2. 結界の閉じ方
「……それで……俺は結局、何をすればいいわけ?」
本家でポツリと取り残された俺は、妖だと言われた少女に向き合う。
汐は俺の顔を見て、ニコリと笑った。
「結界の綻びがそこかしこにあります。我らの仲間が綻びを見つけ次第、報せが私や栞に参ります。私がご案内するので、結界に力を注いで補強なさってください」
……いや、そもそも、さっきから結界を補強しろと言われ続けているが、まず結界というファンタジー極まりないものが現実世界ではどんなもので、どう補強すればいいのかがさっぱりわからない。
それに加えて、力を注ぐ?
力を注ぐって何? どういう状態のことを言うの?
眉根を寄せて首を傾げていると、汐は困ったように眉尻を下げる。
「何かご不明なことが?」
「ご不明な事だらけなんだけど……」
俺達は二人で首を傾げ合う。
「……まず、そもそも結界ってどんなもの? 何処にあるの?」
「結界は通常、目には見えません。あちらとこちらは、常に目に見えない壁に隔てられ、生活する中では誰の意識にも上がりません。ただ、綻びが生じると、妖界への穴であれば灰色の渦が、鬼界への穴であれば黒色の渦が、宙に浮いているように見えるのです」
「……妖界と鬼界ってなに?」
新しい概念が次々と出てくるんだけど……
「妖界とは、私達妖が通常生きる世界です。鬼界とは、人や妖を喰い生きる鬼共の生きる世界です。この人界、妖界、鬼界は、それぞれが干渉しあって混乱を来さない様、それぞれが独立し、それぞれの秩序の中で成り立っています。結界が崩壊するということは、妖や鬼が自由に人界に立ち入る事を許す事になるのです」
ますますファンタジーの様相が強くなってきた。
一応今まで黙って聞いてたし、伯父さんも柊士も大真面目に話をしてたから何も言い出せなかったが、正直、今が現実なのかどうかすら怪しい。変な夢でも見ているのだろうか。
「……じゃあ、その結界を補強するのが俺と柊ちゃんの役目だとして、結界に力を注いで補強するってどうやるの?」
「それは、私には経験が無いことなので何とも……」
……いやいや、それが分かんなきゃ意味ないじゃん。
「結局、柊ちゃんに聞かなきゃわからないってこと?」
怪訝な顔で汐を見ると、汐は小さく首を横に振る。
「いえ。こちらの書に目を通し力を通わせていると、結界を閉じる方法を賜るそうです。私には分かりませんが、結様はそれで結界を補強する方法を知ったと仰っていました」
汐はそう言うと、先程柊士が落としていった紙束を指し示す。
力を通すというのがわからないが、俺はそれを拾い上げて、ひとまず、最初から最後まで、パラパラ捲る。
ただ、中身が蚯蚓文字というか、古文書のような感じで全く読めない。少しでも読めるところは……と思って探してみたが、始終同じ調子だ。
結にはこれが読めたのだろうか。
「残念だけど、俺には読めないよ」
そう言いつつ、パタリと閉じて畳の上に置こうとする。
瞬間、何故か紙束の中身から、白っぽい光が漏れ始めた。
「は!?」
しかも、その光が紙束を掴む手の方に寄ってきて、自分の中に流れ込んでくるのが分かる。
「ちょ、ちょっと待った! 何だこれ!」
思わず紙束を落としそうになる。
「放してはダメ!」
「えぇっ!?」
汐の鋭い声が響いて、咄嗟に紙束を掴む手に再び力を入れる。
別に、何かが自分の中に無理に入ってくるような不快感はない。ただ、光が入って消えていくだけだ。
何がなんだかわからないまま、それをじっと見つめていると、光は次第に小さくなっていき、しばらくすると、先程までのただの紙束に戻っていった。
目の前の不思議現象が収まり、ほっと息を吐く。
「結様は、書に力を通わせた後、結界を閉じるのだと強く願い、見えない力を注ぐ様に掌に力を込めると、祝詞が頭に思い浮かぶのだと仰っていました。これで、奏太様も結界を補強することができるようになったはずです。」
「……はぁ……」
そうは言われても、全く何かが変わった感じがしない。本当に大丈夫なのだろうか。
「ひとまず、綻びを塞ぎに行ってみましょう。ちょうど先程、一箇所発見したと報告があったばかりなのです。本当は柊士様と栞も共に行くはずだったのですが、あのご様子では難しいでしょう」
「え、今から行くの? 明日じゃ駄目なの?」
もう夜だし、これから出掛けるのは面倒だ。さっさと家に帰って風呂に入って寛ぎたい。
しかし、汐は眉尻を下げて首を横に振った。
「残念ながら、我ら妖は、日の出る時間帯に外を出歩くことができません。陽の気に焼かれてしまうのです」
「……陽の気?」
「人界では、日の出る時間帯は陽の気が満ち、日が沈むと陰の気に包まれます。我ら妖は、陰の気の中でしか生きられぬのです。そのため、昼間は日の当たらぬ暗がりに潜み、逢魔ヶ時という言葉がある通り、黄昏刻を迎えてようやく外に出ることが出来るのです。我らが案内役を務める以上、夜間に動いていただかねばなりません」
