1. 始まりの日
細長い月が空に浮かぶ、高2の夏休みのとある夜。PM11時。
「……なんで俺がっ……! こんな目にっ……!!!」
空高く舞い上がり、バカみたいなスピードで夜闇を突っ切る、バカみたいな大きさの鷲の上。
俺は目に涙を浮かべて歯を食いしばり、必死に大鷲にしがみついていた。
「はははっ! 振り落としても良いくらいの気持ちで飛んだのですが、これでも堪えるとは、なかなか根性がおありのようで」
大鷲はカラカラと愉快そうに笑う。
すぐ隣にいるのは、月光に輝く水色の翅を持つ小さな蝶、汐。
「亘、そろそろ奏太様を試すのもいい加減になさい」
汐は呆れた声でたしなめたが、亘と呼ばれた大鷲はどこ吹く風だ。
「しかし汐、新たな守り手様を迎え入れるのだぞ。お仕えするにせよ、どの様な方なのかを知るのは重要なことだろう? 結様の代わりだというなら尚更な。まだ足りないくらいだ」
面白がる様な言い方に、俺はうんざりしながら空を仰いだ。
日本最恐ジェットコースターも目じゃないくらいの乱高下に、シートベルトも安全バーもなしになんとか耐えきったのに、これでも足りないらしい。
「……やっぱり、柊ちゃんに言われた通り、あのまま帰ればよかったかも……」
そうつぶやくと、汐の声が冷たい風に乗って耳に届く。
「いいえ。もう戻れません。貴方には、この真下に広がる世界を守っていただかねばなりませんから。これから先、何があろうと」
何処か暗さを帯びた声音。全ての感情を排したようなそれに、全身の毛穴が冷える。
あの時の柊士の言葉が頭に過ぎった。
『選ぶのはお前だ』
もしかしたら俺はあの時、選択を間違えたのかもしれない。
――― そう、全ての始まりは数時間前に遡る。
山に囲まれた小さな町。
その隅にある山裾の集落に俺の家はあった。
父方の実家はその地域では歴史ある旧家で、広い敷地や山を複数持ち個人で使用人を雇うような家柄。
地域の祭りの取り仕切りをするなど、この付近ではそれなりに影響力がある家だった。
そして本家主導のその祭りは、他とは少し違う奇妙な習わしがあった。
近所の神社に祀られた大きな岩。十歳になった子ども達がそれに触れて、『大岩様、大岩様、我らを御守りください』と言いながら周囲をぐるぐる歩いてまわるのだ。
更にそれは、単なる祭りの行事で終わらない。
極稀に、行事の最中で掌が光を帯びてくる子どもが出てくるのだ。
俺には少しだけ歳の離れた柊士と結という従兄姉が二人いて、その二人もまた、大岩様で掌を光らせたのだと聞いていた。
かくいう俺も、掌が光った子どもの一人だった。
当時はそれが何だか誇らしかったのを覚えている。
そして、それから数年が経った今日。
祭りの取り仕切りをしていた本家に突然呼び出された。祭りで手を光らせた者に重要な役目があるからと。
案内された部屋にいたのは、本家の当主であり柊士の父親である伯父さんと柊士本人、それから見知らぬお爺さん。
いったい誰だろうと思ったが、そんなことを聞く前に伯父さんが本題を切り出した。
「結があちらに行った代わりに、奏太にも柊士と共に役目を果たしてもらう必要がある。もうすぐ一年だ。やり方を教えてやれ、柊士」
あちらに行った、というのは、亡くなった、ということだ。
結が死んだと聞かされたのは、一年ほど前の事。
その少し前には、結のおじさんとおばさんが事故で亡くなっていて、心労からの自殺だったと聞いた。
本家で行われた結の葬儀には、俺の両親しか参加しなかったけど、どうやら大きな騒ぎがあったらしい。
遼という、結の同級生が急に葬儀に乱入してきて相当暴れたのだそうだ。
警察を呼ぶか議論になったが、その場にいた男性陣で取り押さえられたので呼ばずに済ましたと聞いた。
昔はよく遊んでもらっていて面倒見が良かった遼がそんな事をするなんて、と聞いた時には驚いた。
何か複雑な問題事があったんだろう。けど、あれ以降、結の死については誰も触れなかった。遼がその後どうなったかも聞いていない。何だか、皆がその話題を避けていたように感じた。
だから、結の名前を聞いたのも久しぶりだった。
伯父さんの口振りからすると、俺はその結の代わりに何かをやらされるらしい。
「ねえ、役目って何? 俺、何かしないといけないの?」
「鬼や妖の住む世界との間にある結界にできた綻びを修復するんだ。大岩様で手を光らせた者の務めとして」
「……は?」
……はい? 結界? それに、鬼や妖?
