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仁平の嫁

 仁平親子三人は月明かりの道を歩いておった。

 月に追われるように歩いて、気がつけばもう丸池のそばまで来ておる。


「なあ、カガミ。さっきの御坊様の言葉はまことなんだべか。元の姿に戻るとその……」

「はい。元の姿に戻れば、今の体は消えるでしょう。魂そのものが変じて、あたしがカガミであったしるしは無くなります。そうなればもう、言葉も交わせません。泣くも笑うもない、心を分かち合うこともない。その姿はあなたさまの目には異形のものとして映ることでしょう」

「だったら」


 歩みを止めてカガミの両の肩を抱く。


「だったら、このまま逃げるしかないべ。振り返らずに村を出よう。おまえさんの元の姿のことも、あの御坊様のことも、すっかり忘れてまたどこかでやりなおそう。どこか、遠いどこかで」


 消え入りそうな顔をしていたカガミが、必死な仁平の顔を見つめてそっと微笑んだ。


「あなたさま。あなたさまは本当にお優しい。無欲で、一途で」


 肩にかかった仁平の手を柔らかく両の手で包み、ぬくもりをかわし合う。


「どこか、遠いどこかで。ああ、それができたら、どれほど幸せでありましょう。ですが、あの御坊様、いえあたくしが討ち漏らしたあの地蟲はいつか必ずその遠い地にもやってきます。追わぬ、などという言葉は戯言。あれは、やはり人の子の世にあってはならぬものなのです。あなたさまの御顔をみて決心がつきました」

「カガミ……」

「母ちゃん、いってしまうの」


 何かを感じたのだろう、それまで黙っていたタマが声を上げる。


「タマ。おまえは母の代わりに御父様を、村の人々を護らなければなりません。ですからこれを」


 帯の間から因縁の黒い刃の短刀を取り出す。


「化生したとはいえ、おまえの半身はあたくしの血を繋いでいます。使い方はおまえの体が教えてくれることでしょう」


 神妙な面持ちで受け取る短刀は、まだ十のタマには重そうに見える。それでもしっかりと柄を握り締めるとわかった、と威勢良く答えるのじゃった。


「カガミ、カガミ」


 仁平はといえばおろおろした風で嫁の名を呼ぶばかり。


「カガミ、ならば御坊様がいっていた精力、わしの精力とやらを使え。何かの手助けになるならわしの力なぞ全て持っていけ」


 カガミは微笑みながら首を横にふる。


「あなたさま。本当に今までありがとうございました。人の身の温かさ、分かち合う心、たとえこの身が異形に転生し、魂が変わろうとも決して忘れません。……さあ、残念ですが、いよいよその時が来たようでございます」


 振り返ると、尋常でない速さで道を駆けてくる松明の一団があった。

 それはもはや人とも思えぬ異形、白い人型をした何かであった。額とおぼしき場所には大きな角が生えている。長い片手にはあかあかと燃える松明。片手には何か禍々しい得物。顔にはぽっかりと黒い穴が開いていた。そして、異形の群れの中心には、あの僧形の男の姿が。


