嵐の夜に
今は昔、東国の印波という地に仁平という若者が住んでおった。
仁平はたいした働き者じゃったが、世の縁というのはわからないもので、年のほうもそろそろ頃合じゃというのになかなか嫁を娶ることができずにおった。
さびしい村の外れに独り住んでおるのがいかんのか、真面目すぎた性格がわざわいしたのか、それでも仁平はあまり気にもせず、毎日野良仕事に精を出しておった。
ある嵐の夜のことじゃ。
たいそう大きな雷が村外れに落ちた。仁平はびっくりして飛び起きたが、戸を開けて見やっても夜の闇ゆえ何も見えない。耳をそばだてても、風の音がごうごう流れるばかりで何かの音を聞き分けられるでもなかった。
「雷様でも落っこちなさったんだべか。音からすりゃあ丸池のほうかもしれねえなあ」
つぶやいてはみたが、独り暮らしゆえ答える者もおらなんだ。
そうこうするうちにその雷鳴を境として嵐はおさまっていく。大事無くてよかった、やれやれと仁平が寝床に戻ると、今度は何やらホトホトと戸を打つ音がする。
嵐は去ったといえどもこんな夜分にたずねて来るとは、さては狐狸の類かと仁平はいぶかしんだ。だまされまい寝よう寝ようと、そう思ってふとんを引き寄せて潜ってみれば、今度はかえって無性に気になる。あれは風の音だったか、いやもしやすると旅の人が道に迷って難儀しているのかもしれぬ。そう考えるとまあ根が正直じゃったこともあり、放っておけない。意を決して仁平はそうっと戸を開けてみた。
果たしてそこには、見たこともない紅い着物を着たうら若い娘がまたなんとも蒼白い顔をしてゆらりと立っておる。
「お、おまえさん、こんな夜更けにどうしただ? 道に迷いでもしなさったか」
娘は仁平の問いには答えず、その場で糸が切れたようにくず折れてしまった。
あわてて抱き起こすと、衣がびっしょり濡れておる。雨に打たれてもおったが、べったりと仁平の手に塗れたものはどうみても血じゃった。よく見れば娘の肩には切り裂かれたような大きな傷がある。衣が紅いのは、この娘の血のせいかもしれなかった。
「ひどいケガしとるでねえか。こりゃ大変じゃ」
それから仁平はいろりの火を起こして湯を沸かしたり、虎の子の膏薬を塗ってみたり、あれこれと気を失った娘の介抱をした。この一帯には医者というものがおらなかったし、おったとしても報酬を払うことは仁平にはできなかったじゃろうから、とにかく自分でできる限りのことを精一杯するしかなかった。
そして夜が明けた。
介抱しながらいつの間にか寝てしまった仁平が鳥のさえずりに飛び起きると、目の前には昨夜の娘が居住まいを正してきちんと座っておる。自分で着替えたものか今は仮に仁平の着物をまとっておった。
「おまえさん……ケガは」
昨夜のひどい傷が気になってたずねると、「おかげさまでこのとおり治りました。昨晩は本当にありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる。
およそ一晩で治るような傷ではなかったはずじゃったが、このとおり、といって娘が見せる白い肩には確かにかすり傷ひとつ残っていない。
「あれ、不思議なこともあるもんだべ。しかし、まあよかったよかった。膏薬が効いたんかのう……さて、わかったから襟元をなおしなされ」
むきだしになった娘の肌に、今さらながら顔を赤らめる仁平じゃった。介抱するときはさんざん見たであろうに、こうやって落ち着いた朝の光の中であらためて見ると、息も絶え絶えな怪我人の蒼白い肌ではなくそれはやはり若者の心を騒がせる若い娘の肌なのじゃった。
娘のほうはといえば、特に恥じる様子もなく再び着物を整えると、今度はふかぶかと仁平に御辞儀をする。
「あたくしは、カガミと申す女でございます。このたびはあなたさまの手厚い看病のお陰で命拾いをいたしました。つきましては恩返しをさせていただきたいのでございます。ぜひ、お受け取り下さりますよう」
