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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

元大学教授ヒガシカタゲンジロー

作者: 安藤ナツ

 一九七五年。一一月十七日。アメリカ合衆国マサチューセッツ州アーカム。

 八月から始まり、三カ月の間に実に五人の一般市民と二人の警察官を殺害したとされる連続猟奇殺人犯が捕まった事を知ったのは、その日の午後になってからのことだった。去年の夏にミスカトニック大学の教授職を辞任し、息子夫婦と共に静かな老後を過ごしていた私にとって、その知らせは間違いなく朗報と呼べる類の物だった。

 七人もの人間(未だに見つかっていない三人の行方不明者を除けば、だが)を三月と言う短期間で殺害しただけでも恐ろしく、私の理解を超えているのだが、今回の事件には更に恐るべき点がひとつだけあった。

 あまりにもおぞましい内容故に、その情報は一般的には公開されてはいないはずなのだが、人の口には戸が立てられない物で、忌々しいその事実は公然の秘密となっていた。

 見つかった死体には、ある一つの共通点が存在していた。もっとも、そうでなければ連続殺人と警察は判断しなかっただろうから、被害者に何かしらの繋がりがあると言うのは素人でもわかることだ。

 なおかつ、猟奇と言うおどろおどろしい言葉で飾られるとなれば、その共通点とやらがどのような物かは想像に容易い。腹部にナイフでサインが刻んであるだとか、眼球がくりぬかれてゴルフボールが埋め込まれているだとか、そう言った類の精神異常者のような行動があったに違いないと誰もが想像することだろう。

 しかし今回の事件の共通点はそれらとも一線を画する、狂気を孕んだものであった。

 頭蓋の中が、からっぽになっていたのだ。

 死体には親指の爪程の大きさをした穴がこめかみの辺りに開いており、犯人はそこから死体の脳髄を全て掻き出したと言う。死体にはそれ以外の損傷はなく、直接的な死因は脳の欠損と言うことになるらしい。

 更に寒気を覚えることに、こめかみに開いた穴の周りには人間の唾液が付着していた。

 つまり、犯人は死体の傷口を舐めたと言うことであり、恐らくは被害者の脳を――食ったのだろう。

 これが狂気でなくてなんだろうか?

 アーカム市民はこの三カ月、犯人を『吸脳鬼』と呼び、不安な夜を過して来た。

が、その恐怖の日々とも、今日でお別れである。

 犯人逮捕の知らせは、きっと多くの安心を産むことだろう。

 しかし、私にその安心が届くには、もう少しの時間を要しそうだ。

 何故ならば、犯人が捕まったと言う知らせを、新聞でもテレビでも近所の噂でもなく、何故か警察から私当てに直接かかって来た電話で耳にしたのだから。

「それで? どうして私にその報告をしてくれるのかな? 署長? まさか『息子が犯人だった』なんて言うんじゃあないだろうね?」

 受話器の向こう側で、警察官よりもアイスクリーム屋が似合いそうな知己が溜め息を吐くのが聴こえた。

「君の力が借りたいんだよ、ゲンジロー教授。今回の事件はどちらかと言えば、君の領分だったんだ。被害者たちの空っぽな頭を見た時から、そうじゃあないかとは思っていたんだ。もっと早く気が付いていれば、被害者は減らせたかもしれない」

「一つ、訂正させてくれ。私は、元教授だ」

「おお、そうだった。しかしだよ? ゲンジロー。ミスカトニック大学で教鞭を振るっていた時の知識を失ったわけではないだろう?」

「どうだか? 最近は物忘れが激しくてね。一昨日の夕飯も思い出せないくらいなんだ」

「忘れられない夕食を今晩奢ってやるから、知恵を貸してくれ」

「一体、何を奢ってくれるんだい? まさか、君の奥さんの料理じゃあないだろうな? 『彼女の作った夕食を毎日食べている』と言うだけで、私は君のことを深く尊敬してはいる。が、同じようになりたいと思ったことはないんだ」