「ははは。まだこんなところにおったか! よほどの因縁であろうな、この池でそなたを討ち果たすことができようとは」


 迫る異形の群れ。

 カガミは夫と娘に一礼すると、丸池の水面にひらりと飛び込んだ。


「カガミ!」


 あがる水しぶきにおもわず声を発した仁平を、タマの小さな手がつかむ。


「父ちゃん、ここは危ない、わしと一緒に池の向こうへ! 父ちゃんはわしが護るから」


 殊勝なことを叫ぶタマじゃったが、引かれて走る仁平はもう涙やら鼻水やらでけっこうな形相になっておる。

 丸池のほとりまでやってきた僧形の男はもう楽しくてたまらぬ様じゃった。水面の底へ向かって雄叫びを上げる。


「いざ、再び相見えようぞ! やせ衰えたそなたと、精気を得て満ちた余と。どちらが勝つかのう。覚悟せい、こたびは前のようにはいかぬぞ」


 叫ぶと、男の頭が大きく膨らみ内側から裂けた。

 白い、ざらざらしたものが、液体とも粒状ともつかぬ何かが裂け目から溢れ出る。

 溢れたものはどんどん膨れ上がって男の体を飲み込むと、やがて大きな大きなうねる蛇ともつかぬ姿をなした。

 やしろの大木よりも太く、長く。不気味にうねるそれは、頭ともつかぬ頭を持ち上げ、角ともつかぬ角を振り回し、声ともつかぬ声を月の夜空に高く吼えあげた。


「ひゃあ」


 たまらず仁平は尻餅をついた。あまりの光景に魂も消し飛ぶ心地じゃったが、寄り添うタマが今はどういうわけか頼もしく感じられる。見れば、タマのかざす短刀がまばゆい輝きを発しておった。輝きが放つぬくもりが、仁平の心を狂気の咆哮から護っておるのじゃった。


 池の底から答えるように、大きな輝くものが上がってきた。

 水面を割って姿を現したものは、蛇であろうか、龍であろうか。およそ、そのどちらでもなかった。なかったが、仁平の目にはその姿が虹色に輝く龍として映るのじゃった。

 さんざめく螺鈿らでんの輝きに包まれ、頭と呼ぶほかない頭をもたげ、顎としか呼ぶほかない顎をカッと開き、声と呼ぶほかない声を深い闇に轟かせた。


 轟きを叩きつけられた白い地蟲が震える。周囲の白い小さな人型の異形たちが吹き飛ばされ、舞い散る松明もろとも転げていく。


「カ、カガミか」


 思わず発した名前にこたえるはずもない。龍と化したカガミ、それはまさしく異形じゃった。虹色に輝く光が、言葉にこたえる波のように異形の体表面を走る。頭に聳える角が途方もない高音でむせび泣くように振動する。

 気圧けおされた白い地蟲があらためて構え、魂の凍るうなり声を上げた。


 対峙する巨大な異形と異形。

 ざらつく白と輝く螺鈿。

 大蛇でも龍でもないものたちは、互いにぶつかり合い、絡み合うと地響きをたてて恐ろしい戦いを始めた。

 角ともつかぬ角を突き刺し、牙と呼ぶほかない牙を突きたて、互いを締め上げ、削りあう一対の巨獣。飛び散るしぶきは血か汗か。


 いつの間にか転げていった白い人型達が舞い戻っており、巨獣達を囲んでてんでに面妖な踊りを踊っておる。囃したてておるのか、はたまた鼓舞しておるのか、異形ならざる者の目には判然としない。

