3. 人生の嵐
3. 人生の嵐
ベッドに横たえられた女王は、瞬きもせずに天井を見つめていました。ただでさえ白い顔はさらに白くなり、蝋人形のようにさえ見えました。
先程、牢の中にいる女王を見たときは、あまりの痛ましさに涙を堪えるのが精一杯でした。誰の目もなかったなら、思い切り抱きしめていたかもしれません。ユストが愛した銀の髪も、今はもつれて絡まり合っています。
――あとで侍女に梳かさせないと…
どうでもいいようなことが頭に浮かびます。しかし、まずは医者を呼ばなくてはなりません。ユストは急いで王家専属の医者を呼び寄せました。
医者は痛がる女王を宥めすかしながら、爪があった場所を丁寧に消毒し、薬を塗りました。そして痛み止めと化膿止めが入った注射を打つと、明日また来る様子を見に来る旨を伝えて帰っていきました。帰り際に、医者は思い出したように鞄から白い紙包みを取り出すと、「苦しみがあまりにも酷いようなら」と言ってユストに手渡しました。それは精神安定剤でした。
ユストは侍女に水を持ってこさせると、女王の手に持たせました。女王は無意識に手を伸ばしてコップを受け取ろうとしましたが、包帯を巻かれた手は上手く曲がらず、コップを落としてしまいました。ベッドの上に広がる水の染みを、女王は不思議そうに見ていました。
それを見ていたユストはコップに水を注ぎ直すと、今度は自らが女王に水を飲ませることにしました。コップを女王の唇に押し当てると、彼女は素直にひび割れた唇を開きました。
――子供に戻ってしまわれた。ずっとこのままなのだろうか…
その幼子のような様子に、ユストの胸は激しく痛みました。
――少し前まで、この人の周りはいつも春の陽光が溢れていたのに…
ユストは涙を拭いました。目の前に横たわっている女王は強い感情に支配されているのか、細い体を小刻みに震わせていました。ユストは知らぬ間に彼女の手を取って、その指先にキスをしようとしていました。しかし、直前で気付き、キスをする代わりに自分の額に彼女の指を押し当てました。
女王はされるがままになっていましたが、包帯を通してユストの体温が伝わってくると、痛みに顔を顰めました。
「ユスト――」
女王はゆっくりと意識が浮上するのを感じました。
「はい」
ハッとしたユストは顔を挙げると、女王の手を強く握り締めました。
「痛い…」
「申し訳ございません。」
ユストは慌てて掴んでいた手を離しました。
「ユスト…」
女王はもう一度、ユストの名を呼びました。
「お父様たちは殺されました。」
一筋の涙が彼女の頬を伝い落ちました。
前王たちの不自然な死については、もちろんユストも気が付いていました。しかし、ユストの身分では、王たちの検死を行うことは到底、不可能でしたので、女王の帰国を待つしかありませんでした。
しかし、いざ、帰国した女王を目の前にして見ると、あまりの焦燥ぶりに何も言い出せなくなってしまいました。
――ああ、もっと…
ユストは自分の浅慮を悔やみました。
――もっと早く事実を知らせておけば…
そうしていれば、このような結末にはならなかったかもしれません。ユストは王を殺した犯人たちに、改めて強い憤りを感じました。それにしても、犯人はなんと愚かなのでしょうか。このような事が陽の下に暴かれないはずがありません。
女王が正気を取り戻したと確信したユストは、侍女に命じてある男を呼びに行かせましたほどなくして、一人の若い男が書類を手に部屋に入って来ました。
ネタニヤはユストに茶封筒を渡すと、ベッドに横たわる女王をできるだけ見ないように一礼をして、すぐに部屋を出ていきました。忠義の人とはこの人の名で、彼はこれまでにも何度も自分の身を投げうってユストを助けてきました。
ユストは書類にざっと目を通すと、女王に差し出しました。
「ここに王たちの検死を許可する書類があります。どうかご署名を。」
