7. 沼地の花嫁
「これはこれは、揃いも揃って勇ましいことだが、せっかくの花嫁を奪われては堪らぬ。易易とあちらへ行かせると思うなよ。」
絢香を助ける決意をしたまではよかったが、まずは目の前の蝦蟇をなんとかした上で向こうへ行き、絢香を探し、捕らえられている状態から解放し、更に全員無事にこちらへ戻って来なくてはならない。
……前途多難だ。
そう思っていると、亘が蝦蟇を背に振り返り、声を潜めてこちらを見た。
「奏太様。汐がご説明したかどうか分かりませんが、貴方には対妖の強力な武器があります。何かおわかりになりますか?」
「……え、武器?」
完全な丸腰状態で、武器があると言われても……
首を傾げていると、亘は気づかないのか、とでも言いたげに片眉を上げる。
「貴方が日々結界に注いでいるものは何です?」
「……力?」
そう答えると、亘はハアとこれみよがしにため息をつく。亘に眉根を寄せていると、汐が見かねたように口を開いた。
「貴方が結界に注いでいるのは、正しくは陽の気です。そして、人には無害な陽の気ですが、我々が日の下を歩けぬように、それには妖を焼き尽くす力があるのです。」
そういえば、太陽が出ると妖は陽の気に焼かれてしまうのだと汐は以前言っていた。それが、自分の中から出ている力の正体ということか。
「つまり、結界の綻びを塞ぐ要領で力を妖に向ければいいってこと?」
「ええ、そういうことです。では、一度試してみましょう。くれぐれも我らに向けぬようご注意を。」
亘はまるで生徒に問題を課す教師のようにニコリと笑う。
蝦蟇はその間も眉間に皺を寄せ、探るようにこちらを見ていた。
「何をごちゃごちゃと。非力な者同士が小細工で策を巡らせたところで無駄だ。さっさと諦めて帰るがいい。」
しかし俺はそれを無視して、パチンと手を合わせ蝦蟇に向き合う。ものは試し。向こうがこちらを侮っている間に練習させてもらおう。
俺は汐と亘が近くにいないことを確認した上で、いつものように頭に浮かぶ祝詞を唱え始める。
いつもと違うのは、キラキラした光が、灰色の渦ではなく真っすぐに蝦蟇に向かって行っているということだ。
蝦蟇は最初、その光の粒を見て嘲笑うような表情を浮かべていた。しかし、光の粒が届き始めると、途端に顔色を変える。
「なんだ、これは!」
光の粒がジュっと音を立てて蝦蟇に触れる。更に、触れたそばからどんどん皮膚が赤く光を帯び、焼けただれていく。それは次第に大きな体を覆い、全体を赤く染めていく。
なかなか目を覆いたくなるような光景だ。
「ぎゃあああ!」
と蝦蟇の叫ぶ声が周囲に響く。
「奏太様、そこまでです!」
亘の張り上げる声が響くころには、蝦蟇は焼けただれた全身を守るように蹲っていた。
俺はふっと力を抜いてその場に座り込む。
「これから御友人を救いに行くのでしょう。力の使いすぎには注意が必要です。しばしそちらで御休憩を。」
亘はそう言うと、ヒョイっとうめき声を上げながら動けなくなった蝦蟇の上に飛び乗り、どこから取り出したのか、ロープでぐるぐる巻きにしていく。
「コイツはこのまま妖界に連れて行きましょう。」
ロープの端を掴んだまま再びこちらにやってきた亘は、そう言いながら俺と唖然としたままの潤也に目を向けた。
「……奏太、お前……何なの……?」
潤也は声を絞り出すように言う。
でも、何なの、と言われても、そんなのこっちが聞きたい。
「俺もよくわかんない。」
自分の掌を見ながらそう言うと、潤也はハアと深く息を吐きだした。
「おじさん、さっき奏太がやってたやつ、俺にもできるの?」
おじさん呼ばわりされた亘は、僅かに眉を上げる。
「いや、あれは奏太様にしかできぬ。しかし小僧も丸腰というわけにはいくまい。これを預ける。自分の身くらい自分で守れ。」
こちらはこちらで、潤也のことを小僧呼ばわりだ。
ただ、そう言いながらも自分の懐にあった小刀を潤也に手渡した。
「……こんなの、初めて持った……」
潤也は手に持った刀をまじまじと見つめる。小刀といえど、そこそこの刃渡りがある。包丁よりも長いくらいだ。
潤也は恐る恐るといった様子で鞘から刀を抜いてそれを確認した。
「亘の武器は?」
「まあ、今回は自前の爪でなんとかします」
亘はそう言うと、自分の手をスッと上げて手の部分だけを鷲の状態に変える。黒く鋭い鉤爪が三本だ。あれで切り裂かれでもすれば一溜まりもないだろう。
「汐は?」
「私は上空に退避して状況把握につとめますので、ご心配なく」
着いてはくるが、戦うつもりはないらしい。
