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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

標本

作者: 水乃蒼




私が彼を初めて見た時、とても美しく優しい人だなと思った。襲わかけていた私を助けてくれて、次は気をつけるんだよと微笑んでくれた。

私は始めて恋をした、彼に。そんな私は今彼の目の前にいる。


襲われそうだった私を助けた後、名も名乗らずに去って行った彼を私は必死で探していた。そしてようやく見つけだした。

彼は本屋で立ち読みをしていた。なんだか専門的で難しそうな本だ、それにやけに分厚い。私は頭が悪いので何を読んでいるのか分からなかったけど、ページの中の絵が鮮やかで色とりどりに塗られているのが分かった。

小さな心臓が高鳴っていくのが感じる。どうやって彼に声をかけるか悩んだ。急に現れて礼を言われてもびっくりするだろうし…。

「でも、今しかない」

一歩一歩彼に近づいてみた。しかしもたもたしているうちに彼は本棚に本をなおそうとしていた、しかし彼の手元が狂い、重い音を立てて床に落ちる。私は何も考えず真っ先に体が動いていた。素早く本を拾い頭を上げた時私の眼と彼の瞳が重なる。

真っ黒な瞳が私を見つめた。吸い込まれそうになる程に。

キョトンとした顔だった彼の顔が緩み、優しく微笑んだ。私の手が汗ばんでいく。

「ありがとう。拾ってくれて」

短い髪が揺れ、白い腕が私の手元に伸びてくる。

「い…いいえ…」

緊張してそれしか口に出来なかった、本を渡した後も何も言えず固まる。そんな事になっているうちに、彼は本を戻し終わりその場を去ってしまいそうになる。

頑張れ…。言うんだ。

「あのっ!」

決死の覚悟で彼を呼び止めてみた。そして事情を話した。彼は嫌な顔一つせずに最後まで話を聞いてくれた。

「君みたいな美しい人、助けたかな?」

「あ…覚えてないかもしれないです」

「そっか、でもありがとう。お礼を言うためにわざわざ探してくれたの?大変だったよね」

私はそんな事ないですと、抑えきれない笑顔で言った。

勇気を出して話しかけた事がきっかけで私は彼と頻繁に会うようになり、私の知らない所を沢山案内してくれた。

湖のある公園や、いろいろな本が置いてある図書館。私が一番お気に入りだったのは満開の花畑。甘い匂いが立ち込め、どこを歩いても美しい花に囲まれた世界に魅了された。逆に苦手だったのは博物館。特に昆虫博物館だと、気持ち悪い虫の標本がそこらじゅうにあって怯えていた。蜘蛛や百足がいて背中がゾクゾクしていた。でも彼はどこに行っても楽しそうで笑顔だった。そういえば地面に裏返っていた黄金虫を助けていた。優しいねと言ったら、僕は虫が好きなんだと言っていた。

優しい彼は私が雨に濡れた時もタオルで髪を拭いてくれたり、家に遊びに行った時はスミレの蜂蜜が入った紅茶をいつも淹れてくれた。始めて手を繋いだ時、私は手汗が凄かったと思うのに、彼は何も言言わずにずっと手を繋いでてくれた。むしろ繋いだ後の手を見つめて微笑んでいたから、どうしたのと声をかけると、嬉しくてついと照れ笑いをしていた。私は顔がとても熱くなって、心臓が早くなっていた。

彼と一緒になってから随分経つのに今だに胸が苦しくなって触れていたくなる。でも、私は彼に一つ黙っている事がある。それを伝えなければいけない。


彼の家には何回か来ているのだけれど、今だに落ち着かないでいる。何故かは分からないけれどそわそわしてしまう。まだ緊張しているのかなと思い、少し可笑しくなった。

リビングは広く、他にも部屋が幾つかあるらしいけれど、一箇所だけ私が入ってはいけない部屋があった。コレクションしている物で溢れかえっているらしく、片付けるまでは恥ずかしいから見ないでほしいと言われている。しっかりしている彼でもそんな一面がある事を知り、とても可愛いと思った。

ソファに腰掛けていた私の隣に彼も腰を下ろし一息をつく。私は意を決して震える手を握り、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせる。

そして–––。

「私ね、あなたに伝えないといけない事があるの」

何時もと違う重い雰囲気に彼の顔が不安に曇る。

「私…実はあなたと会うのは本屋が初めてじゃないの。私…前にあなたが蜘蛛の巣から助けてくれた蝶なの」

そして背中から服を突き破って真っ白い翅を生やして見せた。

「人間のふりして騙してごめんなさい」

恐る恐る彼を見るのと同時に、彼は言葉を発した。

「なんとなくそうかなって思ってた。とても嬉しいよ」

「えっ、気づいてたの?」

その言葉に私は驚かされてしまった。

「思う所はあったよ。雨に打たれた時君の髪が全くと言っていいほど濡れてなかったから、よく見てみると細かな粉が水を弾いていたし、手を繋いだ後いつも僕の手に細かい粉が付着していた。あれって鱗粉だったんだね。それに君には人間離れした魅力があって、こんなに美しい人が本当に人間なのかなって思ってた」