……なるほど、それは柊ちゃんも仕事があると嫌な顔をするわけだ。
かくいう俺も、翌日学校があり親の目もある中、頻繁に夜に外に出たり出来ない。
本家の指示なのだから、本家の用だと言って詳細は伯父さんに聞いてくれと言えばいいのだろうが……
「それで、どこに行くって?」
「ここから二時間ほど飛んだ先にある廃校です。」
「……飛ぶ? 飛行機に乗るってこと? 今から?」
そんなに大掛かりな移動が必要とは聞いていない。
そう思ったが、汐は首を横に振る。
「いえ。空を飛べる者が居ますので、その者に乗っていきます。そろそろ迎えが来るはずです。外に出ましょう」
汐に案内されて廊下に出ると、ちょうどよく伯父さんに鉢合わせた。
「行くのか?」
「うん、よくわかんないけど一応……。それで、これから先も夜出掛ける事になるなら、うちの親にも言わないといけないと思ってるんだけど……」
「ああ、それなら、うちの仕事を手伝ってもらうから、時々泊まることになると伝えてある。汐と出るときには、家に来ると言っておけ」
「……わかった。うちの親は、知ってるの? その、妖の事……」
自分ですら未だ信じきれない妖の存在を躊躇いがち尋ねると、伯父さんはフンと鼻を鳴らした。
「お前が信じきれていないように、信じられる者など殆どいない。今知っているのは、本家の者と元々本家にいたお前の父親とお前だけだ。それ以外の者に余計な事を言う必要はない。お前の父親もそれは承知しているはずだ」
つまり、母さんは知らないし、言うなということなのだろう。
まあ、父さんが知っているなら大丈夫か。何かあっても母さんに言い訳くらいしてくれるだろう。
「わかった」
そう頷くと、伯父さんは俺の肩をぽんと一度叩いた。
「気をつけて行けよ」
伯父さんに送り出されて内庭に出ると、そこには、タクシーの運転手のような格好をした、にこやかな笑顔の男性が立っていた。
手には一際明るい硝子の手提げのランタンを持っている。
「どうもー。大鷲タクシーです。今日はどちらまで?」
タクシーの運転手にしては、なんか、ものすごく軽い話し方だ。
それに、タクシーと言ったが、空を飛ぶのではなかったのだろうか……
汐に目を向けると、呆れたような表情で男を見ていた。
「なあに、その格好」
「良いだろ。新しい守り手様にお会いするならわかりやすい方が良いかと思って。それで、守り手様は?」
男は周囲を見回す。
汐はそれに溜息をつくと、俺の方に目線を向けた。
「新しく守り手になられた奏太様よ」
汐の言葉に、男はこちらへ目を向けると、あからさまに、がっかりしたような表情を浮かべた。
「……亘です。はじめまして……奏太様……」
何だかよくわからないが、凄く失礼なんだけど……
「なんでそんなに残念そうなんですか?」
「いえ、てっきり女子の守り手様かと思っていたので……」
なるほど。理由はわかったが、ここまであからさまに態度を変えられると言葉も出ない。
「あまりお気になさらず。奏太様。さあ、亘、準備を」
汐に声をかけられると、男は渋々といった様子でコクリと頷いて、
「これを」
とランタンを俺に押し付けるように渡してから、先程の汐や粟路達のように姿を変える。
しかし、変わったのは小さな雀や蝶でなく、人が乗れるほどの大きな鷲だった。
……だから大鷲タクシーか……
ただ、それ程大きな鷲が目の前に現れるとさすがに怖い。ギョロッとした目に鋭い嘴は捕食者そのものだ。
それに、
「さあ、背にお乗りください」
と言われても、どう乗るのが正解かわからない。
ただ、躊躇いながら近づくと、亘はこちらが乗りやすいように羽を広げて足場を作ってくれた。
俺が背に乗ると、亘は至極残念そうな声を出す。
「結様を乗せるのが楽しみの一つだったのに、次の守り手様は男子とは……」
「仕方が無いでしょう。どの方であろうと、誇りに思うことよ。」
亘はハアー、と深く息を吐いた。
「……あのさ、そんなに嫌なら乗せてくれなくてもいいんだけど」
失礼極まりない大鷲に、この調子で溜息をつかれながら二時間も運ばれるなんて、こっちから願い下げだ。
そう思っていると、大鷲はブンブンと首を横に振る。
併せて体が大きく揺れて振り落とされそうになり、慌てて体を伏せ、ランタンを持っていない方の手で首元の羽を鷲掴みにしてしがみつく。
「ああ、失礼。それから、別にお乗せすることが嫌なわけではありません。残念なだけで」
……いや、だから、それがさ……
「奏太様、お気になさらないでください。そのうち慣れます。それよりも早く参りましょう。夜が明けてしまいますから」
汐は蝶の姿になり、俺の目の前まで飛んできてそう言った。
正直釈然としないが、このまま夜が明けるのは困る。寝る時間は絶対に確保したい。
「ハア……わかった。行こう」
俺がそう言うと
「じゃあ、しっかり捕まってて下さいよ!」
と言いながら、亘は翼を羽ばたかせた。