その1
「あんたの兄さんね、富士夫さん」と山岸の家の祖母は言った。庭植えのブルーベリーを確かめながら、「ありゃ、あんたのお父さんそっくりになって来たね。頑固で、融通が利かないところまでそっくり」
それから彼女は、その実をひとつぶ口にふくむと、「だけど、あんたを含めた家族のことを、誰よりも一番に想ってるってのもたしかさ」そう続けてから、「ま、だから余計に面倒なんだろうけどね」と、またちがうベリーの実をひとつ、うしろの縁台にすわる山岸まひろへ渡した。「あんたもちょっと、味をみとくれ」
山岸の祖母の家は、まさに今が花の盛りであった。もちろん彼女の家は、いつでもそこが花の盛りであるわけだけれど、それでも、ナヨクサフジは薄紫の、ムカシヨモギは黄色の筒と白の花弁を、戸口に立ったユリとアサガオは、ケンカもせずに白と青の、坂に面した裏庭では、シランにニゲラにラベンダー、ハクウンボクにナツツバキ、チャイブやクフェアやギボウシと言った花たちまでもが、まるで仲よく一緒にロンドでも踊るかのように、明日の風に吹かれていた。
「どうだい? はやいかね?」山岸の家の祖母は訊いた。
「うーん?」まひろは答えた。「そうだね、すこしはやいかも」
山岸の祖母の家は、すこし低い、ちょっと見には目にも入ってこないような、そんな不思議な丘の上に建てられていた。まるでなにかから隠れるか逃げ出すかのように。ちかくの中学からは、昨年目を見張る急成長を遂げた(と自ら吹聴している)彼らの吹奏楽部員たちが、なにをトチ狂ったのか『葡萄酒色の海』なる大曲をモノにしようと必死のパッチで猛練習をこなしているところであった。
「そもそも、人数が足りないと想うんだけどねぇ」曲げていた腰を伸ばしながら山岸の家の祖母は言った。「ま、まずは走り出す、海に漕ぎ出すってのも、若いひとの特権かもね」
それから彼女は、するする伸びた鼻の先をかるくこすってクスリとわらい、「知ってるかい? このお話」と、まひろのとなりに座りつつ訊いた。「“長くも永き旅路の果てに、緑の大地を踏みしめた、あの乙女――じゃなかった。勇敢な男の物語”を」
「え?」まひろは訊き返した。空へと向けてたその顔を、彼女の方へと向けながら、「どうしたのさ? いきなり」
この質問に祖母は答えようとしたが、吹奏楽部のホルンとユーフォニアムが、同時に仲よくリズムを間違え、彼女の言葉を止めてしまった。フハッ。と言って祖母がわらい、つられてまひろも、クスッ。とわらった。
「そうだねえ」山岸の家の祖母は続けた。なんだか突然、声の調子を変えて、「あんたはいい子だから、いい子過ぎるから、そこがちょっと心配なんだけどねえ」
祖母の変化にまひろは戸惑い、彼女がいったい何の話をしようとしているのか、それを祖母に訊いてみようとした。が――、
「本当に、悪かったとは想ってるんだよ」と、その問いを封じ込めるように彼女は続けた。「けど、本当に必要なことだったんだよ」
「おばあちゃん?」まひろは言った。
「でもね、本当はね」祖母は続けた。まひろの声が、いまはもう、聞こえていないかのように、「あんたたちの子どもにもいちど、死ぬ前にいちど、いちどでいいから、会っておきたかったんだけどねえ」
「子ども?」まひろは訊き返した。
「いいかい、まひろ」祖母は言った。小さいが強い口調で、彼女の手を取りながら、「あんたのちから、あんたのそのちからは、きっと、いいことのために使うんだよ」
ちかくの中学から聞こえていた音楽は、次第にテーマ、次いで全体へとその荒々しさを増しており、そこに木管楽器の半音階が、まさに冥府の門よりあふれ出る亡者が如く音楽全体を蝕もうとしているところであった。すると、この音楽に圧されるように山岸まひろは、逸るこころのそのままに、
「おばあちゃん?」と彼女の祖母の手をにぎり返そうとしたのだが、しかしその手はすでにそこにはなく、
「おばあちゃん?」とまひろはあせり、目の前にいるはずの祖母をその手に抱こうと彼女に三度近寄ったのだが、その三度とも、祖母はまるで影か夢にも似て、
「おばあちゃん?」と、いよいよ叫び出しそうなまひろの両手をふわりとすり抜けてしまうのであった。
半音階の亡者どもは、いままさにこの町、この家、この庭をも蝕み尽くそうとしており、その白く暗き闇どもは、いまではまひろをも襲おうとしていた。が、
「本当に、悪かったとは想ってるんだよ」とつぶやく祖母の声に合わせるように、ここでちかくの中学から、ホルンを中心とした金管楽器が、雄々しく勇ましいテーマ、ファンファーレを奏で始めるのであった。
「けど、本当に必要なことだったんだよ」と祖母は続け、音楽は亡者をかき分け疾風怒涛に進行していく。
「そろそろお帰り」祖母は続ける。「急いで、一刻もはやく、ひかりある世界へ」
すべての楽器がひとつの和音に向かって速度を高め、それはまさに、ひと筋のひかりを見付け生還を果たさんとする英雄の道行きそのものでもあった。
「よく覚えてお行き」祖母は続けた。まさに闇に取り込まれんとするその姿で、「ここでの話は、きっとあの人も聞きたがるだろうからさ」
「あのひと?」とまひろは訊き返し、
パァアーーーーーーーーッン!!! と管弦楽の和音は鳴り響き、
「ヤスコ先生によろしく」と祖母が笑って音楽は終局を迎えた。そうして――、
*
「ヤスコ先生?」山岸まひろは訊き返し、
「え?」と山岸まひろは目を覚ました。そうして――、
*
「え?」と山岸まひろの夢が終わるのを待っていたかのように、
ブー、ブー、ブー、ブー、
ブー、ブー、ブー、ブー、
と枕もとの彼女のスマートフォンは鳴った。彼女の兄、富士夫からの着信だった。そうして――、
*
「え?」と山岸まひろは訊き返していた。自分がいまいるのが夢なのか現実なのか、それともまだ影の中にいるのか、ひかりの中にいるのか、はっきりとしない様子で。
『しっかりしろ、まひろ』と山岸富士夫は言った。電話の向こうで、強いふりをしているのがすぐに分かった。『おばあさまがお亡くなりになられた。来れるようなら、すぐに来てくれ』
(続く)