そういって額を板間にこすりつけるように御辞儀したまま動かない。
「いやいや、わしゃああわてるばかりで看病なんてなぁんもできんでな。ささ、頭を上げてくだされ。こんな板の間では汚れてしまうべ」
「なにとぞ御恩返しを。いかにも唐突な申し出ではございますが、このあたくしを嫁にとっていただきたく」
仁平は仰天してしもうた。
「嫁? 嫁にって。そもそもおまえさんはどこの娘さんなんだべか」
「遠い北の国の出でございます。訳あって旅をしておりました。それ以上のことはご勘弁くださいまし」
どうにも奇妙なことじゃった。一晩で治ったひどいケガ、およそ旅姿とは思えなかったそのいでたち、今度は突然嫁に、という。
狐狸の類が化けていると考えるほうが合点がいく話じゃったが、この仁平という男が一人暮らしに飽いていたこと、若い男ゆえどうしても娘の体の線に目を奪われてしまうことなどもあったかも知れぬ。
「何か事情があるってことなら、まあしばらくうちで好きにしていてもわしは構わねえ。嫁がうんぬんは急なことゆえ、しばらく暮らしてから決めればいいべ。ふとんは一つしかねえけどもそれでいいなら」
そう答えてしまっていたのじゃ。
「御迷惑おかけいたします」
「カガミさんでよかったべか。そうそう、わしは仁平という」
「仁平さん。ありがとうございます」
そういってようやくおもてを上げるカガミと目が合う。
昨夜の憔悴した蒼白い顔とはうってかわって、薄桃色の春の花が咲いたような、暖かく息づいた娘の顔がそこにあった。視線を交わした瞬間、仁平は心の臓が激しく鐘を打ち、顔が激しく朱に染まるのを感じた。
つまり仁平は一目惚れをしてしまったのじゃ。
結局カガミはそのまま居つくことになり、ほどなく二人は夫婦になった。
仁平の生活はあいかわらずで、昼は汗にまみれて野良仕事、夜はオンボロの布団にくるまって休むというものじゃったが、隣に美しい女房がいるというだけで今までとはまるで違った心地じゃった。
いっぽう嫁のほうはといえば最初はやや硬いとでもいうか、どこか浮世離れした風もあったけれども、日がたつにつれ笑ったり怒ったり、気心の知れた女房になっていった。
やがて二人の間には子供も生まれた。
元気な女の子で、「タマ」と名づけられた。
この頃にはカガミも村に溶け込んで、まあ少しばかり風変わりなところはあるが、働き者のできた嫁と褒められるほどになっておった。娘が歩けるようになると、村はずれの丸池の周りで二人して薬草を摘み、煎じて熱さましの薬だといって熱を出した家に分けてやることもするようになった。その薬が効くというのでまた評判が上がる。自慢の嫁、娘じゃった。
そんな日々の中、仁平がなんとはなしに気にしておることがあった。
それは以前カガミが勘弁してくれといって答えなかったその素性じゃ。
親御さんは心配しておるんでねえか、何か仲違いして出てきたにしても今はもう許しあっても良い時が流れたんでねえか。孫の顔も見たかろう。それとなく会話の中に混ぜてみるのじゃったが、それについてだけは決してカガミは打ち明けることはなかった。かたくなな嫁に無理強いはしたくなかったのじゃろう、それ以上問い詰めるようなことはしなかったが、仁平の心にはそのことが引っかかって残った。
娘のタマが十にもなった頃じゃろうか。
仁平たちの村を災厄が襲った。
まず最初に、小さな地震があった。とはいえ、特に被害らしい被害もなく、誰も気に留めなかった。
しばらく経って、村はずれの丸池から瘴気が上がりだした。池の水は黒褐色となり、続いて作物が枯れ、井戸の水も濁って飲めなくなったのじゃ。水は川まで汲みに行かねばならなくなり、村人達は大いに困ってしもうた。
何の因果によるものか、はたまた地の神様がお怒りなのか。村にある小さなほこらでお伺いをたてたり、お供え物を増やしたりしてみたがいっこうに収まる様子がない。
