番外編 青毛の馬
ユストと第一部の最後のほうに登場した黒馬ナミのお話です。
小さな皆さん、ごめんなさい。今回は難しい漢字が多くなってしまいました。わからない漢字があったら、お母さんやお父さんに教えてもらってくださいね。
青毛の馬
ユストが近づいていくと、馬は飼葉桶の中から顔を出して、じっとこちらを見つめました。
馬は肩の車骨の幅が広く、四足は麻を立てたようにまっすぐでした。このように、足をまっすぐにして立てる馬は稀でした。多くの馬は、脚が前後に少し傾いているものです。ユストはこの馬が類稀なる駿馬であることを一目で見てとれました。
馬の目は落ち着いた色を湛えながらも、強い光が宿し、この馬が悍馬*でもなければ、臆病な馬でもないことを証明していました。
ナミを初めて見たときの衝撃は、今でもはっきりと覚えています。あれは小雨が降る六月の午後のことでした。ユストは知人の紹介で、地方の豪族が営んでいる小さな牧場を訪れました。ユストも馬を一頭、所有していましたが、既に10歳を超えており、戦場に出るには少し歳を取り過ぎていました。
しかし、新しい馬を急いで買うつもりはなく、時間を掛けて納得がいくまで探そうと思っていました。言い換えれば、馬というのはそれほど大きな買い物なのでした。
雨に煙る納屋の横を通りながら、ユストはぼんやりと良い馬がいるといいなと考えていました。
ユストたちが厩舎に入ると、あちこちからブルルルという鼻息が聞こえてきました。全部で十頭ほどいたでしょうか。厩舎の入口に立ったユストは、心が躍りました。一番、手前にいる馬でさえ、相当な名馬なのです。それが厩舎の奥にいくにしたがって、どんどんレベルが上がっていくのです。この状況で、目移りするなというのは無理な話です。
薄暗い厩舎の中を奥へ進んで行くと、一番奥に何か光るものがいました。それがナミでした。強い気、明るく生き生きとした瞳、光沢のある肌、滑らかに隆起した筋肉、美しいたてがみ、それらのすべてが相まって、誇張ではなく、ユストの目には本当にその馬が光を放っているように見えました。
ユストは雷に打たれたようにその場から動けなくなってしまいました。迷いや逡巡は一瞬にしてどこかへ飛んでいきました。
――この馬が欲しい。この馬でなければ駄目だ。
この機会を逃したら一生、後悔するかもしれないという予感が体を駆け巡りました。間違いなく、この馬は一生に一度、会えるか会えないかの駿馬です。
ユストがナミから目が離せなくなったように、ナミもまた、ユストをじっと見つめていました。
――何を考えているのだろう…
のちに、万人をして人馬一体とまで言わしめるほどの一人と一頭でしたが、この時はまだ互いのことをよく知りませんでした。
ユストがそっと手を伸ばすと、馬はユストの手の平の匂いを嗅ぎ、少しだけ考える素振りを見せました。
――俺のことを気に入ってくれたようだ。まずは第一段階突破か…
乗馬の名手であるユストは、乗り手と馬の相性がいかに重要であるかを痛いほど知っていました。
「ホホホホ。この馬がお気に召されましたかな?さすがはユスト様、お目が高いですな。馬のほうも、貴方を気に入ったようだ。」
ユストが振り返ると、少し離れたところから見守っていた牧場の主が音もなく近づいてきました。枯れ枝のような老人は、まるで体重がないようで、歩くときもまったくといっていいほど音を立てませんでした。
「この馬をご覧なさい。まるで、やっと本当の主人に巡り逢えたとでもいうような顔をしておる。この馬も相当あなたを気に入っとりますぞ。」
いわば相思相愛ですなと言って、老人はホホホホと笑いました。
「そうでしょうか?」
ユストが問いかけると、小柄な老人は頷きました。
「この馬は、非常に利口な馬でしてね――」
老人が愛しそうに馬の鼻づらをなでると、馬は甘えるように顔をすり寄せました。老人は隠居後の人生をすべて馬の育成に奉げてきましたが、その中でもこの馬は特別でした。手塩にかけて育てた馬を手放すのは、大切な娘を嫁に出すようで辛いのですが――もっとも、この人には娘はおりませんでしたが――良い主人に巡り合えたとなれば喜んで送り出さねばなりません。
「この馬は子供や小さな生き物にはとても優しいのですが、大人の男が相手ですと厳しい態度をとることがあります。」
老人は苦笑いを浮かべると、こう続けました。
「当家には三人の息子がおりますが、末の息子がとんでもない放蕩息子でして。いやはや、まったく、私の教育が悪かったのでございますが…。年をとってからできた子でしたので、ついつい甘やかして育ててしまいました。」