 それでも心なしか地蟲の勢いが増したように見えた。ざらついた白を膨らませ、喜びなのか痛みなのか、そのおぞましい体を大きく蠕動させている。

 巨大な角をひときわ高く振り上げ、狂気の闇からこぼれでる絶叫を放つ。

 雲もない夜空に稲光が走り、虹色の巨体を撃った。


「ああっ」


 仁平はつい声をあげてしまうが、何ができるでもない。

 いてもたってもいられなかった。身をすくませる本能的恐怖にあらがって、なんとか近づこうとする仁平をタマがとどめる。


「父ちゃん、まだ、まだ待たないと」

「まだって、そんなことがわかるのかタマ」


 娘はしっかりとうなずいた。


「父ちゃん、合図したらわしを抱えてあの地蟲のもとまで走って。それまではまだ待たねえと」


 娘が何を知っているのか、仁平にはまるでおよびもつかなかった。ただ、今はもうそれにすがるしかない。


 親子の向こうでは死闘が続く。

 見る者の正気を揺るがす光景はどれほど続いたじゃろうか。

 ついに振り回される白色の角が、虹色の角をへし折った。

 折れた角は、湯に落ちた雪片を思わせる儚さで地に着くこともないうちに宙に消え去った。

 地蟲は白い巨大な異形の体を震わせて、それが凱歌のつもりか吐き気を催す口ともつかぬ口を大きく開き、音にはならぬ音を咆哮する。


「今じゃ、父ちゃん」


 タマの合図に、仁平はタマを抱えたまま二人一丸となって飛び出す。

 親子は裂帛の雄叫びをあげて走った。踊り狂う白い人型の間をかいくぐり、轟く咆哮の下を恐れを知らぬイノシシの如く突っ走った。

 駆け抜ける勢いのまま巨獣の体に体当たりするのと、タマの輝く短刀が突き立てられたのは同時であった。


 なんの抵抗も無く、まるで深い池に投げられた石のように短刀は白い異形の体に飲み込まれ奥へと沈んでいく。その動きは刺さったというより、導かれて吸い込まれていったというほうが近かったじゃろう。

 吸い込まれていった次の瞬間、白い巨獣の動きがぴたりと止まった。

 と、大木が裂けるような、巨石が砕けるような轟音が響き渡る。

 仁平達の頭上では、虹色に輝く顎が白色の首を喰いちぎっておった。


 時がその歩みを忘れたのか、はたまたおののきから進みを控えたのか、音も無く緩やかに大きな白い首は落ちていく。

 ついで首ともつかぬその首を失った地蟲の体がゆっくりと崩れていった。ざらついたその白い色すら失いながら、春風に吹き散らかされる灰の如く散っていく。

 踊り狂っていた白い人型達も、操り糸が切れたかのように次々と倒れていった。

 先ほどまでの吹きすさぶまでの轟音は消え去っている。

 静寂に満たされた空を見れば、いつのまにか暗い夜は明けようとしていた。

 白みはじめた空を背にして、角を失った虹色に輝く異形が、いや龍と化したカガミが、仁平とタマを見下ろす。だがもはや、言葉を交わすこともできない。眼と呼ぶほかない眼を覗き込んだところで、その向こう側に何かをみつけることはできないのじゃった。

 変貌してしまった嫁を前に、仁平はそれでも声を掛けずにはいられなかった。


「ついに倒したか、がんばったな。……なあカガミ、わしはおまえさんと出会えて本当に良かった。あの嵐の晩から今まで、いやこれからもずっとだ。おまえさんはわしのかけがえのない嫁じゃ。仁平の嫁じゃ。それだけは誰にだって変えられねえ」


 言葉が返ってくるでもない。それでもこれが今生の別れであることは、仁平にもわかった。

 涙は出なかった。さびしさを含んだ笑顔であっても、笑顔で送りたかったのじゃろう。

 大事なときじゃというのに、仁平に抱えられたタマはのんきに寝息をたてておった。


「タマはわしがしっかり育てる。なに、もうこいつも十だ。すぐにおまえさんのような器量良しの娘に育つ。心配するな」


 通じているのかいないのか、しかとはわからぬけれども、そこまで聞くとカガミは頭をもたげて空を見上げた。するとその頭上に大きな光る玉が現れる。いかなる仕掛けかからくりか、光る玉にするするとその巨体が吸い込まれていき、ついには全て飲み込まれてしまった。

