221. 廟への帰還
ドッと体が地面に投げ出されて目が覚めた。いつの間に寝てしまっていたんだろう。何処までが現実で何処からが夢かわからない。
あの村を出てくる時に会った闇の女神は、現実だろうか? 亘があそこにいたのは?
息がしにくくて苦しい。体が重くて、手も足も頭も持ち上がらない。地面だけがぼんやり見えるけど、ここがどこなのかもわからない。
……あれ、無事に深淵を抜けられたんだっけ? それとも、また黒い闇に陽の気を注がされるのだろうか。
……もう、手も足も動かないのに、どうすれば……
そう思いながら、目を閉じかける。そこへ、自分に呼びかける悲鳴のような声が聞こえた。
「――奏太! 奏太、しっかりしてっ!!」
「……ハク?」
その声とともに、突然グイッと誰かに体を持ち上げられた。頭が重くて持ち上がらないままくたりとしていると、痛そうに自分を見つめて名を呼び続けるハクの顔が目に映った。
俺を抱えてるのが鬼なら、こんなに近くにいたらハクが危ないのに……
そう思って、精一杯の力で少しだけ首を動かし自分を抱える者の顔を見れば、鹿鳴が口を引き結んで俺を運んでいるのが分かった。
「……鹿鳴さん……、俺……廟に……帰ってきたんですか……?」
「戻ってきたが、今は少し、黙っててくれ」
険しい表情の鹿鳴に言われて、俺は口を閉じる。もしかしたら、まだ鬼が近くにいるのかもしれない。
それなのに、焦りを含んだハクの声は聞こえ続ける。
「鹿鳴さん、廟の中に運んで。陽の気に少しでも触れさせないと」
陽の気の当たる場所に連れて行ってくれるのは有り難い。全身冷たくて、寒くて寒くて仕方がなかったから。
周囲がパアっと明るくなったことから、自分が廟の中に入った事が分かった。温かくて心地良い。でも、体の冷たさは一向に戻らない。
岩の近くに鹿鳴がそっと置いてくれたのだろう。目の前に緑の草が見えた。何も生えない黒い靄に覆われた深淵とは大違いで、まるでここが天国の様に思えた。鬼界に住む鬼が、しきりに緑を追い求める気持ちがよくわかる。
「鹿鳴さん、この大岩、人界に繋がってるって言いましたよね?」
「ああ。そろそろ、柊士って人から奏太君に連絡が入る頃だ」
ハクの問いに鹿鳴が答える。
……ああ、そうか。今日は、その日だった。
柊士との連絡時間までに廟に戻ってこられてよかった。ハクのことを伝えなきゃいけないし、俺が反応しなかったら、余計な心配をかけるところだった。
「……鹿鳴さん……岩に……触れ……て、陽の気を……注ぎたいん……です……けど……体が……動かなくて……」
胸が苦しいせいか、声が途切れ途切れにしか出てこない。何とかやっとの思いで言い切ったけど、すぐに鹿鳴ではなくハクの鋭い声が飛んできた。
「バカなこと言わないで!! これ以上陽の気を使ったら、死んじゃうから!!」
「……まさか……死なないよ……」
すごく眠たいけど、意識はまだある。大袈裟だ。
でもハクは、辛そうに俺を見るだけで、何も答えない。ただ、グッと奥歯を噛んだように見えた。
「鹿鳴さん、絶対に奏太を大岩に近づけないで」
それだけ言うと、さっと大岩に向けて、手をかざした。
……ああ、ハクも陽の気を注げるから、柊ちゃんと話ができるのか……なら、任せて寝ちゃっても大丈夫かな……
そう思って、そっと目を閉じる。でも、すぐにペチン、ペチンと強めに頬を叩かれた。
「寝るな、奏太君!!」
「……鹿鳴さん……でも、もう、なんか……すごく疲れて……ちょっと……だけで……いいんで……」
