219. 三人目の管理者③
「……あー、全然俺は状況がわからないんだが、一体、どうやってここから出るつもりなんだ?」
話の切れ目を見計らったように、鹿鳴がおずおずと俺達に声をかけた。
「それに、虫は人に変わるし、陛下とか殿下とか、全く事情が飲み込めないんだが……」
……そりゃ、訳わかんないよな。今まで余計な説明をまるっと端折ってきたわけだし。けど、どうやって説明しようか……
そう思っていると、妖界の武官の一人が、ずいっと一歩、踏み出した。
「こちらに御座すのは、妖世界の今上陛下であられる白月様と、東宮殿下であられる奏太様だ。本来、其方のような者が直接話しかけて良い方々ではない」
「あ、鹿鳴さん、今の全部無視でいいです。気楽に話してくださいね」
武官が、そんなこともわからないのか、というような口調で言い、ハクが即座に否定したけど、俺の背にはブワッと嫌な汗が滲んだ。
「え、ちょ、ちょっと待って。俺、いつ東宮なんかになったんだよ?」
東宮っていうのは、帝位を継ぐ者を指すはずだ。
最初の大君の子孫で陽の気の使い手だから、その可能性がゼロではないって意味で、百歩譲って殿下と呼ばれることには目を瞑ってきたけど、そんな者になっていたなんて、今の今まで聞いていない。
「柊士様が日向家当主になられた時ではありませんか? 当主になれば、妖界で帝位につくことはできませんから。歓迎いたしかねますが」
「あと多分、璃耀の嫌がらせだね。拠点で権力を振りかざして璃耀を止めたんだって? 随分根に持ってるみたいだって宇柳が言ってた」
「白月様との婚姻を何が何でも回避したい意図も見え隠れしてますけどね……」
汐とハクと巽が、思い思いに言葉を重ねていく。唖然とする俺に、ハクはフッと笑った。
「安心してよ。奏太を帝位に就けようだなんて思ってないから。でも、なるつもりは無くても、東宮って地位は結構便利かもしれないよ? カミちゃんと璃耀の勢いに敵う者なんて居ないから、何かあった時の抑止力に使えると思うし」
「……まさか、本当にそう思ってるわけじゃないよね?」
あの二人に敵う者なんて居ないって言うけど、俺は知っている。ハクだって、完全にあの二人を制御できてるわけじゃない。
「うーん………………たぶん?」
まあ、そんな事だろうと思った。
「でも、そんな深刻に捉えることでもないし、ただ呼び名が増えただけと思えばいいよ。私はもう、転換の儀なんてさせるつもりはないから」
最後の言葉だけは真剣な目で、ハクは連れてきた皆を見回しながら言った。
「……それで、どうやってここから出……」
鹿鳴がそう言いかけた時だった。
「シッ!」という鋭い声と共に、武官の一人が口元に手を当てて、さっと周囲に合図を送くる。そうかと思えば、そのまま何も言わずにパッと虫の姿に変わった。汐と巽、他の武官達も同様だ。
「何者かが来ます。どうか、お気をつけて」
そう声を残し、机や置いてあるものの裏に虫達が姿を隠す。
そこから殆ど間髪入れずに、石小屋の扉がバンッと乱暴に開かれた。
「お前らだけか? 複数人の声がしたような気がしたが」
扉を乱暴に開けた無骨な風情の鬼の後ろには、あの赤眼の鬼がいる。鬼たちはズカズカと小屋の中に入ってきて周囲を見回した。
この石小屋は、本当に最低限のものしか置かれていない。だから、人と同じサイズの者が隠れられる場所はない。汐達だから隠れていられるのだ。
「他に一体、誰がいるって言うんだよ」
俺は、ドキドキしながらそう答える。
……見つからないといいけど……
ピンと張り詰めるような空気にぎゅっと手を握り込む。ハクも緊張したように
「……こんなに早く戻ってくるなんて……」
と、口元だけでポツリと呟いた。
確かにさっき、赤眼の鬼は、準備ができ次第俺を何処かへ連れて行くと言っていた。でも、ハクが言う通り、俺達は互いの状況を確認し合っただけで、あれからそれほど長い時間が経っていたわけではない。
「まあいい。おい、そいつを連れて来い」
未だ不審そうに小屋の中を見回していた男に、赤眼の男が命じる。他には何も居ないと判断したのだろうか。