「カミさんの料理の話しはいいんだ。確か、お気に入りのインド料理屋があっただろう?」

「ああ。店をやっているのはパキスタン人だがね。と、言うか、あそこには良く行く。きっとすぐに忘れてしまうぞ?」

「いや。この事件に関わったことは、きっと忘れられない記憶になる。だから、その報酬で食べた食事も、きっと忘れられない記憶になるさ」

「わかった。もう、それで良い。で? どうすれば良い?」

「直ぐに車を回す。待っていてくれ」

「了解だ」

 受話器を置き、私は心配そうな眼で私を見るアーニャさんに「少し、出かけて来るよ。ランチもディナーも、友人と取ることにした」とだけ伝え、余所行きの黒のインバネスコートと、幾つかの仕事道具を取りに自室に戻った。


 十五分もすると、二十代も前半と思わしき青年が我が家の門を潜った。突然の警察の来訪にアーニャさんは少し驚いていたが、署長に呼び出されたと言うと、少しだけ安心した後に、それ以上に心配げな表情をした。左手に持った唐草模様の剣袋を視る表情は出かけてしまうのに罪悪感を覚える程だ。「大丈夫、ちょっと話をして来るだけさ」と、無理矢理彼女を納得させて、私は新車らしいパトカーの後部座席に乗り込んだ。

 新人警察官は私のことを知らないのか、挙動不審に私の様子を窺っている。前を見て集中して運転して欲しい。そんな私の願いはむなしく、署までの道を半分ほど進んだ所で信号に引っ掛かると、彼は慎重に言葉を選びながら疑問を口にした。

「えーっと、その、ミスターヒガシカタ? 貴方は一体、今回の事件にどのように関係しているのですか?」

「直接関係があるわけではないよ。長生きしているからね。人よりもちょっとだけ物事に詳しいんだ」

「今回の吸脳鬼についても、何か知っていることがあると?」

「さあ? 大抵の場合、私が知らないことばかり、皆が訊ねて来るんだよ。私は知っていることを自慢したくて仕方がないというのにね」

 そう言って、肩を竦めて見せる。と、新米警察官の表情は明らかに落胆を表した。「そうですか」と言う言葉にも力がない。

「犯人は捕まったそうだが、君はその吸脳鬼を見たのかい?」

「いえ。犯人の姿を見たのは、所長と警部。そして捕まえた張本人のジョージ先輩だけです。捕まえたと言うのは少々語弊があって、正確には町外れの廃墟に追い詰めて閉じ込めているようです」

 なるほど。自分が見てもない犯人を、部外者に見せると言うことが気に喰わないようだ。自分が信頼されていない、とでも考えているのかもしれない。

 が、恐らくは犯人の姿を視ることはそんなに光栄なことではない筈だ。署長との付き合いもかれこれ三十年近い。つまりそれは、彼が私の一番の被害者である、と言う意味に他ならない。彼がそんな手段を取ると言うことは、それなりに意味があるはずだ。

 果たして、倉庫に追い込まれているのは、犯人なのか、それとも…………と言った所だろうか?

 あ。勿論、私が彼の一番の被害者であることも、しっかりと主張しておこうと思う。


 廃墟と一口に言っても様々な物がある。特に著しい近代化の波に揉まれつつアーカムの地には、結構な種類の廃墟が点在している。不便さから誰も住まなくなってしまった住宅街や、奇怪な事件の果てに持ち主がいなくなった屋敷、開発に失敗したアーカムランドの建設途中地。

 今回、私が案内された廃墟は、一軒家程の大きさをした、かつては倉庫として利用されていた小さな木造の建物だった。天井は高いが、恐らくは一階建てだろう。かつては白いペンキが塗られていたらしいが、九割型は剥げ落ちてしまい、湿った腐りかけの木面を晒している。もっとも、その壁も大半は穴が開いており、裏手の山から延びて来た葛の蔦が残った部分を埋めてしまっている。殆ど、山の一部となっている。

 余談だが、どこぞの日本人が持ち込んだらしい鯉と葛が、その繁殖力と強靭さによって蔓延っており、生態系に少なくない影響を与えていることが最近問題になっていると聞いた。それはもはやダメージと言って問題がないレベルの様だ。おそらく、人類の活動が広がるにつれて、これに似た問題は更に大きくなっていくだろう。看過できない重要な問題だ。

 もっとも、今はそんな巨大なスケールの課題に取り掛かるよりも先に、手近な問題を片付けてしまおう。こうやって、人々は重要な問題から目を逸らし、どうでも良い些事に気を取られ、一生を終えるのだろう。