 そして明るみ始めた空に舞い上がり、光る玉はみるみるうちに流星になって遥か北の空へと消えてしまった。

 あとには仁平とタマが残された。

 遠くでは夜明けを告げながら林を渡ってゆくカラスの声。

 カガミが消えた北の空には、北斗の星達がまだまたたいている。


「いつかまた。……なあ、そうだべ、カガミ」


 つぶやくと、大きな溜息をついて仁平は茂った草の間に腰を下ろし、気を失うように眠り込んでしまった。



 ふたたび気がついたのは、だいぶ陽が上った時分じゃった。


「父ちゃん、父ちゃん」


 揺り起こすタマの声で目を覚まし、はっ、と起き上がる。


「ああ、父ちゃん、良かった。見て、みんなも元に戻ったみたいだ」

「みんなとはなんのことじゃ」


 間の抜けた顔で娘を見る仁平の視界に、よろよろと立ち上がる男の姿が入る。


「うーん。なんでわしはこんなところで寝てるんだべか」


 立ち上がった弥一が首を傾げていた。

 もしやと思って仁平が首を巡らせば、周りでは見知った顔たちが、ある者は起き上がってあくびをしたりまたある者はまだいびきをかいていたり。


「あれはみんなの変化した姿じゃったのか」


 仁平は昨夜の奇妙な白い人型を思い出して軽く身震いした。明るい陽射しの中で見る村人達は、いつもの見慣れた姿で剣呑な雰囲気は微塵もない。

 すると今度は丸池のほうで大きなくしゃみが聞こえた。


「御坊様、そんなところで寝ていたら風邪をひいちまうべ」


 御坊様と聞いて仁平は一瞬どきりとした。が、見れば片足を池に突っ込んで寝ていた僧形の男が自分のくしゃみでようやく目を覚ましたところじゃった。


「はて。池の中で見つけた奇妙な短刀を抜いたのだが。無くなっておる。確かにこの手に握ったのに」


 不思議そうにおのれの両手を見つめておった。

 短刀と聞いてなぜか落ちつかなげにタマが帯を直しておる。

 首を傾げる僧形の男に、優しく仁平が微笑みかけた。


「御坊様は丸池に入って熱をお出しになったから、ちょっとおかしな夢を見ていたんだべ。高い熱を出すとそういうこともあるっていうでのう。でも、熱が下がって本当に良かった」

「そうなのか。すまん、まるで覚えがない。熱を出して倒れていたか。だがなんでまた皆と一緒にこの池で倒れているのだ」


 さて、どう説明したものやら。

 仁平は頭をかきながら、言い訳を考えておった。


 この日を境に水の濁りも瘴気も消えた。

 あの薬湯のせいなのか不思議なことに村人達は昨日の記憶が曖昧になっており、弥一は庭の惨状を嘆きながら覚えのない宴の後始末をした。

 村は元通りになった。ただひとつ、仁平の嫁がいなくなったことを除いて。

 故あって故郷に帰ったという仁平の説明はおよそ説明にもなっていなかったのじゃが、嫁に逃げられたとおぼしき男に野暮な質問を面と向かって続ける者は少なかった。

 僧形の男はしばらくの間、噂を聞いてたずねてきた隣村の人々に清浄の薬湯とやらを飲ませろと囲まれて難儀した。即興で思いついた渋い薬湯をこさえたりもしたのじゃが、どうもそちらはあまり振るわないようじゃった。ひとしきり薬湯騒ぎが収まると、世話になった弥一の家を辞し、また東のほうへと旅立っていった。

 弥一は突然父娘の二人きりになってしまった仁平を気遣って、よく家に顔を出すようになった。


「カガミが故郷に帰ったって、どこまで帰ったんだべか。便りを出すならわしが手筈を整えてもいいぞ」

「遠い北の国なんで、難しいわな」

「北か。毛の国か」

「もっと北じゃ」

「越か。加賀か」

「もっと北」

「……おまえさんがそれでいいなら、まあかまわん」


 やがて成長したタマは、弥一のせがれと夫婦になり幸せに暮らした。

 仁平は結局後添えもとらずにその後一人で暮らしたという。

 ただ、天気の良い夜はおもてに出て北の空を見上げていることが多かったそうじゃ。

 夜空を見上げるわびしそうな背中に村人が声を掛けると、振り返った顔は決まって笑顔じゃった。

 星を見ていた仁平はさびしくなぞなかったのかもしれん。

 仁平にとっては、北の空に天高く浮かぶ北斗七星が仁平の嫁じゃったのじゃから。




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