その2
「あら?」とその朝、祝部守希はそうつぶやくと、それからすぐに、「ふーーーーーーーん」と言ってにやにやとした。と言うのも、二階の窓から見えた下の通りに、ひょろっと背の高い少年の影、手持ちぶさたな様子で誰かを待つ清水朱央の姿が見えたからであった。
「えっ?」とそうしてその朝、祝部ひかりはそうおどろくと、「いま、なんて?」と言ってうしろをふり返った。と言うのも、洗面所を出ると同時に聞こえた父の声を、まったく聞き間違えたのかと想ったからだった。
「お前の実の両親」とそうしてその朝、祝部優太は答えていた。彼の娘に。昨夜くり返し考えたセリフの通りに、「会えるかどうかは分からないが、どんな人たちなのかの資料は貰えるそうだ」
これは、昨夜ひかりが、彼女が『窓』の外に見たイメージ――赤ん坊を抱いた若い男女のイメージ――から、いま自分のまわりで起きている問題、『窓』を中心に起こりつつあるなにかに、彼女の実の両親が関係しているのではないか? と疑い、彼らに会えないか? と優太に相談した結果なのだが、
「ほんと?」とひかりは訊き返した。まさかこんなに早く回答が来るとは想ってもいなかった。
「昨夜あの後」優太は答えた。上司とのメールのやり取りを想い出しながら、「例の団体の人にメールを入れたんだがな」ここでわざと苦笑して、「彼、残業中だったそうで、『すぐ調べてみます』と。なんだか悪いことをしたが」今朝起きてパソコンを見ると、「いま言った返事がはいっていたんだよ」と――まあ、これももちろんウソではあるが、「上の許可が取れ次第、今日か明日にでも資料を送ってくれるそうだ」
「ありがとう!」ひかりは喜び、そのいきおいのまま優太に抱き付いた。「ありがとう! お父さん!」
「お、おい、大げさだな」優太はおどろき、すこし後ずさった。もちろん両手は開いたまま、「言われたことをしたまでさ」
「それでもありがとう」ひかりは続けた。子どもの頃のように、彼の腕の付け根におでこを埋めながら。
祝部ひかりにしてみれば、実の両親のことが分かることもそうだが、優太がすぐに動いてくれたことの方がなによりうれしかった。彼女から実の両親について話を出したこともそうだし、彼らについて調べてもらうことは、きっと優太にも守希にもあまり気持ちのよいものではないだろう、そう彼女は考えていたからである。が、しかし、
「ありがとう、お父さん」と彼女はくり返していた。この人はいつでも、自分の味方でいてくれる。そう心から想えたからである。「ほんと、ありがとね」
「うん」後ずさるのを止めて優太は応えた。もちろんそれでも、胸は痛んだが、「よろこんで貰えて、俺もうれしいよ」と、開いたままだった両手を彼女の肩にかけようとして、
「ひ・か・り・ちゃ~~~~~ん」と妻・守希のにやけた声にその手を止めた。
パタパタパタパタ。と階段を降りる彼女のスリッパ音が軽やかにひびき、
「か・れ・し・さ・ま・が~~~」と歌うように彼女は続けた。いまにも踊り出しそうな雰囲気だった。「そっとで、おっまちかねよ~~~」と。
*
「だから、彼氏なんかじゃないって」とそれからしばらくして娘は出て行った。「朱央には、すこし話を聞いてもらってるだけ」そうして、
「ふ~~~~~~~~~~~~~ん」と詮索と興奮と愛らしさの混じり合った声で母をそれを見送った。途中、「あ、でも、ちょっと待って、ひかりちゃん」と一瞬真顔になったが、「あなた、あれは? コンド――」
「行って来ます!」
バタンッ!