俺が首を捻っていると、よく分かっていないことを悟った伯父さんは眉根を寄せる。けど、そんな顔をされたって、理解できないものは理解できない。
鬼や妖からこの世界を守るための結界だなんて、いったいどこのアニメの話だ。
そう思っていると、柊士が仕方がなさそうに口を開いた。
「親父、実際に見た方が早い。普通は現実離れしすぎて真剣に話なんて聞けない」
柊士はそう言いながら、伯父さんと同席したまま一言も発しないお爺さんに目を向ける。
「粟路さん」
柊士が声を掛けると、お爺さんがコクリと頷いた。
「仕方がありませんね」
嗄れた声が聞こえてきたと思った瞬間、ふっとその姿が消え失せる。
「は!?」
俺は驚きに目を見張った。
いったいどこに行ったのだろうと視線を彷徨わせていると、先程までお爺さんが座っていたところに一羽の雀がちょこんと座っている。
さらに、雀が羽を震わせたと思うや否や、その場に再びお爺さんが現れた。
「……イ…イリュージョン……?」
「よく見てろ」
隣で柊士が顎をしゃくる。
すると今度はお爺さんの背に羽が生え、羽ばたき僅かに宙に浮く。
「しゅ、柊ちゃん、あれどうなってんの?」
柊士をパシパシ軽く叩くと、柊士はうざったそうに肩を動かしながら、
「妖だよ」
と言った。
……いやいや、イリュージョンでしょ。種か仕掛けがあるでしょ、絶対。
そう思っているうちに、お爺さんは畳の上に降りて先程の様に座る。背中には、もう羽は生えていない。
俺がチラと伯父さんと柊士に目を向けると、二人は大真面目にこちらを見た。
「少しは理解できたか?」
「今のトリック、教えてくれない?」
俺の言葉に、柊士はハァーと大きく息を吐く。
眉根を寄せる表情はさすが親子だ。すごく似ている。
そんなどうでも良いことを考えているうちに、柊士はスッと指を一本、自分の眼の前に差し出した。
「栞」
柊士が言うと、一匹の金色にきらめく蝶がどこからかヒラヒラ飛んできて、柊士の指にピタリととまる。
「こいつに姿を見せてやってくれ」
すると、蝶がまるで柊士の言葉に反応するかのようにフワリと舞い上がる。それが畳の上に降りた瞬間、蝶は着物姿の小学生くらいの金色の髪の女の子に姿を変えた。
俺は、ぽかんと口を開けて見ていることしかできない。
……妖……?
本当にそんなものが居るのか……?
そうしているうちに、今度はお爺さんの方から低い声が響いた。
「汐、ご挨拶を」
「はい」
先程の女の子とは違うまた別の方向から高い声がしてそちらを見ると、青く透き通るようなキレイな翅の蝶が飛んでくる。
それが俺の目の前の畳に止まったかと思うと、フッと、先程の子によく似た青色の髪の女の子に変わった。
目を瞬いているうちに、女の子はすっと両手を前に付き俺に向かって頭を下げる。
「はじめまして、守り手様。今後、私、汐が貴方様をご案内させていただきます」
すごくキレイな子だが、顔を上げてニコリと笑う透き通った目が、何だか妙に怖い。
視線をそらして、俺は柊士と伯父さんに順番に目を向ける。
「……本当に……妖なの……?」
「そうだ。今後、汐がお前を手助けしてくれる。よくよく教えてもらえ。柊士、妖では教えてやれない事もある。お前もしばらく奏太についていてやれ」
伯父さんが言うと、柊士は嫌そうに顔を顰めた。
「俺、仕事があるんだけど……」
「辞めればいいと何度言ったら分かる? こちらに実入りがあるのだから、他に仕事などせず集中しろ」
当たり前のような顔で指示を出す伯父さんに、柊士は反抗的な目を向ける。
「俺はもう、できるだけ関わりたくないんだよ。俺がやるのは手に負えなくなった時だけだ」
「本家の者が残された役目を果たさずにどうする。本来、お前があちらに行くはずだったんだぞ」
伯父さんの低い声に、柊士は一度ぐっと口を噤んだ。
「……結を選んだのは親父たちだろ。俺に責任を押し付けるな」
「お前がいつまでたってものらりくらりとしているからだ」
柊士はキツく拳を握って俯く。
何の話か全くわからず置いてきぼりの状態だが、空気がすごく張り詰めていて重たい。
「奏太」
「は、はい!」
急に名前を呼ばれて飛び上がる様に返事をすると、伯父さんは小さく息を吐き出した。
「とにかく、お前には結の代わりに結界の補強をしてもらう。大岩で手の光った者にしかできない仕事だ。やり方は、柊士と汐に教えてもらえ」
伯父さんはそれだけ言うと、俯いたままの柊士に目を向けたあと、粟路と共に退室していった。
「……あの、柊ちゃん?」
おずおずと声をかけると、柊士は無言のまますっくと立ち上がる。
それから、バサッと紐で綴られた古びてボロボロの紙束を俺の前に落とした。
「結が使っていたものだ。使い方は汐に聞け。俺は東京に帰る」
「えぇ!? 困るよ! 結局何をすればいいのかもわからないのに!」
「だから、それを汐に聞け。それに、親父はああ言っているが別に強制じゃない。聞いた上で自分で判断しろ」
……この子に全部教えてもらえって? それに自分で判断しろって言われたって、やらなかったら伯父さんに怒られるのは俺なんじゃ……
俺が目の前にちょこんと座る汐に目を向けているうちに、柊士は話は終わりだとばかりに立ち上がり、蝶に戻った栞を連れて俺に背を向け戸に向かう。
「ちょっ、柊ちゃん!」
「選ぶのはお前だ。進めば、もう引き返せない。やるかどうかは自分で決めろ」
柊士は振り返りもせずにそれだけ言って、部屋を出ていってしまった。