 倉庫の前には恰幅の良い、サンタクロースのようなジョン署長が落ち着きなく挙動不審を丸出しにして立っていた。彼は私を見ると、腹を揺らしながら近づいてくる。

 私は両手を広げてそれに応える。

「やあ。署長。本日はこのような場所に招待して頂けるなんて。なんたる幸運でしょう」

「こちらは最高のもてなしを用意している。楽しんでいってくれ、ゲンジロー」

「しかし知っての通り、私はグルメでね。なまなかな物では、満足はできないよ?」

「大丈夫。きっと君は満足する」

 それはそれは、なんとも気の滅入る話だ。

「それで? メインディッシュの説明をしてくれるかい? 手短にね」

 そう言うと、署長は後ろについて来ていた新米君に「ご苦労」と声をかけ、署に帰るように静かに命令した。青年は一瞬だけ不満そうな顔をしたが、直ぐに表情を戻し、運転席へと来た道を戻った。

「彼を仲間外れにするのかい?」

 寂しそうな彼の背中に、思わずつぶやいてしまう。

「なんだ? 他人を気に掛けるなんて珍しいじゃないか」

「車の中で友達になったんだ」嘘だ。「まあ、必要があれば彼にも教えてあげよう」

「知らない方が幸福だと思うがね」そんな前置きをして、署長は続けた。

「昨日の夕方。ジョージが行方不明になっていた少女の腐乱死体を廃倉庫の地下室で見つけた。所持していた通学用の鞄に彼女の名前が縫い付けてあったことと、失踪時の服装の特徴が一致したらしい」

「脳味噌は?」

「入っていなかった。ジョージが言うには、乱暴された形跡もないようだ。倉庫の地下には他にも動物の腐肉や、肉食性生物のフンが発見された。私はそれらの事実の口外を禁止し、倉庫を一晩だけ監視するようにジョージに命令した。署で、一番こう言った状況に強いのは奴だし、何よりも前例と経験があった」

「その時点で、どうして私を呼ばなかった」

 つまり、倉庫の地下の状況を聴いた時、既に署長の中ではこの事件が一般的に思われる様な猟奇殺人事件ではないとわかっていたわけだ。ジョージは確かに勢いと冷静さを併せ持った良い警察官ではあるが、専門家ではない。

 生兵法は怪我の元。と、故郷でなら言うだろう。

「私の判断ミスだ。十二年前の館で起こったことと比べれば、なんてことのない物だと考えていんだ」

「それは自分の悩みと宇宙の大きさを比べるような失敗だな。反省会は後にするとして、それからどうなったんだ? ジョージは生きているのか?」

「ああ。真夜中に『何か』が倉庫に入り、その地下室へと歩いて行くのを見たらしい。そして『何か』を地下室へと封じ込めた所で――」

「正気を失った?」

 答えを先読みして呟くと、署長は深刻そうに頷いた。

「そうだ。朝方に交代要員であったアレックスが自分の指先を噛み千切るジョージを発見した。意識自体はハッキリしていて、ちゃんと受け答えはできるんだが、自傷行為を止めよとしないんだ」

 実際に、危険な症状そうだ。自分の理解を越えた現象に遭った人間は、まず間違いなくその正気を失い、異質な行動を取る。自傷行為は珍しくない反応であるが、意識は残っているとなると稀な症状だ。半端に正常さが残っている分、快復が難しいかもしれない。

「ジョージは、助かるだろうか?」

「残念ながら、そっちの方は私の門外漢だ。幾つかの民間療法に心当たりがあるが、ちゃんと医者に見て貰った方が良いだろうな」

「そうか」と、署長が悔しそうに呟く。が、直ぐに話を戻して先へと進める。「君には犯人らしい『何か』の無力化をお願いしたい。これ以上の被害者は、もう出せない」

「任されよう」

 元々、その為に来たのだ。ここで断る理由は微塵もない。剣袋の紐を解き、その中身を取り出す。

 現れたるは、柄の頭から鐺まで全てが黒い、二尺三寸三分の打刀――『隕星刀』。

 希少な隕鉄銀を鍛えた我が愛刀ではあるが、銘はない。

 何故なら、その方が格好いいからだ。


 私の一族は元々役小角に連なる修験者の血筋の侍であったらしい。少なくとも、私はそう教えられて育って来た。妖やら魑魅魍魎といったバケモノを倒すことを生業としており、爺さんの頃はそれなりに仕事もあったようだ。が、二十世紀の現在では河童の一匹も見なくなってしまった。妖怪退治で糊口をしのぐことができなくなった父は、役に立たない剣術を教えながらも、現代的な職に就けるようにと色々と骨を折ってくれた。