別人のように低い声でした。犯人を捜し出して裁きを受けさせたい気持ちはユストも同じです。ユストは前王と妃が幼い自分に優しく接してくれたことを忘れてはいませんでした。
女王は黙って頷くと、指先の痛みを堪えて書類にサインをしました。
その後、しばらくして痛み止めが効いてきたのか、女王は眠りに落ちました。しかし、薬の効き目は思ったよりも弱く、ニ時間ほどで目を覚ましてしまいました。心の中で荒れ狂う怒りと悲しみが、女王を眠らせておかなかったのです。薬で一時的に抑え込んだ怒りと悲しみが、女王の体の中で出口を求めてのた打ち回っていました。
「うっ…あ、あっ…」
大きな声を出したら人に聞かれてしまいます。かろうじて残っている理性が、女王として立場を思い出させました。
――狂人と思われては困る…
女王は歯を食いしばって叫び出したくなる衝動を抑えました。ユストはすぐに女王の異変に気が付きました。白い紙包みを差し出すと、女王は目で何を訴えながら黙って首を横に振りました。何も言わなかったのは、口を開いたら叫び出しそうだったからです。
聡明な女王はこの地上に、苦しみや悲しみを癒す薬は存在しないと知っていました。どれだけ医学が発達しても、心の痛みを治す薬は人間には創れないでしょう。あるのは人の神経を麻痺させ、思考能力を奪う悪魔の薬だけです。
彼女の苦しむ姿をこれ以上見たくなかったユストは、いっそのこと薬を飲んで楽になってくれたらと思いましたが、黙って薬を引っ込めました。
――強い人だ…
女王の聡明さを、ユストは尊敬の念とある種の悲しみをもって見ました。
「誰も人生の嵐からは逃れることはできない。(No one is exempted from storms of life.)
」
昔、読んだ外国の本の言葉が胸に蘇ります。その本を読んだとき、ユストはまだ十五歳でした。頭では言葉の意味を理解したつもりでしたが、自分は何もわかっていなかったことに気付かされました。今、本物の人生の嵐に翻弄される彼女を目の前にして、ユストは言葉を失っていました。美しく聡明で、何の罪もない女王でさえ人生の嵐を避けて通ることはできませんでした。しかも、その嵐は非情なまでに無慈悲でした。
今回のお話の中に少し触れている「精神安定剤」について、少しお伝えしたいことがあります。あくまでも一個人の意見として、聞いていただければ幸いです。
精神安定剤を飲んだことのない人ほど、精神安定剤に過度の期待を持たれているようですが、精神安定剤は万能の薬はありませんし、薬ですべてを解決することはできません。
精神安定剤は心を治す薬ではなく、神経を麻痺させて、感覚を鈍くし、苦しみを感じ難くする薬です。精神安定剤を飲むと眠気や軽度の麻痺が起こり、頭が動かなくなり、口が回らなくなり、手足が上手く動かせなくなります。お医者さんは薬を飲みながら仕事を続けることは可能とだと言いますし、実際に働いていらっしゃる方も多いと思いますが、思考力が奪われるので、仕事のパフォーマンスはかなり落ちます。私の場合は50~70%ほど、パフォーマンスが落ちました(業種によって異なるとは思いますが)。
脳が働かなくなるので、悩みについて考えることもなくなり、一時的に苦しみから解放されますが、問題が解決したわけではないので、薬が切れて現実に引き戻されると、苦しみも戻ってきます。しかも、薬で判断力が低下している間は、問題を放置し、何かも面倒になって放り出し、無自覚に他人を傷つけているわけですから、現状はさらに悪化しています。そして、さらに泥沼化した現実から逃げるために、薬の量がどんどん増えていく…負のループです。
しかし、薬の効果も人ぞれぞれですし、苦しみの種類も、置かれている状況も異なりますから、精神安定剤を必要としている方を否定するつもりはありません。
ただ、もしもまだ精神安定剤を飲んだことがなく、薬がすべてを解決してくれると期待して飲もうとしている方がいらっしゃいましたら、服用する前に一度、よく考えていただきたいと思います。