老人は言い訳のように呟くと、目を細めました。
「その息子がこれに乗りますと、それはもう、傍で見ていても可笑しいくらい、嫌がるのでございます。それが、長男が乗りますというと――長男というのは真面目なだけが取り柄の男なのですが――急に大人しくなるのでございますから困ったものです。」
困ったと口では言いつつも、老人は少しも困ったふうもなく笑ってみせました。一事が万事、そんな調子でしたので、老人は「どれだけ金を積まれても、つまらない人間に売り渡したのであれば、この馬が可哀想である。相応の買い手が現れなければ、一生、この馬を自分の手元に置いておこう」と密かに思い定めていました。そこへ、ユストが現れたのです。これを運命と言わずして、何と言いましょう。馬自身もユストに不満はないようですし、老人としてもユストが買い手であれば喜んで手放せる気がしました。
この人は、最下層から身を起こした人物なだけに、人を見る目は確かでした。老人の好意に溢れる眼差しを受けて、ユストは控えめに微笑み返しました。
――そうであれば、本当に良いのだが......そうなると、あとは値段の問題だけだな。おお、神よ。どうか私に味方してください。
ユストは心の中でそう呟きました。
数十分後、がっくりと肩を落としたユストは、尚も馬の前から離れられずにいました。馬の値段はユストの予想を遥かに上回るものでした。しかも、老人は値引き交渉には一切、応じられないというのです。
――高いだろうとは思っていたが、まさかこれほどまでとは......
どうあがいてもユストの給料で買えるような額ではありません。このとき、ユストは二十二歳。実力で一万人の長にまで登りつめていましたが、スクエアードでは年功序列制度が根強く残っていたため、若年のユストの年俸は微々(びび)たるものでした。
老人が値下げに応じなかった理由の一つは、老人がこの馬の価値を固く信じて疑わなかったことにあります。老人は「この馬は羊のようでもあり、獅子のようでもあるから」と言いました。ユストは老人の言葉の意味をすぐに理解しましたが、その意味を本当に理解するのはもっと後のことになります。
これは余談ですが、後日、再び牧場を訪れたユストはこの馬を最初から難なく乗りこなして、改めて老人を驚かせることになります。
そして老人が値下げを拒んだもう一つの理由は、ユストにどれくらい覚悟があるか確かめるためでした。特別な馬を維持するには、特別な環境、世話、熱意、そして金が必要です。農耕馬が小型のファミリーカーだとしたら、軍馬はF1カーなみの維持費が掛かります。老人はユストにそれだけの犠牲を払う覚悟があるかどうかを試したのでした。
その後も暫くナミを見詰めていたユストは後ろ髪を引かれる思いで、厩舎を後にしました。ユストの背中に向かって、馬は戻ってこいとでも言うようにカッ、カッと前脚で床を蹴りました。
――振り返るな。
ユストは自分にそう言い聞かせると、未練を絶ち切るように足を早めました。
――俺には過ぎた馬だ......
立ち去るユストの後ろ姿を、黒い二つの瞳がずっと見詰めていました。
――人が馬を選ぶのではない。馬が人を選ぶのだ。
馬に背を向けて歩き去るユストは、馬の視線に足を絡め取られるような錯覚を覚えました。
厩舎を出たユストは、蕭々(しょうしょう)と降り続く雨の中、胴震いをしました。
その夜、ユストはベッドに入ってもなかなか寝付くことができませんでした。あの馬の姿が瞼に焼き付いて離れないのです。何度か寝返りを打った後、ユストは溜息をつくと起き上がりました。
時計の針は0時を過ぎていました。しかし、ユストは先程からどうしても今、モルデカイに会うべきだと強く感じていました。モルデカイに相談したところでどうにかなるとは思えませんでしたが、話を聞いてもらえば少しは気が晴れるかもしれません。
少し躊躇った後、ユストは服を着替えると、モルデカイの家へと向かいました。モルデカイの家は近衛兵の宿舎から歩いて三十分ほどのところにありました。
宿舎には門限がありましたが、ユストは立場上、夜中に呼び出されることも多かったため、門番に咎められることはありませんでした。
モルデカイの家の玄関を遠慮がちにノックすると、モルデカイはまだ読書をしていたらしく、気持ち良くユストを迎え入れてくれました。
ユストはモルデカイに今日、見てきたことを少しずつ話し始めました。とある牧場で素晴らしい馬を見つけたこと。しかし、値段が高くて手が出せないこと。頭では諦めるべきだとわかっているのに、どうしても諦め切れないこと、等々(などなど)。
