9. 絶望の檻の中で
9. 絶望の檻の中で
劣悪な環境、一筋の希望も見い出せない状況、生まれて初めて経験した愛のない生活。絶望の檻に閉じ込められたミュウは、それら全てに押し潰されて、生きる希望を失っていました。悲しみと絶望からミュウの命が今にも消えようとしていたその時、一人の老婆が番兵に連れられてやってきました。
「おお、ひどい臭いだっ!」
老婆は入ってくるなり、そう言ってっ鼻を覆いました。ミュウは首をもたげて悲しそうに老婆の方を見ましたが、すぐに力なく頭を垂れてしまいました。この頃には、与えられた餌もほとんど喉を通らなくなっていたため、首をもたげていることさえ億劫だったのです。
牢は数か月間掃除されていなかったので、溜まったままのミュウの排泄物が強烈な悪臭を放っていました。老婆は悪臭に耐えかねた番兵たちが、雇い入れた掃除女でした。彼女は身寄りがなく、金に困っていたため、誰もが嫌がるこの仕事を、信じられないほど安い賃金で引き受けたのでした。また、老婆は老いが進んでいた為、目がほとんど見えなくなっていましたが、それも番兵たちにとっては好都合でした。したがって、暗闇の中に横たわるミュウの姿も、老婆には大きな石の塊ぐらいにしか見えていませんでした。
番兵は老婆を石牢に押し込むと、さっさと鍵をしめ、賭け事の続きをするためにどこかへ行ってしまいました。
「おお、ひどい臭いだ。」
小さな老婆は先程と同じ言葉を再び呟きましたが、鼻が慣れたのか、さほど嫌がる様子も見せず、黙々(もくもく)と牢の掃除を始めました。腰が海老のように曲がっているせいで、ずっと下を向いている老婆が、顔を上げることはないように思われました。しかし、ミュウは万が一にも老婆が顔を上げて自分を見て、驚くことがないようにじっとしていました。
老婆は石牢の隅から掃除を始めましたが、やがてミュウが横たわっている辺りにも近づいてきました。老婆の持っているブラシが足枷の鎖に絡まってガチャガチャと音と立てました。
「おや、こんなところに鎖が......」
老婆は何も考えずに鎖を手繰り寄せました。鎖の先には重たくて固い何かが繋がれています。老婆はそこでようやくそれが牢の主ではないかと思い当たりました。しかし、怖くはありませんでした。長年、世間から虐げられてきた老婆は、自分の命などどうなってもいいと思っていたからです。長生きをしても良い事などまったくありませんでした。
老婆は手に持っていたブラシを、牢の主に当ててみました。乾いた音がしましたが、固い中にも無機質にはない柔らかさが感じられます。
「おや?」
老婆はもう一度、ブラシを当ててみました。やはり石とは違う音がします。
試しに鎖を引っ張ってみると、牢の主は「引っ張らないで」とでもいうように老婆の方へと顔を近づけてきました。生暖かい鼻息が老婆に掛かり、老婆は目の前にいる相手が生き物であることを確信しました。
「これが牢の主かい?」
老婆はブラシを床に置くと、今度は自分の手で確かめようと、枯れ木のような腕を伸ばしました。乾いた手がミュウの背中をそっと撫でていきます。
「血の匂いがする......お前さん、怪我をしているね?それにひどく痩せている。」
石牢に足を踏み入れた時は、糞尿の臭いが強烈で分かりませんでしたが、近くに寄ってみると、石牢の主は怪我をしているようでした。背骨もゴツゴツと突き出ていて、極限まで痩せているのも分かります。
血の通った人間の声を久しぶりに聞いたミュウは、弱々(よわよわ)しく息を吐くと、冷たい鼻先を老婆の手に押し当てました。その仕草に、老婆の中にあった少しばかりの恐怖心も完全に消えてなくなり、その代わりにこの穏やかで憐れな生き物に対する強い同情心が湧いてきました。老婆の声は知らず知らずの内に優しくなっていました。
「おや、まあ。大きいこと。お前さんがこの牢の主かい。どうりで誰も正体を教えてくれなかったわけだ。」
番兵たちは老婆が逃げ出すことを恐れて、ミュウの正体を教えてくれませんでした。
牢の主は老婆の問い掛けには反応しませんでしたが、その気配から老婆の声にじっと耳を傾けていることは分かりました。
