ⅩⅢ.分身
・・・冷たい床にたった独り、ウズメが転がされた侭放ったらかしにされている。
「児屋」
自らもまだ回復していない高御産巣日がゆらりと立ち上がり、ウズメを見つめる天児屋を睨む。
到底感謝などしていない顔だ。息子とよく似たキツネの様な眼を鋭くつり上がらせる。
「・・・タカミムスビ。まだ傷が完全に癒えた訳じゃない。余り動くと
「その魂を高木に引き渡すのだ」
―――・・・ 天児屋は落ち着いた表情で高御産巣日を見、
「―――この子の事かい」
・・・と、己の胸をそっと撫でる。かれの胸の中に居る御霊を高御産巣日は我が子を見る眼で視ていない。
「・・・水子供養はちゃんとしたのかい、この子が死んだ後の」
・・・高御産巣日が質問に疑いの視線で返す。天児屋は溜息を吐き、直立には程遠い高御産巣日の視線まで姿勢を落して諭す様に話した。
「いいかい。君の居たクニには慣習として無かったかも知れないけれど、この子だって、生れる迄は生きていたんだ。天智彦と同じ、ただいざ生れてみたら、棲む世界がすぐに変って仕舞っただけで、君達が産んだ子供には変りないよ。家族とは違う世界に独り離れて棲む分、安心して棲める様に沢山の愛情を注いで棲む土壌を整えてあげる事が
「その必要は無い」
・・・天児屋は胸を押える。高御産巣日の冷たい拒絶に水子の魂が暴れているのだ。水子を解放しない代りに、天児屋は水子の悲しい感情を己の表情で示した。
「黄泉の世界など認める訳にはゆかぬ。現にその魂は負に堕ちて、再三に亘りこの奴国を渾沌に陥れ、禍を引き起してきた。最早魂ではなく、禍の塊である。奴国王である当主が生んだ汚点だ」
神産巣日が、流れる涙を其の侭に、唇を噛み締める。水子の未練が母の方に向いたのを天児屋は感じたが、其でも引き留めた。
「当主の生んだ汚点は、当主が始末をする。
だから、当主に引き渡すのだ、児屋」
―――・・・。天児屋は胸と額に手を当てて、長い吐息をついた。ぶつぶつと小さな独り言めいたものが聞える。
・・・軈て
「・・・・・・君が産んだという事は認めるね?」
天児屋は
「・・・其が強情な君の妥協点かな」
と、呟くと
「君がこの子を汚点と想わなくなる刻まで、私は君の汚点を抱え続けるよ。水子供養も私が引き受けよう」
「・・・如何いう事であるか」
「其の侭の事だよ」
天児屋は高御産巣日に近づくと、魂に触れた。
高御産巣日は眼を見開き、再びその場へ頽れた。
一部始終を目前にしていた神産巣日が
「春日丸!」
と、言霊を叫ぶ。天児屋は大丈夫だよ、八十。と言霊を返した。
「振麿、水子の親である責任を取って貰う為に、君の魂の一部を預るよ。天智彦みたいに穴が開いている訳ではないから生活に支障が出る程にはならない。だから安心して」
「きさ・・・ま・・・」
「春日丸、あの子が望んでいるのでありましょう。あの子をきちんとした形で産んで遣れなかったのは母の責任です。あの子が魂を求めているのであれば、わたくしの魂を―――」
「・・・さすが母親。子供の気持ちがよく解るんだね」
天児屋は眉を寄せた笑みで神産巣日を見る。
風も無いのに、天児屋の髪はふわふわと靡いて、額に印された朱い入墨が垣間見える。
「母の気持ちはよく伝わっているから、そこ迄したくないんだって。
振麿の魂も、彼が恥だと思っている負の部分を私が肩代りするだけで、彼が浄化できれば返すさ。プライド的には嫌だろうけど、振麿だって、その恥をずっと抱えて生きていけるほど強くはない筈だ。今迄散々、水子に振り回されてきたのも、結局君が後ろめたさから力を完全に発揮できなかったんだからね」
「・・・当主がいつあれに振り回された。いつ力を発揮できないと?戯言も大概に・・・っ―――・・・」
「魂を物理的に切り取っているから、エネルギー量としては之迄より当然、少なくなるよ。以前ほどの無理は出来ない。
しっかり自分を振り返って、自分で残りの魂も抱えられる様にするんだね」
