98. 黒の鬼灯①
里の祭りが近づいてきた。
俺は二度ほど祭りの視察だと言われて見に行ったが、ここしばらくは行っていない。柊士が基本的には見に行っているらしい。
小さな鬼界への穴を塞ぎに行った時に、
「自分で行けと御当主に叱られたようですよ」
と半分笑いながら亘が言っていた。もちろん、すぐに汐に窘められていたが。
亘は、紬の一件のあとも里へは戻っていないらしい。汐も同様だ。理由を聞いてみたら、
「奏太様がまた妙なことに巻き込まれないよう、近くにいろという柊士様のご指示です。ごもっともなご意見かと思いますが」
と汐に返された。遊園地の一件は伝えていないはずだが、それ以前のことが尾を引いているのだろう。いろいろ。
その日、太陽が沈んで間もない時間帯に、汐が慌てた様に家にやってきた。
ここから少し離れた山中で、鬼界との結界が大きく開いた場所が見つかったらしい。早急に結界を閉じなければならないと言われ、俺は夕飯も食べずに亘に乗って空へ飛び出した。
「あの辺りですね。あれ程の鬼灯が実るのを見るのは久々です」
亘は眼下を見下ろしながら言う。
確かに視線の先には鬼灯がワサワサ生えている。最近はコンクリートの上ばかりだったので、あれを見るのは本当に久々だ。
鬱蒼とした鬼灯によって周りを囲まれた中央に、その黒い渦はぽっかりと口を開けていた。
かなり大きな穴だ。放置しておいてはまずいだろうことはひと目でわかる。
「周囲に鬼の報告はありません。ただ、注意してまいりましょう」
汐が緊張したようにそう言った。
俺達は黒い渦を目指して下降し地面に降りる。
すると上空からは気づかなかったが、鬼灯の生えるある一角だけ、妙に黒ずんでいる部分があることに気づいた。
「なんであそこだけ黒いんだろう?」
「燃えたような様子はありませんね。あの部分だけ変色したように見えます」
汐の言う通り、葉も実も形はそのままに、黒く染まっている。ただでさえ気味の悪い現象なのに、輪をかけたようにおどろおどろしく見える。
それに、何だか甘い香りがほのかにその一角から漂って来ているような気がした。
「鬼灯ってこんな匂いしたっけ?」
「いえ……何だか妙ですね。報告にもありませんでしたし、本当ならば、一度引き返した方がいいのでしょうけれど……」
汐はそう不安げに言う。
でも、あの渦を放ってこのまま引き返すのは別の意味で不安すぎる。
「いいよ、ここまで来たんだし、閉じちゃおう。亘、周りは頼むよ」
「承知しました。それにしても、奏太様も随分と頼もしくなったものですね」
亘が感心したような声を出す。でも、亘が素直に俺の事を褒める訳がない。
「また俺の事からかうつもり?」
「いえ、本心ですよ。何故そのように捻くれた捉え方をなさるのでしょうね。褒め言葉くらい真っ直ぐに受け取ってはいかがです?」
いや、誰のせいでそうなったと思ってるんだよ。散々人の事をからかっておいて、こういう時ばっかり。
「亘こそ、日頃の行いを振り返ったほうがいいんじゃないか?」
「日々これ程真っ直ぐに生きているのに、そのうような事を言われるとは心外ですね」
「よく言うよ」
これ見よがしに、はぁあ、と亘が溜息をついたのを見て、俺はフンと鼻を鳴らした。
俺達はそんな軽口を叩き合いながら周囲の様子を伺う。鬼灯の茂みから鬼が出てくる様子はない。
「奏太様、今のうちに」
汐にそう声をかけられて頷いた時だった。
鬼灯が黒く不気味に染まる一角が、ガサッと音を立てた。
鬼界の穴の近くだ。鬼である可能性が極めて高い。三人の間に瞬時にピリッとした空気が張り詰め、亘が茂みに向かって構えた。
しかし、そこから出てきたのは、ゲッソリと痩せ細った一人の男だった。しかも、片腕がなく血で染まったボロで覆っている。
もう片方の手には、細い鎖で巻かれた蓋付きの陶器を垂れ下げるように持っている。陶器の蓋には飾り穴が空いていて、そこから細く煙のようなものが立ち上がっていた。
恐らくあれは香炉だ。本家で似たようなものを見たことがある。たぶん匂いの原因もあれだろう。
「……樹か? お前、今まで一体どこに……」
亘が眉を顰めて、フラフラと茂みから出てきた男に問いかける。しかし、呼びかけられた本人は、
「……ここでしくじったら、俺は終わりだ……これが最後なんだ……お前が生きていたせいで……」