黙って聞いていたモルデカイはユストの話しが終わると、静かに立ち上がり、奥へと引っ込みました。そして、しばらくすると、黒い箱を手に戻ってきました。箱には何重にも鍵が掛けられていました。
モルデカイは懐から鍵の束を取り出すと、鍵を一つ一つ開けていきました。箱の中には何やら重そうな袋が入っています。モルデカイがゆっくりと袋を開けると、中には金貨がぎっしりと詰まっていました。
ユストは驚きを隠し切れませんでした。貧乏だと思っていた養父がこのような大金を持っていようとは夢にも思っていなかったからです。
「息子よ。」
モルデカイに息子と呼ばれたのは、これが二度目でした。一度目は「モルデカイの跡をついで文官になるのではなく、軍人になりたい」と打ち明けたときでした。そして二度目が今日です。
「息子よ。将たる者は良い馬に乗らなければならない。良い馬に乗れば、それだけ生き残る確率が高くなるから。将の使命は兵を統率することだけでなく、兵を生きて国に連れて帰ることだ。将が倒れてしまったら、残された兵はどうなると思うか。壊滅するより他ないではないか。息子よ、よく聞くがよい。これはお前のために貸す金ではない。何千、何万という兵士たち、延いてはその兵士の家族のために貸す金である。」
ユストは黙って頭を下げました。この金貨はモルデカイが長年にわたってコツコツと貯めてきたものに違いありません。モルデカイと一緒に暮らしてきたユストは、モルデカイが粗食を常とし、一年を通して夏服と冬服を二着ずつしか持っていないことを知っていました。ユストは何かを言おうとしましたが、胸が詰まって言葉になりませんでした。
モルデカイはユストが子供の頃から仁と義について何度も教えてきました。今日のことは、その教育の集大成とも言えるでしょう。
全財産を少しも躊躇うことなく与えることで、モルデカイはユストに将として心構え、究極的には人としてのあり方を示そうとしたのです。彼は文官でしたが、古今東西の歴史書を読み漁り、ありとあらゆる戦法を研究していました。ユストもこれまでに何度かモルデカイの的確なアドバイスにより命を救われたことがあります。モルデカイに実戦経験がないことを鑑みると、これは驚くべきことでした。
ナミを得て以来、ユストとナミは常に一緒です。戦場でナミに命を助けられたことは数知れず。ナミによって大勢の兵士の命が救われてきたことを言うまでもありません。ユストは身をもって、モルデカイの言葉の正しさを証明してきました。
ナミは平素は羊のように柔順でしたが、戦場では一変、獅子のように猛々(たけだけ)しくなりました。自分と主人に危害を加えようとする者に対しては容赦がなく、踏み潰すことも躊躇いませんでした。
軍馬は火煙や大砲、阿鼻叫喚にも怖じけることがない気の強さがなければなりません。一方で、人間の命令に従う従順さも必要です。また、重い鎧を着た騎士を乗せて戦場を走り回れるだけの体の大きさと力も必要でした。馬が大きければ大きいほど、上の乗っている人間は戦いにおいて有利になります。
ユストがナミを手に入れた頃から、「スクエアードに智、勇、胆を備えた名将あり」との噂が広がり始めました。事実、黒馬に乗ったユストが戦場に姿を現すと、それを見ただけで敵兵は恐怖に震え上がり、潮が引くよう後退しました。モルデカイの深慮によって、ユストはかけがえのない戦友を手に入れたのでした。
* 悍馬:気質が荒くて制御しにくい馬。あばれ馬。あらうま。(広辞苑より)
モルデカイは質素な生活をしていましたが、王の相談役を務めていましたので、実際は高給取りでした。しかし、高価な本をたくさん買い漁ったために、あまり贅沢はできませんでした。それが子供だったユストの目には「貧乏」と映ったのでしょう。
歴史小説好きの方の中には既にお気づきになられた方もいらっしゃるかもしれませんが、モルデカイとユストのくだりは司馬遼太郎先生の「功名が辻」から着想を得ています。ご興味のある方は是非、お手にとってみてください。面白さは保証します!
「功名が辻」の主人公は武将の山之内一豊ではなく、妻の千代です。千代が内助の功を発揮して一豊に馬を買わせた話は、明治から昭和の初期にかけて、どの国語の教科書にも載っていたくらい有名な話だったらしいです。まな板も買えないくらい困窮していた筈なのに、ここぞという時には夫に惜しげもなく10両を渡す…千代は良妻賢母の鏡ですね。




