230. 囚われの鬼②
鉄の扉の向こう側には、石壁に鉄格子の嵌った牢が並んでいた。重罪人と言うべき者が処刑されたばかり。他に囚人は居ないようで、ガランとしていて静まり返っている。俺達はその中を、牢番に案内されながら歩いていく。
その一番奥に、壁から繋がる鎖に手足を拘束された赤眼黒髪の鬼がいた。
まるで生気をなくしたように座り込んではいるが、一応、火傷の手当てはされているようで、包帯でぐるぐる巻きになっている。
複数の足音が格子の前で止まったことに気づいたのだろう。鬼は訝る様に顔を上げた。
「……お前……」
赤眼の鬼は、複数人の中から、ピタリと俺に視線を止める。それから、自分が拘束されているのも忘れたように、ガシャン! と鎖を大きく鳴らしながらこちらへ勢いよく身を乗り出した。
護衛役たちが、俺や柊士を守るように、鬼と俺達の間にザッと入る。
しかし、鬼は気にもとめずに叫ぶような声を上げた。
「返せ!! その日石の男を、我らに返せ!!」
「返せ? 奏太は、そもそも、お前らの物じゃない。ふざけた事を言うな」
柊士は嫌悪感に満ちた表情で鬼を見下ろす。
「違う! そいつは我らが見つけて捕えた、あの方のものだ!」
『あの方』が誰を指すのかわからないが、大方、この鬼の上官か、更に上、あの城の持ち主辺りなのだろう。
鬼は息つく間もなく俺をキッと睨み上げた。
「おい、お前! お前が管理者を連れて逃げたせいで、全てが深淵に飲み込まれるかもしれないんだぞ!? お前のせいで、周辺領地も、そこにある村々も、都さえも、そこに暮らす者、全部――」
「奏太、聞かなくていい。誰か、あいつを黙らせろ」
聞くに耐えないとばかりに眉を顰めた柊士が、パッと手を振る。それに反応して、牢番が長細い棍棒を構え、格子の間から勢いよく鬼の腹目掛けてドッ! と突いた。鬼は勢いに押されて後ろに倒れ込み、腹を押さえてゴホゴホと咳き込む。
「……柊ちゃん」
柊士がこんな風に無慈悲に指示を出す姿を初めて見た気がして、思わず不安な声が出る。
「余計な事は気にするな。お前は、自分自身のことだけ考えていればいい」
鬼を睨み返しながら言う柊士の言葉を補足するように、淕が眉を下げた。
「この鬼は、何を聞いてもこればかりなのです。奏太様と白月様を返せと。鬼界で生きる全ての者を滅ぼす気か、と」
汐は、まるで何処にも行かせないとでもいうように、俺の腕をギュッと掴んだ。
俺は、大丈夫だと伝えられるように、その手を軽く叩く。それから、スッと赤眼の鬼に視線を移した。
「別に、滅んでも良いと思っているわけじゃない」
「奏太」
咎めるような声を上げた柊士を、俺はほんの少し手を上げて制する。
「……ならば、今すぐ白日の廟に戻れ」
「だからって、戻るつもりもない。対処療法じゃなく、元を何とかするつもりだから」
俺が言うと腹を抱えていた赤眼の鬼は、ピクリと眉を動かした。
「……元を? たかが村一つの闇を祓って使い物にならなくなった、お前が?」
瞬間、俺の護衛についていた浅沙が、堪えきれなかったように、武器に手をかけた。
「あの様な目に合わせておいて、奏太様に向かって、何という口を……!」
「いいよ。実際、そうだったし」
鬼の発言にいちいち腹を立てていたら、一向に話が進まない。
「……し、しかし……」
浅沙は困ったようにチラリと俺を振り返り、放っておいて良いのかと問うように柊士の方に視線を向ける。
何でそこで柊士を見るのか、とは思うけど、柊士は何も言わずに頷いた。心底不快そうな顔はしてるけど、一応、俺に任せてくれるつもりはあるらしい。
俺はもう一度、鬼の方に視線を戻す。鬼は未だ、訝るような顔で俺を見ていた。
「元を何とかしたいとは思うけど、その前に情報がほしい」
とりあえず、御先祖様のところに行くのは確定だ。そこに行けば、何か手がかりが掴めるかもしれない。でもそれ以前に、深淵に対して知識がたりなすぎる。
俺が真剣な表情で、その赤眼をじっと見返していると、鬼は戸惑うようにほんの少しだけ視線を逸らした。