水が使えなくては生きていけない、他の村人と同じく仁平も重い桶を背負って水汲みに出かけることになった。
いつまで濁りが続くんじゃろうか。深い溜息をついて川べりに腰を下ろした仁平に声をかける者がおる。
「もし。そなたはこの村の者か」
声のほうをみればいつのまにか僧形の男がやはり川べりに座っておった。仁平はおよそ旅の御坊様が道にでもお迷いなさったかと見当をつけた。
「へえ、わしは確かにこの村のもんです。御坊様はなにかお困りごとでも」
「困っておるのはそなたのほうであろう。ずいぶんと陰の気が出ておるぞ」
御坊様ともなればそんな物まで見えるのか、と感心して、そうだひとつその知恵に相談してみようと思い立った。
「はあ、無理もねえです。このところ村の井戸水が濁っちまって皆が難儀しとるもんで」
「ほう。くわしく話せ」
ひとしきり仁平の話を聴くと、僧形の男は勢い良く立ち上がった。
「あいわかった。まずはその瘴気を生むという丸池とやらに案内せよ」
立ち上がった姿形をよく見れば、思っていたより若い。意志の強そうな、それでいて澄んだ目をしておった。最近は大きな寺もできたというし、都のほうから知識に富んだ若い御坊様方が来ているのかもしれないと仁平は頼もしく思うのじゃった。
丸池は文字通り丸い形の池で、村はずれの林の真ん中、そのやや開けた場所にぽっかりと口を開けておる。
「なるほど、濁っておるな。瘴気の細かな泡も上がってきておる。飲んだ者はおるのか」
「へえ、汲み置きしてから上澄みを湯冷ましで舐めてみたんだけんど……ああっ御坊様」
止める仁平にも構わず黒褐色の池の水に指を突っ込むとその先をぺろりと舐めてみせる。
「潮気があるな」
「無茶をしなさる。潮気、へえ、さようでございます。そのせいで畑には撒けねえし、湯冷ましして飲んでも腹を壊すんで始末におけねえです」
「小さな池だが、湧き水だな。この水はどこへ流れていく」
「へえ、こちらの小川から出るとすぐ先で浅く広がって、また地に染み込んでおります。御坊様、小さな池でごぜえますが、決して池の中に足を踏み入れてはならねえです。見た目よりずっと深いもので」
男は仁平の説明を聞きながら、じっ、と黒褐色が渦巻く池の中をみつめていた。
「わかった。次は濁ったという井戸へ」
「へえ」
仁平はいわれるままに次々と村中の井戸を案内してまわる。僧形の男は桶でいちいち汲み上げて、ここは濁りが濃いだの薄いのと検分してみたり、井戸の深さを測ったりしておった。
村のあちこちの井戸を周ったお陰で、村人達の間にも旅の御坊様が災厄を鎮めに来てくだすったという噂が広まったのじゃろう、いつの間にやら二人の周りに人だかりができておる。
「ありがたや、御坊様じゃ」
「御坊様、なんとか神様の荒ぶりを鎮めてくだされ」
「わしらほとほと困り果てておるんじゃ」
口々にすがるような言葉を発する村人達を、ぐるりと見渡すように顔を巡らすと、男は大きなはっきりとした声で語った。
「さて、よいか皆のもの。これは神の仕業などではない。呪いといった類でもない。地深くの水脈になにがしかの異変が起きて、濁りを発しておるのだ」
仁平も村人も神妙に聞いておる。
「聴けば、地震の後からこうなったそうだな。かつては清い水脈が、地震などで濁りを起こすことは聞いたことがある。多くの場合、短い日時で元に戻るものなのだがな。戻らぬとなれば清い水脈を探すしかあるまい。丸池に近いほど、掘りの浅い井戸ほど濁りと瘴気が濃い。ならば明日にでも池から離れた場所に深い井戸を掘ってみようではないか。清い水脈が残っておるやもしれぬ」
村人の一人が不安そうに声を上げた。
「御坊様、深く掘っても濁りが出たら……」
「そのときにはもう一度検分のやりなおしじゃ。一度でうまくいかなければ、二度、それで駄目なら三度やるまでじゃ」
そういって快活に笑う。
村人はそれで合点がいったわけでもなかったが、それでも少しばかり元気が出てきたようじゃった。