とブツブツ呟いていて、亘に答えようとしない。何だかすごく不気味な雰囲気だ。
「ねえ汐、樹って?」
「里の者です。ただ、しばらく姿を消したまま行方がわからなくなっていたのです」
汐がそう答える間にも、樹はぶつぶつと何事か呟きながら、フラフラと黒い渦の前に移動していく。
「おい、樹、渦に近づくな!」
亘はそれを制止しようと樹の肩を掴む。しかし、樹はバチッと音がする程の力でそれを振り払った。
「……お前のせいだ……わざわざ、片腕を食われる思いまでして連れてきたんだ。もう、あっちに行くのは嫌だ。お前が死ぬまで終われない。いきたくない……いきたくない……」
そう言いながら、手に持った鎖を鬼界の穴の前にかざす。先に付いた香炉がゆらゆらと揺れ、そこからでる煙もまた、黒の渦の前でゆっくり揺らめく。
「いきたくない。死ね……死んでくれよ……」
そうして、黒の渦の中に、香炉ごと腕を突っ込んだ。
「死ねよ、亘!!」
すうっと黒の渦の周りに漂っていた煙が向こう側に吸いこまれていく。それと共に、向こう側に、大きな体躯の黒い影が見えた。
「ハハハ。これなら、お前も倒せないだろ」
樹は熱に浮かされたように、狂気を孕んだ笑い声を上げる。香炉をこちらに引き戻すと、再び穴の周りで煙がくゆる。
すると、まるでそれに導かれるように、鋭い爪のついた黒く大きな鬼の手が、こちらにズズっと突き出してきた。
渦の穴から見る限りでは、雪の日に見た悪鬼ほどの大きさではない。
それでも、穴から突き出したその手と腕は常人の三倍ほどはある。
あれがこちらに出てきたら、そう考えて背筋が寒くなる。
まるで、あいつが鬼を呼び寄せているようだ。何故そんな事をするのかはわからない。でも、あいつの言葉を聞く限り、亘に相当の恨みか何かがあるのだろう。
ただ、そんなの全部後回しだ。
あの地下の悪鬼を見たからだろうか。俺は思いの外、落ち着いていた。渦を真っ直ぐに見据えて穴の前に立つ。あいつがこちらに来る前にさっさと閉じるべきだ。
「亘、そいつ退けて! 結界を閉じる!」
俺はそう言いながら穴の前に飛び出してパンと手を合わせた。
亘は承知したように樹を取り押さえる。
瞬間、香炉がカチャンと音を立てて割れた。
その途端、煙と共にブワっと周囲に灰燼が舞い上がる。
亘がウッと呻き声を上げて口元を腕で覆い、ふらりと体を揺らしたのが見えた。
一方の樹は恍惚の表情を浮べて広がる煙を見上げている。
「亘!」
俺は思わず声を上げた。
それと共に風に乗ってこちらにも甘ったるい匂いと灰が届く。
その途端、何故か胸をググっと締め付けられるような痛みが走った。息がしにくくなり、胸を押さえて屈むと、
「奏太様!」
という汐の悲鳴のような声が聞こえてくる。更に、恐らく穴の向こうからだろうが、
ゥウグガアァァ!!!
という周囲に低く轟くような音が響き渡った。
苦痛に耐えながら顔をあげると、鬼が声を上げながら穴の縁に手をかけ、頭を突っ込んでくるのが目に入る。
角の二本生えた黒く巨大な頭がこちら側に入り、ギラギラとした目が俺達を捉え、口元から見える鋭い牙から涎が滴り、獲物を見つけたかのように不気味にその表情を歪ませる。
渦の中央から頭が完全に入り、肩が抜ける。
このままでは、すぐにアイツはこちらに入ってきてしまう。
苦しいなどと言っていられない。ここで穴を塞いでしまわなければ、大変な事になる。
俺はグッと歯を食いしばり体を起こす。そして、再び黒い渦に向き合った。
しかし、再びパンと手を打ち付けると同時に、キャア! という汐の叫び声が周囲に響いた。
「汐!?」
俺は汐の無事を確認しようと周囲を見回す。
しかし汐の姿を捉える前に、茂みからガササッと音がしたかと思うと、何者かが背後に近寄る気配がした。
背筋にゾワっとしたものが走り、振り返りかける。
ただ、その何者かの姿を確認するより早く、目元を布のような物でギュッと覆わた。
更に、痛いくらいに思い切り腕を捻りあげられ押さえられる。
「放せ! 誰だ! 何なんだよ!! 汐に何した!?」
俺は腕を振り払おうともがきながら声を上げる。しかし、力が強すぎて振り払う事が出来ない。
「奏太様! 汐!」
亘の焦ったような声が響く。しかしすぐに、
「クククッ いいのか、亘。鬼が出てきてしまうぞ。あれを抑えねば、守り手様も汐も喰われてしまうぞ」
という樹の嘲笑が聞こえた。




