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青い檻

作者: くろがね潤


「腹減ったなぁ」


いつもの昼下がりの教室。

日常という前提を背に受けながらいつもの言葉を放った。


それは会話のはじめの言葉というにはあまりにもぶっきらぼうで、自身の感覚としても限りなく独り言に近い。

誰かに答えて欲しいわけでもなく、ましてや共感を求めたわけでもない。


例えるのなら、捨てられるために作られる小学生の紙飛行機のようなもの。


だからこそ、


「はーん、そうかそうか。だったら僕が美味しいものでも持ってきてあげようか?」


その言葉を聞いたとき、俺は全身の毛が逆立つ思いをした。


これまでの中で最大級の警戒をしながら振り返る。


すると、そこに立っていたのは奇妙な男だった。



身長は180はあるだろうか。

普通ならここまで大きいと威圧感のようなものを感じるのだが、そのだらしなく野暮ったい服装と雰囲気のせいか、全く感じない。

それでいて、ただのダメ人間と割り切るのは躊躇われる、底知れない何かがあるように錯覚してしまう、そんな人物だった。



と言っても俺からすればこの男は100:0で不審者であり、当たり前ではあるが信用に足る人間ではない。

こう思うのは俺が俺であるからという理由もあるのだが、俺じゃなくてもきっとこいつを信頼することはないだろう。


「お前誰だよ」


なるべくトゲをつけた。

俺がお前のことをよく思っていないんだと確実に知らせるために。

怪しい人物に親切にしてやれるほど出来た人間ではない。


「いやいや、参ったなあ、君とは友達のつもりだったんだけど。

もしかして、いつか君に迷惑をかけちゃっていたかな?」


あやすような口調が、年上が子供と会話している様子を想起させ、腹立たしさを覚える。

まあ実際この男は見たところ40ぐらいのおっさんで、俺より年上ではあるんだけど。


「別に」


こいつと会話をする気はない。

出来ることならこいつに去って欲しいんだけど、それよりも自分が去る方が上手くいくだろう。


窓から教室の中へと溢れてくる木漏れ日が気持ちよく、少しうとうとし始めていたところでもあったので、この場所を一時的にでも失うのは不本意だが、背に腹はかえられない。


今すぐにでも場所を変えよう。ここでは無駄に心をすりきらせることになりそうだ。


だいたいなんなんだこの男。

僕のことを視るなよ。


「おいおい、待ってくれよ。怒らせちゃったなら謝るからさ」


立ち去る俺の背中にそんな言葉を投げかけてきたが、俺は止まることなく歩き続けた。


さて、どこに移動しようか。お気に入りの場所は失ったのでもう一つのお気に入りの場所である屋上にでも行こうか。

まあ、選択肢ははなっから2つしかないんだけど。



扉を開けた瞬間に外から吹き込んだ春の風が俺の髪を揺らし、心にかかった黒い靄を一つ一つ拾うように攫っていった。


「風が気持ちいいな」


外はこんなにも清々しいのか。

大きく息を吸うと、体の中に透き通る命を宿した気分になった。


「だよなあ。季節の新鮮な風は良いもんだ」


嫌な声が耳に届いた。

振り返って確認するまでもない。思わずため息が漏れる。

なんの目的があって俺に話しかけてくるのか。

とにかく、奴が俺と話したいと思っているのなら、無視することによってあいつの目的を失敗させてやろう。


奴の言葉に少しの反応を示すことなく、俺は屋上の真ん中へと足を進めた。


「何が怖いんだい?」


そのとき、突風が俺たちを包んだ。春の嵐というやつだろうか。

屋上はよく風が吹く。


「......君の夢はなんだい?」


屋上を囲む銀色のフェンス。その向こうには俺の町が見えた。

今は届かない俺の町。


「......友達とご飯を食べなくて良いのかい?