村でも一番大きな家を構えておる弥一という男が進み出て「御坊様、見たように寒村でありますゆえ大きな宿もございませんが、どうかわしのあばら家にお泊りくだされ。そしてなにとぞこの災厄をお除きくださいますよう」そういってしっか、と男の手をとる。つられるように村人達も頭を垂れて「お願いします、お願いします」と連呼するのじゃった。
そんなこんなで仁平はようやく川の水を桶に汲み、カガミとタマが待つ我が家へと帰った。
「カガミ、よい知らせじゃ。御坊様が災厄を取り除いてくれるそうじゃ」
「御坊様が」
「なんだか利発そうなお人じゃった。それでな、明日みんなで深い井戸を掘ることになったんじゃ。わしも行かねばならねえ」
すると奥でワラをよっていたタマが元気な声をあげる。
「父ちゃん、それなら明日はわしが水汲みに行く!」
「ははは、行ってくれるかタマ。ならおまえさんは小さい桶でな。なに、夕にはわしも戻るで、無理せんように」
「わかった!」
小さい手にワラを握り締めたまま、タマは大きくうなずく。丸池が濁ってから薬草も取れなくなってしまったので、しかたなく実入りの少ないワラ細工をこさえていたのじゃった。
「あなたさま、御坊様はどこに井戸を掘るのでしょう」
何か気にかかるのか、心配そうにカガミはたずねる。
「なるべく丸池から離れたところで、とおっしゃっておったな。はっきりどこそことは聞いておらん」
「そうでしたか。良かった。あなたさま、決してあの丸池の中に足を踏み入れることのなきよう。皆が思っているより深い池でございます」
「またその話か。わかったわかった、御坊様にもそう話してある。明日、皆にも重ねて伝えておくべ」
自分は薬草取りと称してしょっちゅう丸池に行くくせに、人が池に入ることをカガミは嫌った。もっとも今の濁って瘴気を発する丸池に入る者がいるとは仁平にも思えなかったのじゃ。
翌朝のことじゃ。
掘る井戸の検分をするといって、朝早く独りで弥一の家を出た僧形の男が気を失って倒れているのが発見された。
丸池のほとりじゃった。
その手には、黒い奇妙なつくりの短刀がきつく握られておった。
御坊様が倒れたという報はただちに村を駆け巡り、集まる村人に混じって仁平もまた介抱をしているという弥一の家に馳せ参じた。
「御坊様」
見れば、今もまだ床に伏せうんうんうなっている。握っていたという黒い短刀は座敷の奥に置かれておった。
「いったいなにが」
「わからん。ただ、早くに調べたいことがある、といってお一人で出て行かれたんじゃ。朝餉の時分になっても戻らんのでおかしいとおもっていたら、なんとずぶ濡れになって丸池のほとりに倒れているというでねえか。仁平、おまえさん昨日丸池に御坊様を案内したのか」
「案内はしたけんども、池に足を入れちゃなんねえとも伝えてある。どうしてひとりで……」
「そうじゃったか。おまえさんの女房がいつもあそこは危ない危ないというから、村の者は気をつけておったのにのう。こともあろうに御坊様が」
そういって弥一は心配そうに伏している男の顔を覗き込む。
「ケガこそしておらんし、溺れた様子もねえ。ただ、ひどく熱を出していなさる。瘴気が当たったのか、濁りの毒気が入ったのか。せめて目を覚ましてくれんかのう」
そんな願いが神仏に通じたのか、その時ようやく男の目が開いた。
「御坊様! 良かった、気がつかれましたか」
「おお、目をお開きになったか」
家の外で心配そうに内を覗き込んでいた村人達からも安堵のどよめきが起こる。
目を覚ましたとなれば、カガミが煎じた熱さましの薬湯も飲めよう。さいわい、先だって弥一とそのせがれが高熱を発したときに渡された煎じ薬が残っておった。
「御坊様、すぐに薬湯をお持ちしますんでのう」
だが、開かれた目に反応はない。
目を覚ました男は寝たまま、目を大きく見開いて静かな声でつぶやいた。
「災厄の根をみつけたぞ」