「奏太様、力は戻ってきていますか?」
「うーん。多分大丈夫」
手を握ったり閉じたりして様子を窺う。亘が途中で止めてくれたおかげで、そこまで力を消費していない。
「では、さっさと参りましょう」
亘は再びヒョイっと蝦蟇の上に乗り、蝦蟇の頭を蹴って飛び上がると対岸に降り立った。
身軽な亘とは違い、俺たちはぐるりと沼地を回り込んで対岸へ向かわなくてはならない。
「……なあ、奏太。アイツら何なの? 俺たちはこれからどこに行くんだよ」
ようやく落ち着きを取り戻した潤也が、ぼそっと小さく零す。俺は、自分の上をヒラヒラ飛ぶ汐を見上げた。
「……妖だよ。人より大きな蛙が喋って、蝶が人間の姿になるんだ。もう疑いようがないだろ。これから行くのは、そいつらが住む世界だよ」
潤也は怪訝な顔で、こちらをじっと見つめる。
「じゃあ、お前は何なんだよ。何でそんなこと知ってるんだよ」
まるで探るような目つきだ。俺のことも妖だとでも言いたいのだろうか。
……まあ、妖と普通に会話して、白いキラキラを掌から出して大蝦蟇を焼き尽くすようなやつ、普通の人間とは言い難いかもしれないけど。
「人だよ。知ってるだろ」
「俺の知ってるお前じゃないから言ってんだよ」
俺は疑うような潤也の顔にハアと息を吐く。
「夏休みの間に色々あったんだよ。自分でも何でこうなったのかよくわかんないけど」
潤也は未だ、俺の顔をじっと見ている。
「だから、人だってば。よくわかんないことができるようになって、よくわかんない知り合いが増えただけだ」
それに、今度は潤也がハアと深く息を吐きだした。
「いったい何がどうなってるんだよ」
「あながち、キャンプで疲れて悪い夢でも見てるのかもしれないぞ」
「こんな細かいところまではっきり詳細な夢があってたまるか」
こちらとしては、夢で済ませてもらったほうがあとからの面倒は少なそうなのだが、どうやらそうもいかなそうだ。
「夢じゃないなら、絢香を助けるのが最優先だろ。余計なこと考えてないで、ひとまず目の前のことに集中したらどうだ?」
潤也はそれに、ムッと唇を僅かに尖らせる。
「全部終わったら、詳しく聞かせてもらうからな。」
潤也の責めるような口調に、俺は恨めしい思いで、亘が捕らえている蝦蟇に目を向けた。
蝦蟇を引き摺る亘を手伝って、ベトベトぶよぶよの巨体を潤也と押して灰色の渦をくぐる。
渦の向こうは、鬱蒼とした森の中だった。原生林と言われてもおかしくないくらいに、一本一本の木々が巨大だ。
「……これが妖界……」
呟くように言うと、汐がひらりと俺と潤也の間にやってくる。
「此処から先はお静かに。どこに耳があるか分かりません。それから、御二方を妖界の濃い陰の気に長い時間晒させるわけには参りません。手短に参りましょう」
汐は簡単にそう言うが、もはやここは完全に敵地だ。そんなにすんなり終わらせてくれるわけがない。
「亘、相手は蝦蟇だし、ひとまず私が上空から様子を見てくるから、御二人をお願いね」
汐はそう言うと、ふわりと空に飛び上がっていく。
汐を見送り、亘が先程の蝦蟇を木にぐるぐると巻き付けていくのを眺めながら、潤也と共にじっと待つ。汐は然程時間をおかずに戻ってきた。
「ここから先に篝火の焚かれた沼があります。その縛り上げられた蝦蟇と同じ大きさの蝦蟇が一匹。隣に人の姿の少女がいました。恐らく奏太様のご友人でしょう。さらに、沼を囲むように、その半分くらいの大きさの蝦蟇が十数匹います。ゆっくり静かに近づき、隙をついて救出しましょう」
汐について木々の間を抜けると、徐々にチラチラと揺れるオレンジ色の火の明かりが見え始めた。パチパチとはぜる音も聞こえてくる。
本当は仲間たちと焚き火を囲んでいるはずだったのに、なんでこんなことになってしまったのだろう。
茂みに隠れて煌々と照らされる場所を覗き見ると、汐の言っていた通り、沼を囲むように篝火が焚かれ、たくさんの蝦蟇が集まり、対岸に一際大きな蝦蟇とその隣に虚ろな表情で座り込む絢香がいた。
「これより、婚姻の儀を始める!」
何処からか、嗄声が張り上げられる。
よくわからないが、本気で絢香を蝦蟇の花嫁にするつもりらしい。妖界で蝦蟇と家族になって暮らすだなんて、想像しただけで吐き気がする。
そう思っていると、突然、潤也が立ち上がり、茂みからバッと飛び出した。制止しようとしたがもう手遅れだ。
「絢香!」
潤也が声を上げて走り出す。
ゆっくり静かに近づいて、隙をついて助け出す作戦はどこへやら。直ぐに潤也に気づいた蝦蟇達が潤也の行く手を塞ぐ。
