プロローグ
ライン歴927年――
バゼラント王国の辺境の街『バーレル』にて。
その日、男は浮足立っていた。
「妻が出産するからだろう」と周りの者は言ったが、それだけでは無い。
怖いのだ。
ただ、ひたすらに。
子供は無事に生まれてくるのか、妻は無事に出産できるのか、自分は立派な父親になれるのか。
そもそも『父親』とは何なのか。
その全てが男の中で駆け巡り、冷静さを欠かせていた。
「あぁ……一体、僕はどうすれば!」
仕事も碌に手が付かない。
もう昼時だというのに朝から何も進んでいない。
そんな男を見かねて、女は深く溜息をついた。
「カール様。そんなに気になるのでしたら本日はもうお休みになって、奥様の所に行かれたらよろしいのでは? 幸い、今日はコレといった予定もありませんので。私一人でも問題ありません」
「サレナ……。でも、もうすぐ今年の酒類製造実績を取りまとめた書類の提出期限だし完成させないと。それにアリスは『来なくて良い』って……」
煮え切らない態度のカールにサレナはもう一度深く溜息をつき、自分が手に持っていた書類をカールの机に叩きつけた。
「そんな状態で居られてもこっちが迷惑です」
棘のある言葉だった。
優柔不断なカールにはこれくらいはっきり言わないと駄目なのだ。
冷たく思える言葉。
しかし、サレナの棘はいつだって温かいのだ。
「それに、子供の誕生に立ち会えなかった後悔は永遠に残りますよ」
カールはその言葉を聞いて立ち上がる。
そして、机の向こうにいるサレナに駆け寄って両手を握り、激しく上下に振った。
「サレナぁ~! 君って人は本当に……! いや、すまない。お陰で踏ん切りがついたよ、ありがとう!」
カールは目を輝かせていた。
「じゃあ、僕は教会に行ってアリスの隣に居ることにするけど、君は――」
「いくら予定が無いとは言え、誰かが居ないと急な来客には対応できませんから。まったく、早く行ってください」
そう言ってサレナは上着をカールに手渡す。
カールはそれを受け取って羽織り、ドアに手をかけた。
「忘れ物ですよカール様。大切な剣を忘れるなんて、よっぽど焦ってるんですね」
サレナはカールの机に立て掛けられていた剣を彼に手渡す。
「ありがとうサレナ。いつも世話をかけるね」
「お気になさらず。いつものことですから」
そう答えたサレナは、優しく微笑んでいた。
「お子さん、元気に生まれると良いですね」
「あぁ。君も祈っていてくれ!」
カールは剣を腰に差して勢いよく走り出し、自らの屋敷を後にする。
――――
カールは教会に向かいながら昔の記憶に思いを馳せていた。
こんな風に全力で走るのはいつぶりだったか。
騎士団の皆は、今は何をしているのか。
いつの日か父に会うことはできるのだろうか。
バーレルの街はそこまで広い街では無いので、そんな事を考えているとすぐにテレアス教会に到着した。
テレアス教――
それは隣国であるテレアス教皇国を本拠地とする、この世界で最も多くの国で国教とされている宗教だ。
かつて存在したという十二の神が一柱、戦神テレアスを信仰する宗教である。
カールはテレアス教会のドアを開こうとする。
だが、ドアは固く閉じられていた。
「えぇ!? どうして閉まってるんだ! すいません、ちょっと開けてください!」
カールはドア何度も何度も叩く。
しばらくすると中から人の声が聞こえた。
「どちら様ですかな? 申し訳ないが今は出産の最中なんだ。妊婦の安全のため誰も中に入れる訳にはいかない」
「僕だよホルムさん! カールだ! カール・フリードベルクだ! バーレルの街の領主でバゼラントの貴族だ! 階級は子爵!」
「ふうむ。それだけなら誰でも知っている情報ですな。誰かが成りすましてるのかも知れない」
「あぁ、もう! 妻の名前はアリス・フリードベルクで、旧姓はイェルケン! クロード王国シルバーアーク領トルマータ出身で、妹の名前はソフィア・イェルケンだ! これで満足かい!?」
カールは苛立ちながら早口で言った事もあり息を切らしている。
だが、それが功を奏したのか教会のドアが開いた。
「すまないなカール。貴族の子となれば命を狙われることもあるだろうからな。念には念を、というやつだ」
そう言いながら中から出て来たのは白髪で初老の男性だ。
「まったく……。もう数年の付き合いなんだから声でわかるだろう?」
「君の声はわかっても、その声が君である証拠は無いからな。君と私くらいしか知らない情報を合言葉の代わりにするのが最も安全だと思ったんだ。それはそうとアリスが頑張っている。君に出来る事は少ないが、君にしかできない仕事もある。さあ、来なさい」
そうしてカールは教会の中に居るアリスの元に案内される。
アリスは聖堂におり、傷病者に治療を施す為の台に乗せられいきんでいた。
