元、勇者。
――むせ返るような、嫌な夏の雨の匂いがする。湿度が上がり、ただ不快にさせるだけの、あの独特な匂いが。
「何、やってんだろうな、俺」
毎日毎日、今と同じように家と現場の往復。非正規の中年フリーター生活で、心と体が乾いていくのを感じる。
そんな俺が二十年前に異世界で魔神を倒しただなんて、一体誰が信じるだろうか。
俺もあの時の記憶は曖昧で、元の世界に帰還したと同時に力の多くは失って、今はこのザマだ。
「……なんだ?」
前方で鐘音付きのサイレン音を鳴らしながら、複数台の消防車が俺の住むアパートの方角へと走っていく。
誰だか知らんが、こんな雨の日に火事とは災難なことだ。そう、他人事のように考えていた時。
――ボンッ!!という爆発音と共に、自宅の側にあるマンションの5階から、大きな火の手が上がった。
「マジかよ……」
慌ててアパートの前まで戻ると、マンションから上がった火は更に勢いを増していた。屋上や他の階にも取り残された人が居るようで、必死に助けを求めている。
消防隊員が懸命な消火活動を続けているが、このままだと不味いだろう。
「クソっ、どうする……?」
今の俺が飛び込んでも無駄死にするだけかもしれない。それに、他人の為にそこまでする熱意はもう、俺には……。
「誰か! 誰か助けてください! 私の子供が、まだあそこに!」
異世界でも嫌という程に聞いた、誰かが助けを求める声。
「誰か! 誰か!」
……俺には、無理だ。
「奥さん危険です! 離れて下さい!」
「お願いっ、行かせてください!」
……この頬を伝う雨は、悔しいから流れるのか。
「危ない!! また爆発……が? おいっ!? 今、爆発が止まらなかったか!?」
今のは、まさか……。
「――行かないの? 本当、ヘタレになったわね」
「プっ。彼女の今の言葉を翻訳するとですね、エ~ン、20年間、待たせてごめんね。やっとこっちに来れたの寂しかったわ。と言っております」
「ちょっ!? 貴女こそ泣いてたでしょう!?」
「アーアー! 聞こえませんねー!」
「ワハハハ! ようボウズ、すっかり老けたなあ! これを片付けたら、ボウズの家で飲もうや!」
……この頬を伝う雨は、嬉しいから熱いのか。
「で、どうするの? 行くの? 行かないのって、もう行っちゃったか。……お帰り、私の勇者」