「どうにかなるわけがない。あの深く広がり続ける闇が」
「日の力があれば祓えるんだろ? だから、俺をあそこに連れて行ったんだろ」
あの時、こいつはそう言っていた。つまり、祓える方法が全くないわけではないのだ。実際、あの村で濃い黒の靄を全部祓ったら、陰の気が周囲と同じくらいの濃度まで下がった。ああやって濃い黒を潰していけば、いずれ闇は薄まっていくのかもしれない。
「ああいう村は、どれくらいある?」
「無数だ。もう誰にも把握はできない」
あれだけ広範囲に広がっているのだ。そうなんじゃないかと思っていた。鬼界を囲む深淵全体に無数にあるのでは、村一つで死にかけた俺には範囲が広すぎて手に負えない。
「そもそも、深淵はどうやって出来たんだ?」
「……言い伝えでしか知らない」
「どんな?」
俺が問うと、鬼はザッとこの場にいる者たちを眺めたあと、小さく息を吐いた。
「人妖は知らないのか。我らをあの地に閉じ込め、闇を押し付けておきながら」
鬼を鬼界に閉じ込めた話は聞いたことがある。妖界と人界が分かれる前、最初に出来たのは、危険のある鬼から人や妖を守る為の結界だった。わからないのは、後者。
「鬼界との結界の話は知ってる。けど、闇を押し付けたっていうのは?」
俺が言うと、鬼はジロッと俺を睨んだ。
「闇の話を知らぬのに、結界の話を知っているとは言わない」
「どういう意味だ?」
「……この世界は、元々、一つの世界だったのだ」
赤眼の鬼は、まるで吐き捨てるように、鬼界に伝わる話をはじめた。
曰く、神々の住む天上世界には、陰の神と陽の神がいた。地上世界を治めるのは秩序の神。陰陽のバランスを保ちこの世の安定を望んでいた。それ故、秩序の神は、陰の神と陽の神、それぞれの娘を妻に迎えた。子ども達に協力させて地上世界の安寧を維持させる為だ。
地上世界には、陰の気の強い鬼、陽の気の強い人、その中間である妖がいた。妖にも陰陽の強さが異なり、陰陽いずれかに分けられた。
陽の神の血を引く子は、人と陽の気に近い妖を、陰の神の血を引く子は、鬼と陰の気に近い妖を、それぞれ守護した。
秩序の神は、陽の子と陰の子を協力させようとしていたが、腹違いであり異なる性質をもつ二柱は仲違いが絶えなかった。
どちらの気を持つ者を繁栄させるか、どちらに覇権を取らせるか。
そうやって、大きな争いに発展した。秩序の神が平等に自分の子らを見ていれば良かった。しかし、秩序の神は明るく協調性に富む陽の子に肩入れをした。
多くが殺されていく状況を憂い、陰と陽の世界を隔てた。そして、争いが起こるのは陰の子のせいだと決めつけ、陰の世界……つまり、鬼界に封印をした。二度と陰陽での争いを起こさぬように。
陰の子は、自分に全ての責任を負わせて封印した父親を心底憎んだ。そして、陽の子とその世界を。
陰の子の怨みは留まるところを知らなかった。やがて封印では抑えきれない程の陰の気を発し、全てを飲み込んでやると、それを広げはじめた。
鬼も、人も、妖も、強弱はあれど、何処かで陰陽のバランスをとって生きている。けれど、陰の子の発する気は、純粋なる闇。
闇は陽の子の守護を持つ人間を殺すが、陰の子の守護を持つ鬼は殺さない。けれど、強い憎しみに満ちた闇には、心が耐えられない。闇に飲まれれば、心を無くした虚鬼と化す。
「―― そうして生まれ、未だ広がっているのが深淵だ」
赤眼の鬼は、そこまで説明すると、チッと舌打ちをした。
妖達を見れば、俺と同じように聞いたことのない話だったようで、困惑するように顔を見合わせていた。
一方で、柊士は難しそうな顔で顎に手を当てる。
「今の話が本当なら、封印の強化にせよ何にせよ、お前や白月が相手にしなければならないのは、陰の神の子と秩序の神の間に生まれた子ってことになる」
「御先祖様は、闇の大元を何とかできるのは神の領域だって言ってたんだ。そのうえで、主様の眷属になった俺に、自分のところに来いって。いろいろ、辻褄は合うと思う。そもそも、何で御先祖様が陰の子の封印を抑えることになったのかはわからないけど……」