―――天児屋は彼等に背を向けると、其以上何も云う事は無く、叉振り返る事無くその場より去る。傍らにウズメが倒れた侭になっているが、まばたき長く、その時はもう彼女を見なかった。
「――――・・・・・・」
自身の社に帰って来た天児屋は、漸く後ろを振り返り、遠くなった高木の邸の方を見る。その表情は、天児屋のもつものの様な、そうではないものの様なものであった。
(ありがとう、カスガマル。―――僕は)
―――己の内面から響いてくる声に、天児屋はぽんぽんと自身の胸を叩く。
〈・・・其は、少しは気が済んだという事かな。振麿からは、云って欲しい言ノ葉を全く引き出せなかった気がするんだけど〉
(いいんだ。―――)
天児屋の表情がちぐはぐになる。片側の頬から、徐々に笑顔を貼りつけたいつもの天児屋らしい表情になる。
片方の目つきのみ最後まで“らしく”はなく、一筋頬を伝わない無感情な涙が直線的に落下した。
「・・・・・・ねぇ」
天児屋は自身の涙腺により散ってゆく涙を静かな眼で見つめ乍ら、訊いた。
「・・・・・・成仏、出来そうかな?」
―――・・・ 内面から響く声は、暫しの間、途切れていた。天児屋は立った侭、ぼんやり刻を過している様に客観的には見て取れた。
只、天児屋の胸の中は、今、3つの魂が綯交ぜになっている。
「――――・・・」
・・・風に吹かれて樹樹の葉が擦れる音のみが客観的には聴こえていた。空が急激に明らんで、緋ではない、柔かい黄色い光が差してくる。
天児屋が両の眼を瞑り、身体全体、景色全体が光に包まれた。
―――樹樹の緑が光を受けて若葉色に輝く。
ぱか・・・と殻の割れる音が樹上に存在するであろう巣より聞え、鳥の雛達が高い声で唄い始めた。
反対に、天児屋の胸中は、平らかになり、異なる魂のざわめきは消え、天児屋自身の魂のみが変らず其処に在った。
天児屋が眼を開くと、天児屋に似た、背丈の小さい童の様な人形が向い合せで立っていた。
「―――初めまして」
天児屋は優しい顔で微笑んだ。
「どうかな。その肉体は」
琉球衣装の様なゆったりとした原色の衣服に身を包まれた、天児屋と比べると少し女性的な顔立ち。
一方で、天児屋はつい先程とさえ異なる、少し精悍な顔立ちへと変化していた。
「んー、やっぱり私のエネルギーが大きいからか私に似てくるなぁ。特に子供の頃の姿に。振麿に見られるとすぐに判って仕舞うね」
天児屋は自身の千早を脱ぎ、自身の分身とも謂える童の頭に其を被せる。
「今後会う気も別に無いからいいよ。其より、この被り物はいいね。貰うよ」
「早速気に入って貰える物があって良かった。程よく風も通すし、日除けにもなっていいだろう。どうぞ、あげる」
之が被衣という名になり後の世に浸透する。
「・・・・・・成仏しなくて、良かったのかい」
天児屋は訊いた。
「この肉体に定着するよりも、成仏する方が遙かに簡単だよ。黄泉に君の居場処はあるし、其処へ往く道も開けた。詰り君は、振麿の答えがああでも気にならなくなった、浄化された魂になったという事だ。此の世に居残る理由も意味も、もう無いんじゃないかと思うんだけど」
肉体を得た水子は、表情筋の遣い方に慣れないのか、元元がそうなのか其とも塑像であるカスガマルの再現なのか、極めて無愛想である。千早が頭から落ちない様にきゅ、っと握る仕種だけが愛らしく。
「僕がいなくて君がいいなら成仏しようかとも思ったけど」
天児屋は瞳を大きくして自身の判型を見つめる。
「・・・・・・君は良い子だなぁ」
眉尻を究極まで下げて笑顔を作った。
「困らせる心算は無かったよ」
水子の言葉に、天児屋は今度は声を上げて笑った。
「視透かされて仕舞うなぁ。やっぱり私の霊力を与えすぎて仕舞ったのかも」
「いいんじゃないかい。何故なら、僕は之からいつだって、君と共に在る。君の与えすぎたという霊力も、僕が君と一緒に在ればいちにんまえだろう。視透かされるのも、僕は君の鏡だから当然。僕は君の心だよ」
「―――・・・違い無いね」
・・・二柱は向い合って、互いの両の指と指を搦める。
こつん、と、額の阿也都古の片割れ同士がくっついた。