今までの緊張がほぐれて、安堵と喜びが込み上げた。一人で悩んでいたのが馬鹿みたいに思えた。いくら虫が好きだとしても、私を受け入れてくれるなんて思ってもみなかったからだ。

「でも、嫌じゃないの?」

「言ってなかったかな、僕が一番好きなのは蝶なんだよ」

その言葉は私にとってあまりに幸せだった。この人に出会えて良かった。あの時諦めずに声をかけて良かった。こんなに一度に多くの幸せが訪れていいのだろうか。思わず彼の胸板に肩を寄せた。

「本当に綺麗だね。その翅をよく見せて?」

そう言うと私の腰に腕を回して引き寄せてきた。呼吸するように動いている翅を見つめる。

「本物だ…翅は脆いから触れないでおくね」

かわりに彼の手は頬に触れた。体がびくりと跳ねる。

「真っ白で美しい翅だね…今日着ている白いワンピースも合わせてくれたの?」

触られた頬を染めながらこくりと頷いた。

「そうだ…秘密を打ち明けてくれたんだから、僕も君に見せてなかった秘密の部屋を紹介するね。やっと片付いて色々設備も整ったんだよ」

そうなんだと言った私の手を引いて、リビングの奥にある部屋に連れて行ってくれた。目を瞑るように言った彼に従って軽く眼を合わせた。ドアの開く音がし、中から流れ出た冷気が肌を撫でる。

何だろう。変な匂いがする…。

「目を閉じたままここの上に寝転んで」

私の膝下に段差があるのが分かり、手をつきながら硬い板の上に登る。

「ねぇ、これ何?」

彼は何も答えずに寝転んだ私の左手の指に指を絡めてきた。鼓動が早くなる。何が始まるんだろう。もしかして始めてくちづけをしてくれるのかな。でも、急に?

暫くして彼の吐息が耳にかかるのを感じ、体が熱くなっていく。もう彼の顔は目の前、少しの期待と不安を持ちながら待っていると、突然足元に鋭い痛みが走った。

何が起こったのか分からず、眼を開け視線を下にやると。右太腿に大きな針が突き刺さっている。赤い液体が内太腿に流れ出すのが見え、刺さっている、血が出ている事を認識した途端激痛が体を蝕んだ。彼は今も優しく微笑んでいる。

「何…これ」

「大変だったんだよ、この大きい展翅板や君を貫くほどの長い針を揃えるのに。時間がかかったから君が感づいて逃げてしまわないか心配だったんだ」

そう言うと今度は針を右の翅と左下の翅に突き刺してくる。白い翅が動かなくなり、鱗粉が舞って光をまばらに反射した。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ」

眼に映る光景に絶叫するしかなかった。

「僕は独学だけど乾燥標本に関する知識を身につけておいたんだ、いつか役に立つように。君が蝶だと確信した時体が震えたよ…必ず君を僕のものにすると」

今見ている彼は別人だった。いつもの笑顔は狂気に変わり果てていた。怖い、逃げなければ。

必死にもがいて腕をバタつかせる私に彼は容赦なく針を突き立てくる。

「駄目だよ、逃げるなんて」

右手首から肉が潰れる音がして、鮮血が噴き出る。痛みが脳をぐちゃぐちゃにかき乱してきた。

「やめて…助けて…」

神経が麻痺して力が出なくなる。

「本当に君は美しい、永遠に僕のものだよ。そのままの君を箱の中に閉じ込めて綺麗な標本にしてあげる。ずっと愛することが出来る。大丈夫だよ、僕に任せて…」

朦朧とする意識の中私は昆虫博物館の出来事を思い出した。彼が一際長く眺めていたあの横顔を。蝶の標本を観て爛々と輝く黒い瞳を。

彼ははさみを取り出して、私の着ている白いワンピースを胸元からスカートの裾まで切り離しはさみを投げ捨てると、首筋から胸元を滑るように撫でつけた。恍惚とした表情の彼は最後の針を手に取ると、力なく動く前胸の中央に思い切り突き刺した。白い胸に短い血飛沫が上がる。痛い、いたい、イタイと涙が零れる。

「君もそのままの僕を愛してくれるよね」

彼の唇が私の唇に近づく。

初めて愛した人とのくちづけが、こんなくちづけになるなんて、思わなかったのに。


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