昼休みはもうすぐーーー」


「友達なんかいない。誰も彼もいなくなってしまった」


答えてやったのだからもう俺には話しかけるな。

そう願ったのにそれを言葉にしなかったのはなぜだろう。


「......1人を選んだんだね」


「違う。みんながいなくなった。町も無くなった」


この町はある日を境に空っぽになった。

蝋燭の火をふっと吹き消すように、長く続く糸をぷつっと切るように。


「誰の声も響かない。誰の姿もない。何もない。何もかも消えてしまったんだ」


「はーん、まるで突然この町で天変地異が起きたかのように、かい?」


その通りだ。気がついたときは何もなかった。


柔らかな日差しが髪を撫でた。

男の問いかけには答えず、仰向けになって寝転がる。


どこまでも続く青空。この空の下はあまりにも広すぎる。

俺1人で生きるにはあまりにも大きすぎる。


寂しさがないといえば嘘になるが、今更だろう。


「君を襲った災害について興味はないかい?」


男が俺の顔を覗き込むようにして話しかけてきた。

だが、その位置は邪魔だ。空が見えない。


怪訝な顔から察したのか、

「おっと、悪かったね。じゃあ、お隣失礼するよ」

と、厚かましく無遠慮にもその男は俺の隣で仰向けになった。


ただでさえ偉そうなのに、自分の手を枕にし足を組んでいるぶん、その男はさらに偉そうだ。


「良い空だ。胸の中に突き刺さるような爽やかな美しさだね」


何だかよくわからない例えをする。


「そう、例えるならペパーミント、と言ったところかな」


「意味がわかんねえよ」


なるべく不快感を込めたつもりだったのだけれど、自分でも驚くくらい普通の声が出た。


そうだ、俺は長いこと人と会話をしていないんだ。

多少のコミュニケーションミスがあったって仕方ないだろう。


「空は大きいよね。まるで人間みたいだ」


だったら練習がてらに言葉を交わしたって構わないかもしれない。

この町にいる限り、こんな機会は訪れないのだから。


「人と空とじゃどう背伸びしたって敵うはずがないだろ」


見上げればいつだってそこにあるのだ。

何人繋がったって空の大きさには届かない。

だというのに、


「かもしれないねえ。

空じゃ人の相手は務まらないか」


ちらりと横目で男を見ると、男は空の一点を見つめたまま不敵に笑っていた。


「馬鹿にしてるのか?」


「馬鹿にはしてないよ。馬鹿だと思ってるだけさ」


いちいち感に触る男だ。口を聞くべきじゃなかった。


「空が無限に広がっていると思ったら大間違いだよ。空には限りがある。

だけど、その一方で人間には限りがない」


「......大きさの話をしてたんじゃないのかよ」


「大きさの話をしているよ」


頭が痛くなってきた。久しぶりの会話だからだろうか。

いや、こいつの頭がおかしいからだろう。


「空の大きさなんかよりも人間の可能性の方がよっぽど大きい。

それはどうしてか分かるかい?」


「ちょっと待てよ。

お前、最初に空が人間みたいって言ったじゃないか」


「浅い浅い例えさ。それで僕の質問には答えてくれないのかい?」


納得のいく返事ではなかったが、どうでもいいや。


力強い春風に乗って、桜の花びらがこの屋上にまでちらりちらりと舞い上がっている。


鮮やかな季節の色。寒さで凍える心に暖かな火を灯す。


「分からない。人をそんなに広大だと思わない」


「そうかそうか。それもまあ仕方ないね。

この質問は君には難しかったかもしれないねえ」


「だったら何だよ。言ってみろよ」


偉そうにベラベラと喋りやがって。


「人は何でも出来るんだ。人には星の数ほどの意味がある」


そんなことはありえない。


僕は空を飛ぶこともできなければ、水中で暮らすこともできない。


人には何もできない。出来ないことばかりで嫌になる。


「人間なんて無力だろ。お前の方が馬鹿なんじゃねえの」


「ふーん、人間が無力ねえ」


この男はまるで俺を諭すかのように優しく芯のある声で問いかけてきた。


「じゃあ、どう無力なんだい?