「ダメだ! もうちょっと我慢してくれ!」
……でも、ハクに任せておけば……
そう思ってハクの方に目を向ける。でも、ハクがしていたのは、大岩に陽の気を注ぐことじゃなかった。
ハクの手の向こう、大岩の前に、輝くような白い渦が生まれ、大きく口をあけていく。向こう側には月と星が輝く夜空が見え始め、何処か見覚えのある風景を浮かび上がらせる。
大きく鬱蒼と生える木々、飾り屋根のある木造建築の平屋の建物。
……ああ、ここは、大岩神社だ。ずっと帰って来たかった、人界だ……
ぐんぐん広がる向こう側の景色に恋しさが募る。そこに、険しい顔をして慌てて駆け寄る柊士の姿が見えた。
「……柊……ちゃん……」
「――白月!? それに、奏太!!!」
こちらに大きく見開いた目を向ける。しかしハクは、説明をするでもなく、再会を喜ぶでもなく、大きな声で指示を飛ばした。
「鹿鳴さん、奏太をあっちに運んで! 柊士、ぼうっとしてないで手を貸して!」
もう一度、体がグイッと持ち上げられる。鹿鳴は恐る恐ると言った様子でキョロキョロしながら白の渦を通り抜けた。
柊士は俺を見て何故かサッと顔を青ざめさせたあと、俺達の後ろに目を向ける。ハクも俺達の後を追ってきたのだろう。
「何がどうなってる!?」
「陽の気を失いすぎた上に、濃い陰の気を取り込みすぎてる。体が蝕まれて、このまま放っておいたら死んじゃうの!」
ハクは、一体誰のことを言っているのだろう、とぼんやりと思った。俺達以外に誰かいただろうか。
「淕、栞、急げ!!」
「「はい!」」
姿は見えないけど、聞き慣れた二人の声が聞こえた。
「……あ……汐と……栞を、仲直り……させなきゃ……」
「そんなのいいから、黙って!!」
仲違いしてたのをそのまま連れてきたのが気になっていたから、そう言っただけなのに、ハクにものすごい剣幕で怒鳴られた。
……ハクって、こんなに怒りっぽかったかなぁ……
すごく疲れてるし、もうちょっと優しく言ってくれたらいいのに。
しかし、ハクも柊士もそんなことお構い無しに、忙しなく指示を飛ばしている。
「温泉水は用意させてる。尾定さんもそのうち来る。他に何が必要だ!?」
「私が陰の気を抜いてる間に、陽の気を注いであげて!」
ハクがそう言うと、二人の手が、俺の肩と胸に当てられるのが分かった。
胸に当てられた手から陽の気が入ってくる。ふわりとした温かさが気持ちいい。同時に肩のあたりから、ずっと重苦しかった陰の気が抜けていき、体がちょっとずつ軽くなっていく。
「誰か、陽の気を防げるものを用意して鹿鳴さんに渡して。そんなに大きくなくていい。鹿鳴さん、石小屋にいる妖達を陽の気に当てないようにしながら連れてきてください。奏太の応急処置が終われば、この穴を閉じます」
「あ、それなら、これを使ってください!」
「……わ、わかった、行ってくる」
ハクの指示に、妖の誰かと鹿鳴の声が聞こえた。その言葉に、自分の護衛役達の顔が思い浮かぶ。
「……ああ、そうだ……柊ちゃん……亘が……闇の中にいたんだ……」
これも、伝えておかなきゃならないことだった。夢じゃなければ、連れ戻さないとならない。
でも、柊士は険しい顔で俺の胸元に当てた手をじっと見つめて動かない。
「今はしゃべるな、奏太」
「……でも……連れ戻さないと……あんな……とこにいたら……きっと、闇に……」
「あいつは妖で武官だ。陰の気が濃いところにいても、お前みたいにはならない! あいつの心配はいいから、お前は黙って、自分のことだけ考えろ!」
……俺のこと?