 その結果、私はそれなりに名前の知れた民俗学者になった。

 面白いことに、世界中の何処にでも妖精やら鬼やらの類はいるようで、民俗学の研究で地球上を隈なく回っている内に、私の妖怪退治屋としての知識は何百年と続く一族の巻物よりも、百倍以上文字数が多い物となった。

 それらの研究成果が認められ、嫁の伝手もあって、ミスカトニック大学の教授と言う職を得ることができた。民俗学者の研究をしながら、妖怪退治の二足のわらじは、充実した人生に多大な貢献をしてくれ、後悔も多いが、悪くない人生だったと胸を張ることができる。

 もっとも老後までチャンバラをすることになるとは思っていなかったが。ベルトに差した隕星刀の重みが少々苦になる歳になってしまったので、なるべくお手柔らかにお願いして貰いね。

「確か、入って直ぐを右手側だったな」

 一体、どんな会社の倉庫であったのか。原型を辛うじて留めている程度の室内からは窺い知れない。割れた窓と、崩れた天井の区別がつかないのだから、仕方がない。

 地下へと繋がる扉は、十メートルも歩くことなく発見することができた。地面に一辺が二メートル程度の鉄製の扉が取り付けられており、半円の取っ手が三対六ヶ所飛び出している。ジョージは何処から持って来たのか、その内の二対に鉄パイプを差し込んで閂にしたようだ。コンクリートの床に、鉄製の扉。一体、地下には元々何をしまっていたのだろうか? 多少の知的好奇心が疼く。

 しかし今はそんな場合ではない。最低でも十人は殺した『何か』がこの下にいるのだ。

 少しだけ逡巡して、私は扉を三度右足で踏みつけた。地団太を踏むようで、少し恰好悪い。

 と。恥ずかしい思いをした甲斐もあり、足の裏に三度、衝撃が返って来た。私の細足とは違い、大きな音が鳴り、僅かに扉が軋んだ。扉自体は大丈夫でも、蝶番が持たなさそうだ。扉から少し離れ、左手で鞘を掴んで親指で鍔を押し上げる。

「誰かいるのかい? 返事をしてくれ」

 なるべく敵意が伝わらないように注意し、扉の向こうへと語りかける。

「――――」

 返事があった。風が穴を通りぬけるような、奇妙な呻き声。そこから知性を感じ取るのは難しかった。扉の厚みだけが原因ではないだろう。構わずに会話を続けた。

「君は、何者だ? 私の言葉がわかるかい? わかるなら、応えてくれないか?」

「おー、おでー。おでー」

 再び、呻き声が返って来た。少なくとも、声が聞こえていないと言うことはないだろう。

「『俺?』 君は男なのか?」

 はっきり言って、『俺』には全く聞こえなかったが、適当に当たりを付けて応えると、

「そう、おで、おとこ」

 声は鬱陶しい耳障りな声で肯定をしてくれた。口調からはイマイチ判断できないが、何処か嬉しそうに聞こえる。おそらく、実際に嬉しいのだろう。

 人の言葉を理解する化物は、人に対する強い憧れを持っていることが多い。ただの食料と考えているのであれば、言語を覚える必要はないのだから、当然だ。

 が、人でないが故に、人の真似をする異形は恐れられ、排斥される定めにある。本能的に、あるいは経験的に、自らの領分を犯す存在を許しておけないのだろう。

 だから、こうやって対話を喜ぶ異形は多い。

「おで、でたい。くらい。くらい」

 ゴンゴンと、内側から鉄の扉を叩く音が倉庫内に反響する。蝶番が一か所だけ大きく浮き上がっている。中の存在がそのことに気が付けば、一気に扉を吹き飛ばしてしまうかもしれない。