周りは長椅子で囲われ、長椅子にはお湯の入った桶やタオルが置かれている。
恐らくホルムが準備したのだろう。
だが、一人でこれだけの量を用意できるのだろうか。
カールはそんな疑問を抱いたが、答えはすぐに出た。
よく見れば金色の髪をした幼い少女が、アリスの手を小さな手で握っていたのだ。
「ホルムさん、あの娘は?」
今まで何度も教会に来た事はあったが、今、自分の眼の前にいる少女を見るのは初めてだった。
「そう言えば言ってなかったね。先日テレアスに戻った時、大聖堂の裏に捨てられていたその娘を見つけたんだ。一応親を探してみたのだが名乗る者はいなかった。まあ、当然だがな。後からやっぱり惜しくなるくらいなら、子供なんて捨てはせん」
ホルムはカールに話しながら彼に、アリスの空いている方の手を握るように指示を出す。
カールがアリスの手を握ると、再びホルムは金髪の少女の話を再開した。
「まったく、聖職者の国の総本山で子供を捨てるなどとは、なんとも情けない話だ。まあ、だからといってそのままにしておく訳にも行くまい。私はこの娘を拾ってリリエル・ガーナと名付けた。それから猊下に直接許可を貰って私が育てる事にしたんだ」
「へえ……。それにしても教皇様に直々に話を通すなんて、もしかしてホルムさんって結構偉いのかい?」
「まあ、一応大司教の肩書を持ってはいるよ。こんな田舎の教会で子育てをしている、しがない老人だがね」
嫌味のように言うホルムに、カールは口を尖らせて、
「こんな田舎で老人に子育てさせて悪かったね!」
そういって二人は嫌味の応酬を交わした。
「さあカール。私の長い経験から言えばもうすぐ産まれる。力強く手を握ってあげなさい。アリス、君も最後の頑張り時だ。痛みで喋るどころでは無いだろうが、もうひと踏ん張りだよ。できるだけ魔術で痛みを消してはいるが、分娩の痛みは凄まじいからな。リリエル、君は温かいタオルを用意して待機しておいてくれ」
ホルムは皆に指示を出し、皆それぞれ返事をした。
カールはひたすら祈った。
アリスと子供が無事であることを。
一分一秒が凄まじく長く感じる。
アリスの呻き声を永久に聞いている気がして来る。
そして、ついにその時はきた。
アリスが一際大きな呻き声を上げると子供は完全に出て来る。
ホルムはすかさず子供を取り上げ、リリエルからタオルを受け取って拭き上げた。
「ホルム、さん……。私の、子は……」
子供は産まれる時に産声をあげる……。
その筈だ、そうでなくてはならないのだ。
しかし、産まれた子は声を出すどころか、動いてすらいなかった。
「ホルムさん、僕達の子は……」
ホルムは何も言わない。
だが、その顔が全てを物語っていたのだ。
アリスは察して涙を流す。
耐えられなかったのだ。
自らの子供が、自分とカールの愛の結晶が既に死んでいる事に。
「おとうさん、わたしにもかして!」
リリエルはそう言うと、ホルムが抱いていた子を奪い取った。
「どうしてしゃべらないの? うまれたこは、げんきにしていなくちゃいけないのよ! おきなさい!」
リリエルはそう言いながら何度も産まれてきた子供を撫でた。
「リリエル、その子はもう――」
死んでいる。
ホルムがそう言葉にしようとしたその時だった。
教会の中に赤子の産声が木霊する。
「奇跡だ……」
カールは泣いていた。
「そうよ! それでいいのよ! あなたはすこし、はずかしがりやさんなのね!」
リリエルは尚も「いいこいいこ!」と赤子を撫でる。
ホルムそんなはリリエルから子供を返してもらい、丁寧に拭き上げてアリスに渡した。
「まるで奇跡のようだな。テレアス様の御業か。こんなことは私も初めてだよアリス」
ホルムは驚きと喜びが混じった顔と声でアリスに話しかけた。
「もしテレアス様がいるとしたら、随分と可愛くて小さいのね」
泣きながら、しかし笑いながら愛おしそうに我が子を抱くアリス。
カールはそんな二人を、大きく腕を広げて包む様に抱いた。
「ねえカール。この子の名前、決まっているの? あなたはいつも優柔不断だから」
「アリス、確かに僕は優柔不断だけど、やるときはやる男だよ」
カールはアリスに微笑みながら我が子を抱き上げて言った。
「ここよりずっと北の大地。エルド大陸にある僕の故郷。オルド王国には、千年に渡り帝国の侵略から民を守り続け、今なお砦として使われている山がある。その山の名前は氷牢山グレイシャル」
カールは子供を天井に掲げて続ける。
「多くの人を守ってきた山の名に恥じぬ様に、君にも、いつかできる大切な誰かを守って欲しいという願いからこの名前を授ける。グレイシャル。グレイシャル・フリードベルクだ」
こうしてグレイシャル・フリードベルクは、この世に生を受けたのだった。