「人のくせに、妖界に仲間を取り戻しに来たか。」
対岸にいる大蝦蟇が声を上げた。
「守るべき入口を放置して、あやつは一体何をしているのだ。このような仔鼠を通しおって。」
きっとあの沼にいたもう一匹の蝦蟇のことを言っているのだろう。あいつは既に、汐を待っている間、亘に木にぐるぐると縛り付けられている。
しかし、それを知らない眼の前の大蝦蟇は余裕の表情だ。先程の蝦蟇と同様に、完全にこちらを侮っている。
「花嫁を奪われるわけにはいかぬ。お前ら、その鼠共を捕らえろ!」
大蝦蟇がボスなのだろう。号令によって、人の半分程の大きさの蝦蟇が一斉にこちらに向かって集まってくる。
気味の悪いことこの上ない。こんなのに飛びかかられると思うだけでゾワっと全身に鳥肌が立つ。俺は咄嗟にパンと手を打ち鳴らした。
前方に迫った蝦蟇たちに陽の気を向けると、直ぐに陽の気に晒された蝦蟇たちから、ギャッという叫び声が聞こえてくる。さらに、目の前で赤く発光しながら、次々に倒れていく。吐き気がするような光景だ。でも、目を背けている隙がないくらい、大きいのから小さいのまで、次々ちこちらに飛びかかって来ようとする。
「何なんだよ、こいつ等!」
潤也もまた、悲鳴めいた叫び声を上げながら、矢鱈めったらに借り物の刀を振り回していた。横や背後からやって来ようとする奴らに飛びかかられながらも、一応当たってはいるようで、蝦蟇たちが怯み始めているように見える。
対岸では、亘がふわりと飛び上がり、ボスの真上に位置取って、長い爪をキラリと光らせ、勢いよく下降しているのがチラリと見えた。蝦蟇の図体はデカいが、捕食者と被捕食者の関係性だ。きっとうまいことやってくれるだろう。
そう思った時だった。
「やめろお前ら! この小娘がどうなっても知らぬぞ!」
という怒声が周囲に響く。
何事かと周囲を見回すと、絢香の首に赤く長い舌を巻き付けた蝦蟇が対岸に見えた。
「このような小娘、首を締め圧し折るくらい容易いのだぞ。殺されたくなければ、大人しくしろ!」
蝦蟇の言葉に、こちら側がピタリと動きを止める。
亘は大蝦蟇と睨み合い、潤也は短刀を構えたまま固まってしまった。もちろん俺も、祝詞を唱えるのをやめている。この状態で武器のない汐も動くのは難しいだろう。
「くそっ卑怯なことすんな!」
潤也が叫ぶ。
「卑怯なものか! 突然婚儀に乗り込み、仲間を次々に殺しやがって!」
「死んでねーよ! よく見ろ! そして、絢香を離せ!」
実際、どうかはわからないが、一応俺も完全に焼き尽くすようなことはしていない。
というか、次々にやってくるので、じっと陽の気を当て続けることができない、と言ったほうが正しい。
周囲では、複数の蝦蟇たちが、火傷や刀傷でうめき声を上げている。
……地獄絵図であることには変わり無いけど。
「うるさい! やってることに違いはない! お前らこそ大人しく捕らえられるか、とっとと帰れ!」
蝦蟇はそう叫ぶように言うと、ぐっと絢香を自分の方に引き寄せる。
……どうすればいい。
完全に手詰まり状態だ。
絢香を人質にされたら、俺達は動けない。
「お前ら、何してる! その小僧共を捕らえろ!」
大蝦蟇がまだ元気な蝦蟇達に向かって声を張り上げる。
しかし、大蝦蟇自身は未だ爪を光らせる亘と向き合って動けないし、こちらに迫ってきていた蝦蟇達も、陽の気を警戒して迂闊には近寄ってはこない。
互いに睨み合った状態で、時が静止する。
そんな中、突如、均衡を崩す者が現れた。
空から亘と同じように背から翼をはやした男が、物凄いスピードで絢香と絢香を捕える蝦蟇のもとに直滑降してきたのだ。
ベージュ色の髪に着物姿の乱入者に、俺は一体何事かと目を見張る。目的は全くわからない。ただ、何が起こっているのかと戸惑う間もなく、男は腰にかけた刀がスッと抜き放ち、その刀身が篝火に光った。
背筋にゾッと悪寒が走る。
「絢香!」
潤也が悲鳴を上げるように絢香の名前を叫んだ。
このままでは、訳もわからないうちに、絢香が刀で斬られてしまうのでは、そんな不安が過る。
でも、絢香が居るのは対岸だ。振りかざされた刀を俺達は見ていることしかできない。
もうダメだ!
そう思った瞬間、絢香ではなく、絢香の首に回されていた蝦蟇の舌の根本付近に、その刀身が振り下ろされた。
「ギャっ」
という声とともに蝦蟇がひっくり返ってのたうち回る。
一体何が……
戸惑いがその場に広がる。
しかし、そう思っているうちに、翼の生えた乱入者は、絢香をふっと掴んで持ち上げ、あっという間に上空に連れ去ってしまった。