「わかった。私が開けてあげよう。離れているんだ。わかるかい?」

『自ら飛び込む方が良い。手をこまねき待つよりも』確か、『ジュリアス・シーザー』だったかな? 不意を突かれるよりは、自分の手で扉を開けた方がタイミングも計りやすいだろう。

「わかる。おまえ、いいやつ」

「光栄だよ」

 できれば、ずっと良い奴でいたいものだ。少々行儀は悪いが、閂代わりの鉄パイプをつま先で押し外す。一本を外し、二本目も同じようして外す。本当に、何処に転がっていたのだろうか、この鉄パイプ。

 些細な疑問は飲み込み、扉を踵で蹴飛ばして、「開いたぞ」と中の何かに知らせる。何かは獅子の咆哮のような声を上げ、勢いよく鉄製の扉を跳ね開けた。

 瞬間。吐き気を催すような生臭さが鼻を突く。反射的に顔を背けそうになるのを堪え、鯉口を切った隕星刀の柄を握り締める。

「そと。そと」

 おぞましい声で、呪いの言葉のように呟きながら、地下倉庫から匂いの元が這い上がって来る。

 それは奇妙な生物だった。

 頭や腕に該当する部位は見当たらず、一見すると、巨大なゴミ袋が動いているようにも見える。一番近い生物で例えるならば、海星だろうか? 名前とは裏腹に、星ではなく円形をしており、中心部を頂点とするように山上になっており、直径一メートル五〇センチ、高さは六〇センチ程度だろう。

 身体は粘性の高い液体を思わせる不定形な膜で覆われており、菌類のようにそれを伸ばして移動を繰り返している為に、移動速度は極めて遅い。極めて柔らかそうなその膜には、びっしりと幾何学的な紋様が刻み込まれており、それは見ていて気分が悪くなる、冒涜的な印象を受ける。常人が見たならば、ただそれだけで精神に傷跡を残すような、おぞましい形と意味を持っているようだ。

 しかし最も常軌を逸しているのは、膜に包まれた匂いの原因でもあるその中身だ。

単純に濃い緑色をした膜の内側には、薄く発光する血肉色の液体が詰まっており、その中にはぐずぐずの肉塊が幾つも浮いているのだ。中には人の脳みそらしいものもあるし、神経がついたままの眼球が漂っているのは正視に耐えないありさまだ。

 良く眼を凝らせば、液体の中を全長五ミリにも満たない小さな蟲のような物が蠢いているのが見える。数を数える気にはならない。生理的な嫌悪感に、私ですら直視することすら難しい。

 そんな化物の彼は、身体の表面に人間の顔のようなものを浮かび上がらせることによって、声を発していた。殆ど凹凸のない表情は能面にも似ていて、そこから感情を窺い知ることは不可能だった。

「こんにちは。私は東方源次郎と言う者だ。君の名前は?」

「ひーが? げーん?」

 本当に言葉が通じているのかは正直怪しい所だが、相手の姿を視ることによって会話の難易度はずっと下がった。どうやら、彼は名前を持たないようで、質問の意味が通じていなさそうだ。

 名前がない。それはつまり、この個体に呼び掛ける存在がない、と言うことか? ならば彼以外に、同種はいないということだろうか?

 ならばコミュニケーション能力は相当に低いと見るべきか? しかし、一応私の問いかけには確りと反応している。なんとも判断のつかない所だ。

「君は、人を喰ったのか?」

 こう言った時、私は急所を狙う。元より、気の長い方ではないし、女子供のように中身のない会話に花を開かせることも得意としていない。単刀直入だ。

「ひと? くう?」

「私の様な生き物を、食べただろう?」

 口をぱくぱくと動かして、何かを食べる振りをする。と、気色の悪い膜の上の顔がそれを真似した。同時に、彼の頂点部から一本の触手のような物がはえ出した。移動スピードと比べると随分早く動くそれの先端は鋭利に尖っている。良く見れば触手の内部は空洞のようで、注射針のようになっているのがわかる。

「それで、吸い取ったんだね?」

「おで、ひと、すう。おで、ひと、なる」

「人になる?」

 思いの外、スムーズに会話が進んだことに驚きながら、更に訊ねる。

「おで、ずっと、ひとり。ひと、たくさん。ひと、なる。ひとり、なくなる」

 呻き声の様な声に、熱を感じる。興奮、しているのだろうか? 長文となるとタダでさえ聞き取り難く、その意味を理解するのに短くない時間がかかった。

『俺はずっと一人だった。でも、人は沢山いる。人になれば、一人でなくなる』

 そう言った所だろうか?

