濁り
なんのことやらわからない。高熱に浮かされての妄言じゃろうか。
そう心配して、そばにいた弥一はおそるおそるたずねた。
「御坊様。それはいったい」
「そこな短刀じゃ。それは水脈を乱す呪われた魔刀ぞ。ふかぶかと池の底に突きたててあったわ。誰の仕業じゃ」
騒がしかった周囲が、しん、と静まり返った。
短刀を池の底に突きたてる。だが、村の誰がそんな奇矯な振る舞いを行うじゃろうか。
沈黙を破って、仁平が答えた。
「御坊様、わしらの誰もそんなことは思いつきもしねえです。そもそもあの池には足を踏み入れないようにしていたでのう。失礼かもしれねえですが、熱にうなされて悪い夢でも見なすったんでねえべか」
男はゆっくりと身を起こし、仁平の顔をじっと見つめる。
「仁平か」
汗にまみれた男の顔は、座敷の中では蒼白く見える。
「池に入るなという禁を定めたのは誰じゃ」
仁平はどきりとした。だが、それは村の誰もが知っておる。なんでもないことのように弥一が答えた。
「仁平の嫁だな。あの池は深いから決して入るなと。昔は誰も池のことを気にしておらんかったが、いわれてみれば確かに深いんでな。御坊様、悪気はねえのです」
「その嫁は他所から来たのだろう。どこから来た。いつから村におるのだ」
「やめてくれ、御坊様。カガミはそんなことのできる女じゃあねえ。どこにでもいる、ただの気のいい女だ。ただの女に水脈を乱すだなんてだいそれたことができるわけもねえ」
だが、男の言葉に村人達がざわめく。
「そういえば、カガミはどこの村から嫁にきたんだっけか」
「知らねえなあ」
「いわれてみればいつも丸池の周りにおった」
「近づくなっていうわりにゃあ、おかしなことだな」
村人の中にはカガミの煎じた薬の厄介になった者も少なくいるが、評判の嫁として十年あまりのつきあいをもってしても仁平の嫁は結局謎の多い余所者でしかなかったのかもしれん。人々の口から不審が生まれ、広がっていく。
「仁平、もしやそなたの嫁は気の流れが見えるのではないか。それも陰の気を。となればおよそ只者ではあるまい。そなた達の出会いもまた、常ならぬものであったのではないか。さあ、ただちにここへ連れてまいれ」
「連れてきてどうするつもりだべか。わしの嫁を貶めるようなことはいくら御坊様でも許せねえ」
いきり立つ仁平の前に弥一が割り込む。
「落ち着け仁平。まだおまえさんの嫁が災厄の咎を負うと決まったわけではねえ。それで御坊様、あの短刀を引き抜いていただいて、それで遠からず濁りは止まるんだべか」
「それだけでは足らぬ。水脈にかけられた呪いは術者が解かねばならぬ。仁平、さあ早うせい」
そこまで聞くと、仁平は意を決した。皆が疑うというならば、わしがカガミに直に聞くまで。常ならぬ出会いをしたは相違ないが、人を害する女でないことは疑う余地がないと仁平は確信しておった。
「お、おい仁平、何をする」
座敷奥の黒い短刀をむんずとつかむと、弥一が止めるのもきかずに走り出す。
取り囲んでいた村人は、刃物を持った仁平をみて仰天し、道を開けた。
走って走って、あっという間に村を駆け抜けると転げるように仁平は家に飛び込んだ。
「カガミ!」
タマは水を汲みに出かけたのじゃろう、カガミは一人で繕い物をしておる。
「あなたさま。あわてて、いったい何事でございます」
「これを見ろ」
奇妙なつくりの黒い刃。暖かな陽の光の中、だが刃はその光を反射することもない。
「……丸池に入りましたか」
ぽつり、と。
こぼれるはずのない言葉がこぼれおった。
唖然とする仁平の手からボトリと重い音と共に短刀が落ちる。
「あなたさま。どうしてもあたくしが話したくなかったことを、お話しなければいけない時が来たようでございます」
僧形の男の言葉が仁平の脳裏を走る。――そなた達の出会いもまた、常ならぬものであったのではないか。
「聞きたくねえ! こんな短刀なんぞは見たこともねえ、そういってくれカガミ」
カガミは己が傷をこじ開けるような、それでいて何か解放されたような表情を浮かべて話を続ける。
