-第二章 2度目の邂逅、2度目の投擲-
-第ニ章 2度目の邂逅、2度目の投擲-
今日も今日とて午前の講義の終了を告げるチャイムが鳴り響く。しかし彼女は立ち上がらない。その可愛らしい顔には似つかわしくないシワを、眉間に深く刻んでいた。近寄りがたいのは相変わらずだが、この日は意味合いが違った。
手元を見下ろし、天井を見上げ。腕時計にチラと視線を落としたと思ったら、トートバッグを覗いて。1人クルクルと忙しない。お昼ご飯を食べるためにいつもの場所へと行きたいのだ。しかし昨日の出来事を思い出し、行くべきか行かざるべきかと悩んでいた。そう、いつの間にか現れた男性との水筒投擲事件(※本人談)だ。
スローモーな世界が2つの音で終わりを迎えた後、訪れたのは静寂。ミンミン蝉の鳴き声がより一層耳に付く。一拍置いて静から動へ。
「ひぃやああぁぁぁぁぁぁっ⁉︎」
思わず蝉すらジジジッと逃げ出す程の金切り声。悲鳴を上げたのは敵(?)を倒した彼女の方だった。しかしそれは恐怖ではなく、混乱の色を含んで。咄嗟に行ってしまった自分の行動。いきなり現れ、倒れた男性。目の前に広がっている光景に脳の処理が追い付かない。
やってしまった……。まさか殺してしまったのだろうか? 動かない男性に大きな不安を抱き、震える膝に喝を入れて立ち上がる。ゆっくりと、そろりそろりとすり足で。ふと気が付き、辺りを見回す。よし、目撃者はいないようだ。いやいやいや! 何だその犯人みたいな思考!! ブンブンと首を振り、落ち着けと自分に言い聞かせる。
まずは現状把握だ。自分が座っていたベンチのすぐ横、芝生の上に敷かれたカラフルなレジャーシート。その上には、仰向けにシート外へ身体を投げ出した男性。そして亀のイラストが描かれた、彼のものであろう小さな2段重ねのお弁当箱とトートバッグ。すぐ近くには彼女が投げ付けたステンレス製の水筒が転がっている。男性の額は赤くなっているものの、出血は見られない。うん、流血沙汰回避成功。
深呼吸をして多少は落ち着きを取り戻した。取り敢えず声を掛けてみよう。まずはそれからだ。動かない男性の横へとしゃがみ込み、ぺしぺしと控えめに、頬を叩く。
「あのぉ〜……大丈夫ですの?」
反応は無い。ぺしぺし、ぺしぺし……ぺしぺし。無言で叩き続けている刹那、ビョンッ‼︎ という効果音が似合いそうなほど、唐突に男性が上半身のみ飛び起きた。……が、そのまま額を抑えてうずくまってしまう。
「っ痛ぅ〜……っ」
未だ続く痛みの余韻に大きな身体を縮こませ、まるで仔鹿の如く気の毒なほどにプルプルと震えている。驚きのあまり仰け反った身体をまるで油の切れたブリキのようにギシギシと戻すと、恐る恐る彼へと再度のコンタクト。
「えーと、額は大丈夫ですの?」
その声を受け、ゆっくりと顔を上げる男性。多少涙ぐんではいるが相変わらず笑顔を崩さない。
スクウェア型の眼鏡を掛けたほんのり丸顔に、柔らかく下がった目尻。先ほどから見られる笑顔と相まって多少気弱そうな感じを受けるが、まとった雰囲気はふんわりと優しそうだ。服装は眩しいほどに白く、パリッとしたシャツに細身の赤いネクタイ。その上から黒のベストを羽織っている。ベストと同色のパンツを履いたその様は、何処かのギャルソンのようだ。座ってはいるが、中々の高身長と見受けられる。
「いやいや、ご心配なく。済みませんでした」
額から手を外して、申し訳無さそうに頭を下げる。これではどちらが悪いのか分からない。どちらかといえば彼こそ被害者サイド。何せ問答無用の水筒アタック。しかし言葉を発すれば、最後には謝罪の一言。
「ちょっと、何で貴方がそんなに謝る必要があるんですの?むしろ被害者でしょ⁉︎」
ついつい言ってしまった。それほどに謝罪の嵐。どうやら気弱そうな雰囲気は、その通りだったようだ。
「えーと……お気付きになられなかったとは言え、無断で眺めていたようなものですから。あまりにも美味しそうに食べているもので、声を掛けるにも掛け辛くて」
ちょっと待て、という事は。
「……見ていたんですの?」
どこから見られていたのか⁉︎ ニヤニヤしたり身悶えたり、箸で摘まんだおかずをうっとりと眺めている姿。思い起こしてみると、どれも見られてはいけないものばかりだった。
「素晴らしい食べっぷりでした」