と勢いよく扉は閉められ、結局、夫とふたり、そこに取り残されることになった。
「怒られちゃった?」妻が訊いた。
「浮かれ過ぎですよ、奥さま」夫は答えた。彼女の肩に頭を乗せつつ、「あと最後のは、冗談でも頂けないかな」
「そうかしら?」妻はふり向き夫にキスした。
「ひかりと朱央くんだぞ?」彼は応えた。「何億光年かけて、キスのひとつも出来るかどうか」と。
この答えはある意味、彼と彼女の本来の関係を知っていればたいへん的を射たお答えだったのだが、もちろん彼に、そんな事情を知る由もないので、これはただただ、小学生時代の清水朱央くん――引っ越しの日に、ひかりと離れたくないとひとり隠れて泣いていたあの男の子――を想い出しての答えであった。が、すると、そんな夫の、ある種少年のような横顔を見ながらその妻は、
「あなたカワイイ」と言ってふたたび彼の横顔にキスをした。「あと“光年”ってのは距離の単位よ、旦那さま」
「え?」夫は応えた。すこし考えて――なんでこんな言い方を?「あ、ああ、確かにそうだな」
「ま、かわいいひかりちゃんを取られたくないって気持ちは分かりますけどね」と妻。夫のほっぺを軽く叩いて、「で? こんどは何を頼まれたの?」
「え?」
「さっき抱き付かれてたでしょ、あの子に。今度はなに? イヌ? ネコ? この家で動物がダメなのは変わらないし、ゲームなら前にあなたが買って上げたのが――」
「実のご両親だよ」夫は答えた。妻の言葉を遮るように、「実のご両親に会えないかって聞かれたんだ」
沈黙が降りた。すこしの間。
そのため彼は、彼女の肩を軽く抱きしめると、震える彼女のその肩を、優しくゆっくり撫でてやった。「大丈夫だよ」と。「それでもあの子は」と。
「それでもあの子は、ひかりは、俺たちの子どもだよ」と。「誰にもあの子を、奪わせたりはしないさ」と。
*
浅い夢の中で時間と空間は歪み、引き伸ばされ、また縮められてはこねくり回され、マリサ・コスタは、ペッ。と子供時代へ弾き飛ばされていた。十一歳の彼女は、細くて長くて下の景色がまる見えの、歩く人のリズムに合わせて揺れる、歩行者用吊り橋の上に立っていた。左右の膝はガクガク震え、彼女の30m下では、黄色いヘルメットに赤のライフジャケットを着た六人ほどの団体が、ライトブルーの水手に援けられ急奔な川を下っているところであった。
「なるほど――」彼女の父親は言った。橋の真ん中あたりで、腰に手を当て、男らしい素振りで、「お義父さんの言っていたとおりだな」
「でしょう?」彼女の母親は言った。夫に寄り添い、うっとりとした口調で、「子どもの頃、時々連れて来てもらってたのよ」
マリサの膝は震えていた。ひき続き。橋の長さは300mもあったが、両親よりも30mほど後ろで。父親も母親もすっかりロマンに包まれていて、彼女のことを気にする様子もなかった。橋は、4本のケーブルで吊り下げられていた。一応金属製ではあったが、架けられてから既に80年以上が過ぎており、元々は川の両岸にある工場へ向かうための、労働者たちの歩行距離を短縮するためのものであった。マリサら三人家族は、この景勝の地に父親の運転するフィアットで来ていた。母方の祖父の家から、祖父の勧めで、彼らの家に戻る前に。
「ねえー」とマリサは声を上げたかった。自分はここにいるのだと、30m先のロマンスに向かって。
が、しかし彼女は、手すりにつかまるのが精々であり、声を上げることが出来なかった。もちろん、ここの景色を見に来た観光客は他にも大勢いたが、みんなガイドの説明や各々のロマンス、あるいは高所恐怖症に一所懸命で彼女に気を配るものはひとりもいなかった。誰かがガイドにこう訊いた。「ここから落ちたらどうなりますか?」
「ええ、はい、実は残念なことに」とガイドが答えようとして、
「さあ、ほら、マリサ、つかまって」と彼女の姉のオフェリアは言った。突然、彼女の前に右手を出して、「さっさとしないと置いてかれるわよ」
彼女とマリサは双子で、とてもよく似た姉妹だったが、内気で臆病なマリサとはちがい、オフェリアは勝気で堂々として男の子にもよくモテていた。
「ごめん、オフェリア」マリサは彼女の手を取った。それでも膝は震えていたが、どうにかして、依然ロマンスにひたる両親のもとまでたどり着くことが出来た。そうして、「ありがとね、オフェリア」そう言い掛けたところで、
ぐにゃ。
とふたたび時間と空間は歪み、押しつぶされ、また引き伸ばされては寒風に晒され乾燥されてはマリサ・コスタは、
ハッ。
となって目を覚ました。頭から毛布をかぶったまま。そこは彼女と、彼女の夫、ペトロ・コスタの寝室、ベッドの上だった。が、ここで彼女はふたたび、
ハッ。
となって毛布から顔を出した。となりで眠るはずの夫の気配がそこになく、毛布のすきまから見えた寝室のドアは、すっかり開け放されていたからである。
(続く)




