256. 闇の悪鬼③
陰の子に向かって歩みを進めていくが、やっぱり、虚鬼達は俺を素通りしていく。
強気で押し切って出てきたは良いけど、椿の言う通り、陰の子にたどり着く前に襲って来られたらと内心ヒヤヒヤしていた。でも、虚鬼達は面白いくらいにこちらに無関心だ。
陰の子の近くまでいくと、その大きさがよくわかった。ちょっとしたビルを相手にする感じだ。陽の気を放ったところで意味があるのかと不安になる。
当の陰の子は、虚鬼達同様、俺に一切の関心を示さない。小さすぎるから気付いていないのか、気付いているけどどうでもいいのか。
しかも、近づくに連れ、どんどんと奇妙な音がしてくる。最初は、風が強い日のすきま風のような音に聞こえた。ピューという高い音に、ゴォォォという低い音。それらが混じり合って、不気味な音を奏でていた。
更に近づくと、最初の印象で、輪郭がはっきりとしないと思った理由がわかった。
この悪鬼の体には、硬い表皮のようなものがないのだ。いや、あるのかも知れないけど、少なくとも見えるような状態ではない。
体全体が、漆黒の厚いベールの様な陰の気で覆われていて、更に、そのベールの向こう側が僅かに透けて見える。
それに気付いた途端、吐き出すものもないに、オエッと思わずえずいた。
そこにあったのは、たくさんの鬼の体の一部分。それの集合体。無数の腕や足、頭、胴、ところどころ飛び出す骨のようなものまで。しかも、それら一つ一つが生きているように蠢いている。
虚鬼達が吸い込まれるようにこの悪鬼の体に飛び込んでいったけど、この断片の持ち主は、その虚鬼たちなのだろうか。
しかも、複数の高低さまざまな音が共鳴するように聞こえていたあれも、近づけばよく分かる。悪鬼の体のところどころから、少しだけ見える複数の口。それらが動き、うめき声を上げていた。
「……これが、陰の子……?」
これほどおぞましい存在を、俺は未だかつて見たことがない。主様に連れて行かれた神社の地下で見た悪鬼だって、これよりまともに見える。
『……最初は、こうではなかったのだ』
御先祖様が悔しそうな声音で言った。
『陽の気を放て。この子の闇を、祓ってやってくれ』
切実な響きを帯びる声に、俺はコクと頷いた。
それから、パンと手を打ち付ける。いつものように、しかし、今ままでよりもはるかに大きい光の奔流が、陰の子の体に向かっていく。
一瞬目の前を白で染めるほど、今までの自分とは比較にならないくらいに大きく強い力。
けれど、その白が落ち着いても、陰の子にはなんの反応もない。陰の気を少しも削れた感じがしないし、それどころか、ベールを突き抜けたような雰囲気すらない。
「いや、全然効いてないんですけど!」
思わず、大きな声が出た。
まさか、これほど無意味な行為になるとは思わなかった。せめて、多少でもダメージがあればよかったけど、ここまで手応えがないなんて。
『……うーむ、汝の発する陽の気で破れぬ程、濃く厚い陰の気で覆われているということか……』
むむむ、と御先祖様は唸るけど、陽の気でどうにもならないなら、手の打ちようがないではないか。
「……一応、触れて注いでみますか? あの陰の気の膜が邪魔してるなら、中に入れば少しは効くかも。……あれに触るのはちょっと抵抗あるけど……」
ウゴウゴと常に動き続ける無数の体の一部に触れるのは、かなり勇気がいる。いくつもある口はずっと呻き続け、二つどころではないギョロギョロとした目がこちらを見る。長さの違う腕や手首は、何かを掴もうと常に蠢く。
吐き気を堪えるので精一杯なのに、あれに触れるのは正直キツイ。けど、やらなければ、活路が見えない。
俺はゴクリと唾を飲み込み、悪鬼の周囲を包む陰の気に、一歩踏み出した。
もしや先に進めない可能性もあるのでは、と思ったけど、真っ直ぐに手を突き出せば難なくベールを突き抜けられる。
俺は手を前に突き出しながら、ズブズブとその幕の中に入っていく。陽の気を弾くほどの濃い陰の気。この中でも無事で居られるのが不思議でならない。
このまま陽の気を先ほどのように放っても体に届くかどうか分からないので、仕方なしに一番無難そうなところを選んで触れる。
顔に相当するところは生理的に触りたくない。腕が蠢くところは、掴まれそうだから避ける。胴体と思われるところも、内臓や骨が飛び出す部分は却下だ。
無傷の足のようなものを見つけたけど、やっぱり触れるのはためらわれる。しかし、そこで躊躇したって先に進めない。俺は奥歯を噛み、その足に触れて手のひらに意識を集中した。