それはもう良い笑顔で。それこそ自分の事のように嬉しそうに男性は肯定したのだった。ビシッと決めたサムズアップがイラッと来る。
ボンッ! っと音がしそうな勢いで赤面。それもそうだ、うら若き乙女が食に集中している姿などじっくりと見られたくは無いものだ。両の掌で顔を抑え下を向く。心なしか、今度は彼女の方がプルプルと震えているようだった。
「あぁ違うんです⁉︎ 決して悪気があった訳では無いんですよ! 」
その姿を見てうっかり泣かせてしまったかのかと勘違いし、必死のフォローが始まった。しかし彼女は羞恥の感情によって思考はオーバーフロー。思いはひとつ、口止めせねば! 実に物騒である。
熟した林檎のように真っ赤な顔を上げると同時、転がっている水筒の端を擦るように上から叩く。それによって中へと跳ね上がる水筒を左手で横から薙ぐように受け止めると、勢いをそのままに右方向へと一回転。むしろ勢いを倍にして身体を180°反転させたところで振りかぶり、真正面でリリース。
2度目のンゴン! が聞こえた公園には、数分前と全く同じ姿で無様な屍を晒す男性。ただ違うのは、男性を日光から覆うように開かれた白い日傘の存在と、その持ち主がいない事だった。
以上、回想終了。
これが昨日起こった一部始終だった。
向こうにも多少の非があるとは言え、問答無用で2度も沈めてしまったこと。やはり謝罪はせねばなるまい。そして置いてきたお気に入りの日傘。あれは祖母からプレゼントされた特別な一品。物は粗末にしてはいけない。ご両親の素晴らしい教育が、今の彼女を盛大に悩ませていたのだった。
全米が泣くほどの長編映画クラスな回想を繰り広げてはいたが、実時間としては約5分。悩みに悩んだ結果、彼女はやはりいつもの公園へと行く事を決意したのだった。
「それにまた必ず会えるとは限りませんし。いつものようにご飯を食べに行くだけですわ。いたら謝る事にしましょう」
そんな具合に独り言ちて、彼女は講堂を後にした。
もう目を瞑っていても問題無いくらいに通い慣れた道。若干重たくなった足に喝を入れ、坂を登って行く。いつものようにひまわりへと挨拶を済ませて特等席へ。
迎えてくれたのは大木と大きな男性。いた、やっぱり。一瞬たじろぎはしたものの、何事も無かったかのように歩みを進める。コツコツとレンガを叩くヒールの音に気が付き、男性が振り返った。夏の強い陽射しによって色濃くなった影の中、彼のシャツが良く映える。
「どうも。また会えましたね」
昨日と変わらずのニコニコ顔。ベンチのスペースを空けて彼女を招き入れる。さり気無くハンカチを敷く辺り、こやつ出来るな。
座ってはみたものの、さぁどうしよう? 隣をチラと見れば、こちらを見つめる男性。にこにこ、ニコニコ。どうやら怒っている様子は無さそう?
意を決して昨日の非礼を詫びよう。いざ!
「昨日h」
「はい、日傘です」
インターセプト。そして差し出されるお気に入りの日傘。『は』の形のまま停止した口をゆっくりと閉じると、傘を見つめて数秒。わたくしの謝罪は、行き場を失った哀れな迷子ですわ。
日傘を受け取ると、上目遣いでぐぎぎと睨む軽い抵抗。
「……ぁりがとうございますぅ」
それでもお礼は忘れない。
「昨日は済みませんでした。改めて考えてみたら、あれは女性に対して失礼でしたね。それと日傘、ありがとうございます。お陰で変な日焼けを作らずに済みましたよ」
何という事だ。先手を取られてしまった。それどころかペースを乱され、イニシアチブを完全に掌握されている。このままでは自分の面目が立たない。反撃の謝罪をせねば!若干目的がおかしくなっているが、細かい事は横へポイッとしておこう。
拳をひと握り、よし行くぞ。
「昨日h」
「さて、それじゃあ僕は行きますね」
カットイン。そして向けられる相変わらずの笑顔。またも『は』の形のまま停止した口を閉じる間もなく、彼は一礼してふらりと立ち去って行った。嗚呼、わたくしの謝罪は日の目を見ることは無いのでしょうか……。
「んぐぐぐぐ……っ! 御機嫌よう!!」
謎の悔しさを滲ませながらも、それでも挨拶は忘れない。お尻の下には彼が敷いてくれた1枚のハンカチ。そうだ、これがあれば……。また謝罪の機会を作れるっ!! 謝りたいのか怒りたいのか。謎の確執を残し、こうして2度目の邂逅は幕を閉じたのだった。
「次こそは見ていなさいよっ!」
彼女の叫びは夏の風にさらわれ、ひまわりをそよそよと揺らした。