何が出来ないんだい?」


「それは......」


出来ないこと。人に出来ないこと。

頭がひどく痛む。吐き気もする。すごく気分が悪い。

それでも考えた。人に出来ないこと、それは、


「夢を叶えることが出来ない。会話すらできない。

触れ合うこともできない」


出来ない、何も出来ない。もう出来ないんだ。

人にはもう出来ない。


だけどなぜか、目の前がどんどん明るくなっていく。


モノクロの空に微かな色が浮き上がる。


「笑い合うこともできない。愛し合うこともできない」


どうしてだろう、胸の奥がすごく苦しい。

なのに、空は想像を絶するほどに綺麗だ。


「一人だ。たった一人なんだ」


片方の手を天へと掲げる。


指と指の隙間、腕、手のひら、爪、動脈を風が通り過ぎていく。

流れる線が形を作り、僕を組み立てる。


肌が風に触れる。通り過ぎる直前に一瞬戸惑う。

それが僕を作る。


「おっと、君は何か勘違いをしてやいないかい?」


ふと、男の顔を見ると、そいつは僕の方を見ながらニヤニヤと笑っていた。


「それは人に出来ないことじゃないだろう?」


そして、


「君は君に出来ないことがよく分かってるようだね」


遠い空を見た。


そうか、ああ、そうだった。出来ないのは人じゃなくて僕なんだ。


暖かな風に包まれて、胸の痛みも酷い頭痛も全てが消え去った。


「......この町は元気?」


「ああ、元気さ。山下くんはIT企業に就職したし、里美ちゃんの息子さんは次の春から中学生になるんだとさ」


懐かしい

懐かしい香りが僕の体をいっぱいに満たした。

電撃のような痺れが走り、目の前の靄を焼き払っていく。


共に夢を語った。暇な時間も過ごした。小さなことで笑った。


氷のようだったはずの心が、暖かく僕を照らしてくれているのを感じる。


共に弁当を食べた。将来の展望を立てた。夜空を見上げた。


乙女座を見た。


「......そうだな。みんな前に進んだのか」


公務員になると言い張ったあいつも、ロックミュージシャンになると誓ったあいつも進んだ。

いつも忘れ物をして怒られたあいつも、なかなか学校に来なかったあいつも進んだ。

東京の大学を目指していた賢いあいつも、生徒会長を務めていたあいつも進んだ。

部活漬けで年中真っ黒だったあいつも進んだし、毎朝おはようございますの放送をしていたあいつも進んだ。


みんな進み、止まらない。

止まることなく進んでいたし、進んでいるし、進んでいく。


止まったのは、


「君だけじゃない」


はっとして顔を上げた。

俺だけじゃないだと?


「吉田さんは5年前の冬。権田くんはつい先日」


そっか......。


「二人は?」


「進んだよ二人とも。それぞれ思うところはあっただろうけど、進んで行ったよ」


「......執着はなかったのか?」


「いや、そんなことはない。だけど、もう一度進むことを選んだんだ」


何もかもを捨ててなお。

この手に刻んだ無数のシワをまっさらな平原にしてもなお。


「......お前は?」


「僕かい?僕はここの教師だ。教師になったんだよ」


そして、ふっと笑った。優しい笑顔だった。

優しくて穏やかで懐かしくて。


「そっか。お前も進んでたんだな」


今年も桜が咲いた。

それは僕の記憶の中の桜とは全然違ったんだけど、それでも綺麗だった。



暦に春がやって来るころ、桜はその身を儚く散らす。

それでもその身に蕾を宿し、次の春には花開く。

止めどなく続く季節の風に、為されるままに吹かれてみよう。


にしても、


夕焼けに包まれた屋上。


彼はもういない。

彼は何でもない話をしたあと、屋上を去って行った。

それは彼なりの気遣いだったのかもしれない。



その優しさが、その温もりが、久しぶりで涙がこぼれた。


もうずっと乾いていたこの目に豊かな感触が集う。


怖い。そりゃあ怖い。


何も分からない未来は、先の見えない暗闇のようだ。


そんな時に思い出したのはもう何十年も前の昼休みのこと。


一人の友達はこう言った。

未来が怖いのは今が幸せな証拠だ。今を幸せに生きている人間が未来を幸せに生きられない道理はない、と。


懐かしい言葉だ。


そんなこと言い切れるもんか、と言うと、彼はただ笑って、

暗いなら自分が照らせばいい。暗い奴は真っ暗な未来で一体どうやって足元を見るんだい?眩しく照らせばいいのさ。例えるなら蛍光ピンクと言ったところかな。


結局、それに納得するまでに長い時間をかけてしまった。

取り返しがつかない程の時が流れ、町は変わってしまったみたいだ。


変わらないのは俺だけで、足踏みしているのも俺だけで。


でも、それは別に理由じゃない。


人の可能性を知り、人の大きさを聞き、興味が湧いたのだ。


こんなに力強い夕日を見たのは初めてかもしれない。


俺は今、呼吸をしている。

泣きながら、息をしている。


名残惜しさはあるけれど、それすら僕を押してくれた。


卒業に別れは付き物なんだ。

だったら風に吹かれてみよう。



そして、屋上は本当の意味で静寂をむかえた。



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