その瞬間、一体どこか伸びてきたのか、一本の腕が目の前に突き出しグッと俺の腕を掴んだ。
しかも、握りつぶさんばかりのすごい力だ。それがグイッと俺を陰の子の体に引き寄せる。
「――っ!? 嘘だろ!? 引きずり込まれるっ!!」
まさか、虚鬼達はこうやって取り込まれていっていたのだろうか。
腕がズブズブと、瞬く間に陰の子の体の中に埋まっていく。
『呆けていないで陽の気を放て、愚か者!』
上腕まで引き込まれたところで、御先祖様が痺れを切らしたように声を荒げた。
俺は咄嗟に手に陽の気を込める。アレに取り込まれる気持ちの悪さに、一度に引き出せる陽の気を一気に引き出し叩き込む。
取り込まれかけた手で、そのまま陽の気を注いだからだろう。複数の鬼の体の部分部分から眩い白の光が漏れた。そうかと思えば、ジュジュっと音を立てながら、その部分だけが焼け焦げ瞬く間に灰と化していく。
気づけば、悪鬼の体にポカンと大きな穴が空いていた。
瞬間、怒り狂うような雄叫びが周囲に轟いた。
それとともに、どこからかビュッと突風が吹く。何が、と思うまもなく、大きくて固い何かが思い切り自分にぶつかり、全身に衝撃が走った。ぶつかった腕と体が激痛に支配され、ゴホッっと嫌な咳が出て、自分の口から何かが溢れる。
そのまま体が吹き飛ばされるのかと思ったけど、そうはならず、ぶつかってきた何かに、ギュウと体全体を締め付けられる感覚がした。そのまま地面から足が離れ、さっき痛めたところがミシミシと悲鳴をあげる。
「うぅ……っ!!」
荒くなる息遣いの中で、自分を締め付ける何かに目を向ければ、黒い陰の気と共に蠢く体の一部の集合体が目の前に見えた。それらが自分を取り巻き、誰のものかも分からないギョロリとした片目と目が合う。
形状を考えれば、俺を掴んでいるのは、恐らく大きな手なのだろう。
「……う……うぅ……陰の子に……掴まれたのか……?」
そう状況を確認している内に、俺の体は、みるみるうちに高く持ち上げられる。
目の前に、光のない巨大な双眸と、複数の鬼の体に覆われた鼻、それから、闇に満たされどこまでも続く一際大きな穴が見えた。並んだ歯、蠢く舌。その奥から吹く、何かが腐ったような悪臭のする生暖かい風。
巨大な悪鬼の顔面が、俺の目の前にあった。
「……まさか、俺を、食うつもりなのか……?」
さっきまで、この悪鬼は、自分に寄ってくる虚鬼を、体で吸収しながら、自分の手でも掴んで口に放り込んでいた。
『何をしている! 早く、気の力を使え!』
「……無理ですよ。両腕、つかまれて動かせないんで」
手に陽の気を込めれば、少しはダメージを与えられるかもしれないけど、この状態では十分に陽の気を込められない。それに、こんなに高い場所で手を放されても、落下死するだけだ。
悪鬼は、俺を目の前まで持ち上げて、観察するようにまじまじと見ている。それから、その口元をニヤッと歪ませた。口の中に放り込まれるのも時間の問題だろう。
……いや、それで良いのかもしれない。
先の見えない大きな穴を見おろし、ふと、そんな考えが浮かんだ。
この悪鬼には、外から間接的に陽の気を注いだところで意味がなかった。体をバリアのような濃い陰の気が取り巻いていていて、まるで黒く厚い雲で太陽の光が遮られるように、本体に全然陽の気が届いていかなかった。
でも、厚い雲は、あくまで雲。物理的に通り抜けることはできる。それが、さっきの状態。濃い陰の気の中を進んだ先にあった本体の、更に奥で陽の気を放ったら、確実にダメージを与えられた。だから、この悪鬼も怒りの声をあげたのだ。
外がダメなら、内側から。アニメやマンガのセオリーだ。
……せっかくだから、あれも使うか。
俺は、背中に当たるバッグの感触を確かめる。あれは、ちゃんと入っているはずだ。
『何をボケっとしておる!?』
御先祖様の焦る声が聞こえてくる。でも、この方法なら、どうにもならないこの悪鬼を、どうにかできるかもしれない。
悪鬼は一度、フンと鼻を鳴らした。再び生暖かい突風が吹き付ける。
それから、俺を掴む手が、大きく暗い穴に向かって動いた。グングン近づく大穴に恐怖心が沸かない訳が無い。臭くて気持ち悪くて吐きそうだ。
でも、もう、この方法しかない。
グングン近づく悪鬼の口に、グッと奥歯を噛む。
覚悟を決めるしかない。
そう思った瞬間、暗い大穴に向かって、ポンと体を放り投げられた。