その日、老婆は牢の掃除を簡単に済ませると、番兵が迎えにくるまでずっとミュウの身体をさすっていました。
翌日も同じ時間に老婆はやって来てると、黙って掃除を始めました。しかし、番兵がいなくなるとすぐに、老婆は継ぎはぎだらけのスカートのポケットから塗り薬を取りだして、ミュウの傷口に塗り始めました。昨日、番兵たちから貰ったお金で買ってきた軟膏です。
「少し滲みるかもしれないけど、じっとしておいで。暴れるでないよ。お前さんがちょっと動いただけで、あたしの骨なんて簡単に折れてしまうんだから。」
牢の主は老婆の言葉を完全に理解しているようで、薬を塗ってもらっている間、少しも動かずにじっとしていました。
「可哀想にね。どうしてこんな目に遭わされているんだか知らないけど、あいつらに捕まったのが運の尽きさね。あいつらの残酷なことと言ったら、知らない者がないくらいだよ。あいつら、あたしにも随分、威張り散らしていたよ。」
老婆は小さな声で話しながら、ミュウの傷の一つ一つを指で探り当て、薬を塗っていきます。
「おや、これはなんだい。まるで鱗みたいだね。おやまっ、翼もある!お前さん、もしかしたら、ドラゴンなのかい。ああっ、なんてこったい!あたしゃ、知らないうちにドラゴンの巣穴に迷い込んでしまったんだね。」
そう言いながらも、老婆が手を止めることはありませんでした。
「お前さん、こんなに痩せているけど、餌は食べていないのかい?まるで、餓えて死のうとしているみたいじゃないか。だけど、動物が自殺するなんて聞いたことないねえ。自殺するのは人間だけかと思っていたよ。」
老婆はぶつぶつと独り言のように呟きました。
「でも、こんな所で死んだら駄目だよ。お前さんにだって家族はいるんだろう?お前さんが死んだら、悲しむ人もいるんじゃないのかい。」
思いがけない老婆の言葉に、リューイたちと暮らしていた時の記憶が蘇り、ミュウは泣きそうになるのをぐっと堪えました。老婆はゴツゴツしたミュウの背中を優しく撫でました。
「こんなこと、あたしら人間が言うのも何なんだけど、こんな穏やで大人しい生き物に平気で酷い事をするんだから、人間ってのはどうしようもない生き物だねえ。それでも、こんな所で死んだら駄目だよ。」
そう言いながら、老婆はミュウの首をぎゅっと抱きしめました。ミュウは堪えきれずに小さな嗚咽を漏らしながら、老婆にそっと顔をすり寄せました。
その日以降、老婆は毎日、番兵たちに見つからないようにミュウに食べ物を持ってくるようになりました。その中でもミュウの一番のお気に入りはリンゴでした。一瞬だけではありますが、リンゴの酸味と爽やかな香りが陰鬱な気分を吹き飛ばし、リンゴの甘味が悲しみを癒してくれました。
日々(ひび)の暮らしにも困っている老婆が自分の食べる分を減らしてでも買った小さなリンゴは、あっという間にミュウのお腹の中に入ってしまうのですが、それでも老婆はミュウがリンゴを噛み砕く小気味の好い音を聞くだけで満足でした。
やがてミュウは老婆が石牢を訪れるのを心待ちにするようになりました。老婆のほうもミュウに自分の境遇を重ね合わせているのか、ミュウに強い共感と憐れみを示すようになりました。
が気に入ったようで、昔、飼っていた犬の話などをミュウに話して聞かせるようにもなりました。
「お前さんは昔、飼っていた犬によく似ているよ。とっても大人しくて良い子だった。後にも先にも犬の飼ったのはその一回こっきりだったけどな。あまりにも痩せていたから、可哀想になって拾ってきたのさ。」
「グルルル~」
牢の主は人間の言葉を完全に理解しているようでした。かなり高い知能を有しているようで、人間の言葉こそ話せないものの、ちょっとした動きや喉を鳴らす音のトーンを微妙に変えるなどして、老婆の言葉を理解していることを伝えてくるのでした。その優しさと熱心に耳を傾けてくれる姿勢は、孤独な老婆にとって牢の外にいる人間たちよりも好ましいものに感じられました。
そうこうしている内に冬は過ぎ、季節はいつの間にか春になろうとしていました。




