋の反対側を見詰める左武文雄の左腕。気の抜けた炭酸水ときたなく汚れたキャンパスノートは彼のものだったが、砂糖なしのコーヒーとノートパソコンは同僚の右京海都のものだった。彼らはいま、というか第五話以降ずっと、左武文雄の失踪事件――消えていたことは間違いないのに、その記録も記憶も痕跡もない失踪事件――の調査を行なっているところだった。が、実際問題、正直なところ、こうして消えた本人も戻って来ているのだから、その辺の記録や記憶や痕跡は、適当に辻褄合わせて「はい、おしまい」として日常生活に戻っていくのも、当事者たちのモヤモヤ感はさておいて、大人あるいは社会人のスキルとしてはありのようにも想うのだが――、
『心臓が息の根を止めるまで、
真実を求めてひた走れ。
それが刑事だ!』
という彼らの上司で警察署長・小張千秋――なんか最近、昔の刑事ドラマにはまっているらしいです――のよく分からない命令を受け、こうしてふたり、調査を続けているのであった。であったが結局、なんにも想い出せない、手掛かりもない、脳の検査に連れて行っても、「健康そのもの!」と太鼓判を押されて帰って来る左武文雄の、「ほんとにナニカあったんですか?」的状態のせいで、迷宮入りというか迷宮の存在そのものから疑わしい状態に彼らは陥っているのでもあった。ほんと正直、左武のズル休みだった方が、まだ話の辻褄は合うのであろうが――、
「が、そうは言っても」とここで右京がつぶやいた。難しい顔のまま、「お前はお前でウソを吐いているようには見えないし」――あの小張さんがここまで引っ掛かってるのも引っ掛かる。
彼女はいまも引き続き、例の殺人鬼――人の血を抜き壁に張り付けにして殺す連続殺人鬼――の調査を行なっていた。
「うーん」とここで左武がうなった。いまだまったくハッキリしないが、なんだか鼻の奥の方で、今回の件と問題の殺人鬼の件につながり……とは言わないまでも、似た印象を受ける自分がいた。もちろん、それが何かは分からないが、
「うーん?」とふたたび彼はうなり、
カチャ。と部屋の扉が開かれた。
「左武さん、右京さん」問題の女署長・小張千秋であった。「一緒に来て下さい。管内で火事です」
*
山岸の祖母の家は、まさにいまが花の盛りであった。もちろんそこは、いつでもそこが、花の盛りであるわけだけれど。
そう。そこは、今朝見た夢とは違っていたが、窓にはツタが、屋根にはフジが、戸口には白いユリとアサガオが咲き、坂に面した裏庭では、彼女自慢のバラとヒマワリが、ケンカもせずに、まるでダンスでも踊るかのように風に吹かれて咲いていた。
「すまない。よく来てくれたな」山岸富士夫は言った。
「うん」山岸まひろは応えた。富士夫に奥へと導かれながら、「会社には忌引きって伝えた」ふたりとも強いふりをしているのがすぐに分かった。「あとのふたりは?」
前にも書いたが、山岸の家に孫は四人。富士夫とまひろ以外の兄弟はとおの昔にこの町を出ており、三男の茄夫は現在、千葉の勝浦で暮らしを立てているが、
「あいつは家と会社の調整が付き次第来てくれるそうだ」と、彼にはすぐに連絡が取れる。がしかし、「鷹士の方とは連絡もつかん」
次男の鷹士は、いまどき珍しい無頼派というか放浪派とでもいうような物書き・小説家で、東京にいるのか京都にいるのか、はたまた中国あるいはエジプトにいるのか、彼のエージェントすらはっきり居場所を把握するのが難しい男であった。
「一応、あいつの知り合いだって編集の人にも探してもらってはいるがな」富士夫は続けた。奥の部屋へと向かいながら、鼻で小さく苦笑しながら、「ま、間に合わんだろうな」
「母さんは?」まひろが訊いた。話題を変えるように、鷹士に対する富士夫の怒りが暴走しないように。
「ショックは受けてたよ」富士夫は応えた。まひろの意図に気付き、彼女の方を一瞬向いて、「仲がいいとは言えなかったが、親父も亡くなってるしな」
これも前に書いたが、彼らの父、つまり今回亡くなった山岸の祖母の息子は、つい最近、末期の癌、それを苦にした自殺で亡くなっていた。
「やっぱりショックなんだよ」富士夫は続けた。家長となった自分こそが、ここで、踏み止まらねばならないと言っているかのように、「通夜には来るだろうが、すぐには動けない様子だったよ」そのため諸々の段取りは自分の方で進めてしまおうと考えている、と。
「そっか、ごめんね」まひろは応え、彼の方を見た。すると、「兄さん……?」
兄は不意に立ち止まり、窓から見えるその家の庭に目を奪われていた。この家の、祖母の想い出の、その花盛りの庭を。
そう。彼女の庭は、それでもやはり、今日もいまが、いまこそが花の盛りであった。先述のバラやヒマワリはもちろん、そこかしこに様々な花――シランにニゲラ、ラベンダーにハクウンボク、ナツツバキもあれば、チャイブやクフェアやギボウシと言った花たちまでもが、まるでこの家の主の旅路を――いや、そんなことすら気付かぬ様子で、いまを盛りと咲いていたのである。
「おばあさまらしいと言えばらしいが」つぶやくように富士夫が言った。「この家のことだけだったよ、遺言に載せるようはっきり言ったのはな」
こちらも以前すこし書いたが、彼らの祖母は、その死期を悟ったのでもあろうか、自身の遺言書を残そうとしているところであった。そうして富士夫は、彼女からの相談というか指令のようなものを受けていたのである。
「母さんを除いた俺たち四人、誰が持ち主になってもいいが、庭の世話と家の手入れだけは、あの人に任せるようにってな」
それ以外の彼女の遺産――それらに比べるとここはただの古家だが――については、好き勝手に分けてくれればよい、と。
「“あの人”?」まひろは訊き返した。「それって不破さんのこと?」
(続く)