鬼界にある口伝が正しいのか、他に何か伝わっていない事があるのか。いずれにせよ、御先祖様に聞かなければならない事はたくさんありそうだ。
俺はもう一度、鬼に目を移す。一番聞きたかった事をまだ聞けていない。
「闇の女神って、なんだ? あの時、言っていただろ」
深淵の中にいた、長い黒髪に黒の瞳、真紅の唇を持つ女。触れられた瞬間に、自分の中を闇に侵食されるようなゾワっとする不快感とともに、体が重く動かなくなった。
「詳しいことは不明だ。ただ、封印された陰の子と共に神力を奪われた母親だと聞いた事がある。子の封印を解くために、眷属を集め憎悪を生み闇を広げる、元女神」
「……あれが……?」
「さあな。本当にそんな存在かは定かではない」
でもあの時、朦朧とする意識の中で、この鬼に自分の眷属になれと言っていた気がする。そして、闇の女神と呼びかけられて否定しなかった。
「眷属って言うのは?」
「虚鬼そのものを指すのか、それとは違う存在を指すのかはわからない。いずれにせよ、陰の子や闇の女神に隷属させられるのだろうな」
俺は、あの時に見た亘の姿を思い出す。闇の女神に従っているように見えた、自分の護衛役を……
「もしも、深淵に妖が入ればどうなる?」
人と同じように死ぬなら、あの時に見た亘は、やはり見間違いだったのだろう。しかし、鬼と同じようになるとしたら……
緊張しながら答えを待つと、鬼はフンと鼻を鳴らした。
「妖共の半分は陰の神の守護下にありながら人に味方した裏切り者共だ。元々、陰に寄った体の持ち主であれば、我らと同じ道を辿ったとしても、おかしくはない」
「……それは……つまり……」
目の前が暗くなるような気がして、俺は目元を手で押さえた。
「……つまり、奏太様が深淵で見た亘さんは、もしかしたら、もう――」
「巽」
俺の言葉を引き継ごうとした巽の声を、咄嗟に遮る。
あの時、俺の姿も目に入れずに鬼に襲いかかった亘の姿が脳裏に浮かぶ。
……聞きたくない。
考えたくもない。心を無くした鬼のように、ただ目の前の相手に襲いかかることしかできない虚鬼のように、亘がなってしまっただなんて、そんなこと……
「……奏太様……」
汐が不安気な声を出す。でも、それに反応してやれるほど、心に余裕はなくなっていた。
「……虚鬼を、もとに戻す方法は?」
「今のところ、見つかっていない」
俺はギリっと奥歯を噛む。
「……俺が……こいつらに捕まってさえいなければ……亘は……」
あの時、連れ去られたりしなければ、亘が俺を追うようなこともなかった。一人で深淵に入り込むようなこともなかったはずだ。
俺は、行き場のない自分への怒りに、震える拳を力いっぱい握り込む。
不意に、トンと背を軽く叩かれた。
「やめろ、奏太。巽の件と同じだ。お前が悪いわけじゃない。自分を責めるな」
「……けど……」
「少し、落ち着け」
柊士はそう言うと、今度は人差し指で、俺の胸元をトンと突く。そこにあるのは、以前渡された結の御守り。
その時に言われた言葉を思い出して、俺はギュっと口を引き結んだ。
「ここは鬼界じゃない。周りを見ろ。お前は一人じゃないんだ。自分だけで抱え込むな」
周囲を見回せば、汐と巽が不安な表情を浮かべて俺を見つめていて、他の皆が心配そうに俺達三人を見ていることに気づいた。
「まだ、亘さんがそうなったと決まったわけではありません。僕らが必ず探し出して、連れ戻します。正気を失っているなら、もとに戻す方法も探します。だから、そんな顔、なさらないでください」
「私も、お手伝いいたします。亘には大きな借りがありますから」
巽に続き、淕も首肯する。
「お前は、お前のことに集中しろ。間違っても、自分一人でどうにかしようとして、突っ走るな。亘のことは他の者に任せれば良い。自分の護衛役を信じてやれ」
柊士の言葉と共に、腕をギュッと握られた感覚がして見ると、汐もまた、口を引き結んだまま、コクと小さく頷いた。