よくわからなくて首を傾げようとして、コテっと頭の向きが変わった。
「奏太!?」
柊士がギョッとしたような声を上げる。
「……どう、したの……?」
顔の向きを戻せば、あからさまにホッとしたような表情が見えた。
ちょっと陰の気が重くて陽の気がたりないせいで動きが鈍くなってるだけなのに、何でこんなに焦ってるんだろう。
しかも、ハクと柊士が二人がかりで助けてくれてるから、たぶんすぐに動けるようになると思うのに。
それなのに、柊士もハクも、周囲の皆も、その表情は何故か深刻そのものだ。
「俺には、体の中の気の状態がわからない。お前にはわかるのか、白月?」
「……わかる……けど……」
「けど?」
柊士の問いに、ハクは不安気に俺の顔を見る。
「……陰の気が全然抜けていかないの。まるで、体の奥底に染み込んで定着してしまったみたいに。それに、陽の気が全然満たされていかない。陰の気のせいで抑えられてるのか、それほどまでに枯渇状態になってるのかはわからないけど……」
「クソッ、なら、どうすれば……」
悔しそうに柊士は表情を歪めた。
「尾定さんだけじゃなくて、私の名前で妖界から紅翅も呼んで。それまで、こうやって陰の気の除去と陽の気の注入を続けるしかないと思う。あとは、温泉水に頼るしか……」
「なら、妖界に運んだ方が……」
「だめだよ。これ以上、陰の気に晒さない方が良いと思う」
ハクと柊士の会話は聞こえてるのに、あんまり頭に入ってこない。そんなに難しい話をしているわけじゃないと思うけど、頭が何だかぼんやりしてくる。
「管理者、日石の男を連れてこい! 医者だ!」
突然、そんな声が黒の渦の向こう側から聞こえてきた。こちら側の者達がざわりとする。
それとほぼ同時に、布切れを抱えた鹿鳴が、必死の形相で廟の扉を開けてこちらに飛び込んできた。
鹿鳴の異変を感じ取ったからだろうか。それを追うように、赤眼の鬼が廟の中を覗く。扉の向こうに他の鬼たちの姿も見えた。
扉からこちらは陽の気に満ちていて、鬼は入ってこれない。足を止めるしかないはずだ。そう思った。
それなのに、赤眼の鬼は俺達が渦のこちら側にいるのを見て大きく眼を見開き、陽の気も意に介さず、無謀にもそのまま廟の中に踏み込んできた。
案の定、体を陽の気に焼かれて苦痛に表情を歪めている。それなのに、一向に足を止める気配がなく、一直線にこちらへ走り抜けてくる。
柊士がチッと舌打ちをし、バッと勢いよく立ち上がった。それから、結界の穴に向き合いパンと手を打ち付ける。しかしすぐに、ハクから制止がかかった。
「待った、柊士!」
「はぁ!?」
「そいつ、奏太を連れて行ってこんな目に合わせた張本人なの! 捕まえて状況を確認しないと!」
ハクの言葉に、柊士はギリっと奥歯を噛んだ。
「那槻、葛! やつが飛び込んできたら、拘束して、死なないようにしておけ!」
「はっ!」
「一人居れば十分だろ。奴が入れば、すぐに結界の穴を閉じる!」
柊士はそう言うと、再びパンと手を打ち付けた。
赤眼の鬼は、陽の気に焼かれて全身を真っ赤に爛れさせながら、荒い息づかいで倒れ込むように渦のこちら側に飛び込んできた。
一体何がしたかったんだろうと思うほど呆気なく、人界の妖達に取り押さえられている。
一方で、鹿鳴が抱えて来た布切れからは虫の姿になった妖達が、わっと飛び出してきた。汐と巽が俺を見つけて、青い顔で側に跪く。
「……奏太様……一体、何が……」
「汐、触らないで。できるだけ、陰の気に触れさせたくないの」
汐がいつものように、俺の腕に触れようとしたところで、ハクが止める。
「……汐……そんな、顔……しないでよ……俺は……大丈夫、だから……」
安心させようとしたのに、何故か汐の目には涙が溜まっていく。
「……大丈夫、ちょっと……寝たら……すぐに、よくなる……から……」
「馬鹿! まだ寝るな! 尾定さんが来るまで、もうちょっと耐えろ!」
結界を閉じ終わったのか、柊士が駆け寄って来きた。
「……でも……もう……眠くて……」
「駄目です、奏太様! このまま寝たら、酷い悪夢を見せて起こしますよ!」
……そういえば、汐はそういう能力を持っていたっけ。
「……それは……いやだなぁ……」
寝るなら、心地よくゆっくり眠りたい。栞に頼んだら、のんびり眠っていられるだろうか。
ぼんやりとそんな事を考えているうちに、尾定と妖界の温泉水が到着した声が聞こえてきた。
それとともに、すうっと意識が遠のいていく。
……ああ、よかった……これで、ゆっくり眠っても……怒られない……よ……な……