「あたくしは人の子ではありません。姿形は人の子を模してはおりますが、これはかりそめのもの。あなたさまを長く騙してしまって本当に申し訳ないことです」
仁平の体がへなへなと崩れ落ちる。土間に座り込んで、おのれの嫁を力なく見つめるしかなかった。
「あの嵐の夜、あたくしは大きな地蟲を追ってこの村までまいりました。仕留めて丸池に封じたものの、あたくし自身も深い傷を負い、消え入る寸前でございました。その時思ったのです。このまま消え入るくらいならば、せめて最後の力でこの地に人の子として化生し、短いかりそめの間でも安寧の生活を得てみたいと。それまでのあたくしは戦いに継ぐ戦い、殺生の上に殺生を重ねる修羅の日々でございました。それは長い長い、日々でございました。ならばせめて消え入る前に、たとえ一瞬の間であっても互いに笑い、泣き、心を分かち合う人の子の思いを味わいたいと、そのように理を超えた願いを欲してしまったのです」
そう語って目を伏せるカガミから、大粒の涙が零れ落ちるのを仁平は呆然と見ていた。
「それがあなたさまを、次いではタマを、このように騙すことになってしまうとはその時のあたくしには思いもつきませんでした。結果、この日が来てしまった。まさに理を超えた者に対する天罰でございましょう」
仁平の隣に、落涙するカガミもまた重なるように座り込む。
「天罰かもしれない。ですが、あなたさまに知れてしまった今でも、あたくしはまだ人でありたい。あなたさまと、娘と、暮らしたい。あの冷たい世界に戻るのは嫌になってしまいました」
嗚咽する嫁の肩に仁平はそうっと手を回す。
「なら、ここにいればいい。わしは騙されたなんてこれっぱかしも思っていねえ。おまえさんは何も悪いことなんてしてねえんだから」
仁平は笑って嫁の涙を指で優しくぬぐった。
「おまえさんと過ごしたこの十と一年、わしはずっと幸せじゃった。理とやらを超えたからといって、それを誰に責められようか。かまうものか、カガミ、これからもまた今までどおりわしらと一緒に生きていこう」
仁平の言葉を受け、カガミは感極まったようにその腕を取る。だが、一度は明るさを取り戻した端正なその顔を再び陰がよぎった。
「あなたさま。あたくしにはまだ、やらねばならぬことがございました。災厄の根を絶たねばなりません。討ち漏らしていたようでございます。短刀が抜かれ、丸池に封じたはずの地蟲が今再び……」
カガミが言葉を切る。
近づく気配。
外が騒がしくなる。
村人達が追って来たのじゃろう、すぐに幾人もの足音が仁平の家を取り囲む。
「仁平。どうじゃ、短刀の検分は終わったか。そなたの嫁はなんと申しておる」
僧形の男の声が響き渡る。
戸の隙間からみれば、見知った村人が手に手に得物を持って僧形の男に率いられて集まっておった。口々に下卑た言葉を発しておる。ふだんとは別人、いつのまにか村人というよりはもはや狼藉者の体となっていた。
捕まればただでは済むまい。だが、囲まれては逃げようがない。
「仁平、仁平」
すると裏のほうから小さな声がする。
弥一の声であった。
「こっちから出てしまえ。見つからないように林の向こうでちょっと身を隠しておれ。皆が殺気立ってどうにも恐ろしい。御坊様もまるで人が変わってしまったようじゃ」
窓に近づいてみると、こちら側に周ったのは弥一とそのせがれじゃった。
「ほれ、早く早く」
信じていいものか、といって他に逃げる方法もない。えいや、と意を決して二人は窓から転げ出た。
さいわい、どうやら本当に弥一とせがれしかおらんようじゃ。
「すまねえ、弥一。頃合を見てわけを話す。ただ、誓ってカガミは悪さなんぞしてねえ」
そういい残すと、二人は足早に深い林の奥へ消えていった。
先だって親子で出した高熱をカガミの薬で助けられた恩もあって、逃げおおせることを祈りながら見送った弥一じゃったが、走り去るカガミの手にあの黒い短刀が握られていることに気が付いて、なにやら不吉な予感に捕らわれてしもうた。




