Ⅹ.水子の霊
最初に異変に気がついたのは、加持・祈祷を本職とする高い霊力を持つ神・天児屋であった。身を浄め、まだ水の滴っている髪に布を被って、襦袢一枚を引っ掛けて境内から夕闇を見下ろしていた。
『―――・・・ねぇ、天児屋』
・・・・・・天児屋は思い詰めた様に眉を寄せた。社にはこの地を産土とする御霊以外は入れない筈だが。幾ら霊力を封じて生きているとは謂え、其でも筑紫島随一の憑き物落しを名乗れる程の技量は有している。
―――柔かな風が吹き、水引で結んでいない長い黒髪と白い布が静かに戦ぐ。前髪が靡いて左右に分れ、他者が余り目にする事の無い狭い額には呪いの紅い文様が表れていた。
『筑紫島(この地)を―――私と貴方で―――・・・』
「―――――・・・・・・」
―――天児屋は額に手を当て、忌わしき入墨と悩ましさを象徴する眉を隠した。
と。
ずん
「・・・・・・!?」
対禍用のシェルターと謂える境内に居ても外で何が起きているのかが明瞭と判る程に、莫大な霊力の移動があっている。其を操れる程強く半端無い霊力を有している者を天児屋は地球で一柱しか知らない。
・・・否。もう一柱、気になる神がいた。天児屋自身は高木神等の初宮詣りに参列して以来、その神の成長を全く見届けてはいないが。一度黄泉に通ずる穴を開けられると、強制的に成仏させられた御霊が黄泉から現世へ逆流する経路となり、莫大な霊力が発生する。逆流した御霊の霊力は現世に彷徨う霊に伝えられ、そこで壮絶な肉体争奪戦へと発展するのだ。肉体を争奪される、所謂宿主となる者は段違いに高い霊力を手に入れるが、天児屋が封じている其とは本質的に違う。其は、魂が黄泉から逆流した際の霊力の摩擦、肉体争奪戦の際に他の霊から奪い取った霊力、そして最後の一つとなる迄喰らい尽す力のある御霊の霊力を複合したもので、禍を根源とするものだ。だが何れの霊力を持つ場合も、莫大になり過ぎて仕舞えば結末は似た様なものである。
―――鈴鹿が倒れる。天智彦は妹を手に懸けた腕を必死に抑えるが、身体が全く云う事を利かない。そうある事自体は然して珍しくもないが、ウズメが恋したその中身(御霊)とは明かに違う異物がこの肉体を駆け廻っていた。長く肉体を共にした御霊は其処を追い出され、顔に浮べし表情は本来の持主(天智彦自身)のものとなる。・・・・・・声も出る。感情もはっきり表せる。之迄どこか靄がかり、霊の五感を通じてしか伝わって来なかった感覚が、直接的に頭に響いて意識の覚醒も数倍違った。自由の度合はこちらの方が遙かに大きいのに、苦しみが其を上回る。激しい頭痛と初めて抱くとも謂える恐怖に、天智彦は唇を戦慄かせて其を堪えた。
―――生生しい。
“僕の肉体に変な虫がつかない様に護っていて呉れて、感謝するよ”
・・・・・・耳許で谺するその声に、天智彦は頬を引きつらせる。首から上だけが如何してか動く。反射的に顔を反らした天智彦が視たのは
――――いつぞやの赤ん坊。
完全に朽ち果て、水分を失ったあの時の赤ん坊が、天智彦を迎えに来た
「ーーーーっ!っき、貴様―――」
“アチヒコ”
―――諱を呼ばれ、天智彦の身体は叉硬直す。漸く得た首から上の自由が今は憎らしい。之なら最初から感情も覚醒も無い方が―――
“あいつから、ちゃんと教わったかい?”
嫉妬・劣情・羞恥・恋慕。そして、目の前に横たえる妹に対する“罪悪感”。之迄凡て『史記』を読まされているのと変らぬ只の知識であったのに。
“痛みというものは、痛すぎて感覚が麻痺している状態よりも
痛覚と意識だけ残す形で痛みを加えていく方が何倍も強く、そして永く、感じるんだ”
天智彦の顔から希望が消えてゆく。彼だけでなく鈴鹿の兄か姉でもある筈のその御霊は、兄妹が苦しみ乍ら血で血を洗うこの時を最上級の愉悦として天智彦の成長を俟っていた。
御霊の描いている台本は、高木家の次代の当主となる嫡男が現当主を殺め、筑紫の邸を火の海にして高木の家を断絶させるという結末。天智彦は之から、意識ある侭に操られ、生き血を搾る責め苦と意識がある故に彼に討ち果される家人の表情を心に焼きつけるのだ。
“―――もっとだよ、アチヒコ。もっといろんな表情を見せて、僕を愉しませて呉れなくちゃあ”
「―――・・・何なの―――?」
ウズメがすっかり人気の無くなった夜の畦道を歩いていると、遠くに火の玉の様なものが視えた。視えたのは高木の邸がある方角だ。天智彦と喧嘩した勢いで邸を出て往って仕舞ったが、冷静になってみると可也酷い事を云った気がする。
天智彦は気に留めてもいないかも知れないが、だからといって何でも云っていい訳でもないだろう。彼女は常識的に考えて(と自分に言い訳して)邸へ帰って天智彦に謝る事にした。
その帰る方角に、火の玉が浮んでいるのが視えたのだ。
「―――ひっ!」
ウズメは思わず引きつった悲鳴を上げた。真っ暗闇に唯一つ浮んでいる其はまさしく怪異である。軈てその火の玉は左右に分れて2つ4つと増え、益益その数を増やしてゆく。ウズメの足が竦んでいる内に火の玉は分化を繰り返し、一帯を横並びになって上下を漂う様になる。
「・・・え―――?」
火の玉の一つが集団から逃げる様に、此方に向かって猛スピードで飛び火する。ウズメ目掛けて飛んで来た其は彼女が騒ぎ立てる間も無くその肉体を貫き、発光する火の明りを漏らす事無くじわじわと体内へ浸透していった。
「!?」
ウズメは何が起きたのかすぐには理解できなかったが、急に目の前が暗転し、その場にすとんと頽れて仕舞う。いつぞや、己の意識が途切れたあの日と似た靄がかった感覚と反響する言語に、彼女は頭を押え、眼を大きく見開いた。
「何ですって―――・・・?」