指示を受けた男はタンと床を蹴る。一体何事かと思う間もなく、後頭部をグイッと前に押さえ込まれた。更に腕を背側に力任せに捻り上げられる。
「……っつ!!」
肩が抜けるのではと思うくらいの痛みに、思わず悲鳴が漏れそうになる。
「ちょっと! 彼に乱暴しないで!」
ハクが声を上げて、一歩こちらに踏み出す。更にその後ろ、少しだけ、青と黒の翅が見えた気がして、俺はハッと息を呑んだ。
「ダメだ、来るな!」
日の力が貴重である以上、雑に扱われても俺が殺されることは、多分ない。でもあいつらは、ここで見つかったら今度こそ殺されてしまうかもしれない。このまま二人を失ったら、俺は、もうきっと耐えられない。
「俺は、大丈夫だから」
ギリギリと縛り上げられる痛みを堪えながら、俺は、ハクに伝えるふりをして、汐と巽に呼びかける。
「ちゃんと、戻ってくるから、待っててくれよ。ここで」
これ以上言えば、更に不審に思われるかもしれない。
赤眼の鬼を見れば、訝るような目を俺とハクに向けている。
ハクもそれに気付いたのだろう。鬼に気づかれない程度にほんの少しだけ手を広げ、背後の者達を制止して、承知したようにコクと頷いてくれた。
「ハク」
「こっちは大丈夫。奏太は、絶対無茶しないで」
それに頷き返す暇もなく、赤眼の男の後ろから入ってきた複数の鬼に、ここに連れて来られた時のように鎖で縛られ、引きずられるようにして、俺は白日の廟を後にした。
城を出て連れていかれたのは、ここに来た時からずっと見えていた、鬼界を取り囲む一際闇深い場所、その際だった。深淵、と誰かが言っていた。
墨を引いたようなその場所は、最初に見た時、まるでそこだけが夜のようだと思った。けれど、近くに来ればわかる。そこは空が暗いだけじゃない。前が見えないほどではないけれど、まるで薄いカーテンがかかったように、黒い靄が立ち込めていた。
「日石が行き渡りました。ここから二晩が限界でしょう」
数十名の鬼の部隊。率いる赤眼の鬼は、俺をチラッっと見やってから、部下から俺を縛る鎖を受け取った。
鎖に引っ張られながら黒い靄の際々まで連れて行かれて、初めて気付く。
靄の正体は、ここに入って大丈夫だろうかと思うくらい、重い陰の気。あまりの気配に、背筋がゾワッとして全身が粟立った。
陰の気を外に出す呪物は二つあるけど、それでも不安になる程に、濃く立ち込めている。こんな場所を、俺は初めて見た。
ジリっと思わず足が後ろに下がる。しかし、それを嘲笑うかのように、不意にドンッと背を思い切り突き飛ばされた。
そのまま立っていられず前のめりに体が倒れ込みそうになり、トトッと何歩か前に踏み出す。周囲を見回せば、濃い陰の気が立ち込める深淵の中に既に入り込んでしまっていることに気づいた。
闇の外よりも一段冷たい空気、ジメッとして肌にまとわりつく重たい感触。心も体も蝕むような気に満ちた場所。背筋が凍りつきそうになる。
胸から下げた結の御守りと、自分の体に内在する陽の気が、まるで存在感を主張するように温かく感じる。まるで俺自身を守ろうとしているように。
陰の気を外に出す呪物を持ち、陽の気に守られていてこれだ。陰の気は、人間の心身を蝕む。普通の人間なら、立ち入った瞬間に発狂していてもおかしくない。
「ふむ、日石が無くとも大丈夫なようだな。我らは日石が無ければ正気のまま深淵にいることは出来ぬと言うのに。やはり、体に日の力を宿しているからか」
感心するような赤眼の鬼の声が背後から聞こえた。
いくら陽の気で守られていると言っても、ここに入って来てから、陽の気が引き出されて行く量が増えている。いずれにせよ、あまり長居しないほうが良さそうだ。
「二晩か。少し急ぐぞ」
赤眼の鬼が部下を引き連れて、ざっと深淵の中に踏み込む。
二晩。何をさせるつもりかはわからない。でも、それまで自分の身が持つのだろうか。今は大丈夫でも、そのうち陽の気が尽きるのではないか、そんな不安がじわりと心に浮かんでくる。
……いや、ちゃんと戻ると言い残して来たんだ。とにかく、無事に帰れるように耐えるしかない。
深い闇の向こうに目を向け、俺はゴクリとつばを飲み込んだ。