 人に成りたい化物と言うのは少数派だが例がないわけではない。人として暮らし、結婚までした化物の話しは幾つかある。もっとも、その殆どが正体がばれ、悲惨な結末となるのだが。

 しかしわからないな。

「どうして、人を吸った?」

 人に成りたい化物が、人を殺す理由は大体がなりかわるためだ。皮を剥いでヌイグルミのようにしてその中に入ったり、精神を空白にして人形のように操ったり、そう言った手段の為に人に危害を加える。

 今回のように、脳味噌だけ吸って放置すると言うのは初めて聞いた。

「おで、すう。おで、からだ、すう、ある。からだ、つくる、すう。だから、ひと、すう」

 一回でその言葉の意味を理解することは適わず、私は何度も彼に同じ台詞を頼む。人と話せるのが嬉しいのか、彼は嫌な顔もせずに私のお願いに付き合ってくれた。

 彼の顔色など、私には窺い知れないのだが。

「つまり、こういうことかい?」

 そうして、五分程経った頃、私はようやく彼の言いたいことを理解することができた。

「身体は食べた物でできている」

 まずは、この前提があった。理解できる理屈だ。生物の身体は、食べ物で作られていることに疑いはない。

「そして、君は人間になりたかった」

 これが条件。人である私にはわかりえない感情ではあるが、『何かになりたい』と言う願望はわかる。それは知性ある生物の根本的な動機のような物だろう。

「だから、君は人を食べたんだね」

 最後に、結論。

食べた物がその物を造るのであれば、それを食べれば良い。

 なんて馬鹿馬鹿しい答えだろうか?

 ライオンがシマウマになるか? ベジタリアンがトマトになるか? なるわけがない。

 彼の身体はどうみても人のそれではない。ぐずぐずに腐った肉の入った袋。現代科学の法則では存在していることすらあり得ない外法の生き物。

 そして人の脳を吸い尽くす悪魔だ。

「ひと、すう。おで、ことば、わかる。おで、もう、ひと」

 嬉しそうに彼は体中を震わせて言った。その言葉が表すように、臭を放つ体は、出来の悪い人間の上半身を形作る。その造形は非常に甘く、頭のサイズはボーリング玉程なのは良いが、首は細く、三つもある。肩は右側に傾いており、腕も異様に太い。指は左右で数が違い、胴体部分は服をイメージしているのか、びらびらと襞がついている。下半身は諦めているらしく、冒涜的な肉玉のまま。

 まだ、孫娘の泥遊びの方が人間らしい人形を造るだろう。

「おで、ひと。ひと、くらす」

 そんな出来損ないの姿を、誇らしげに彼は私に見せる。

「そうかい。君は私達と一緒に暮らしたいんだね」

「そう。おで、ひと。ひと、たのしい。きらきら。すう。おいしい」

「そうかい。じゃあ、人生の先輩として、一つ教えてあげよう」

 あまり年長者風を吹かせるのは好きではないが、伝えるべきことは伝えなくてはならない。

「化物は、人にはなれないんだ」

 柄に添えていた右手に力を籠め、踏み込みと同時に一気に引き抜く。億千万と繰り返したこの動作に失敗はあり得ない。

遥かなる宇宙を旅してきた隕鉄銀を鍛え上げた刃の先に、人の肌を斬るような感触が伝わる。気にするな。躊躇するな。迷いなく斬り捨てろ。

 刃を振り切ると同時に、確かな達成感を覚える。腕が鈍っていなければ、気のせいではないはずだ。

「きらきら? ぼう? てつ?」

「化物を葬る特性のサムライブレードさ」

 油断なく隕星刀を正眼に構える。が、それと殆ど時を同じくして、目の前の化物の身体に切れ目が走る。

 紙一枚あるかないかの薄さ。親指から小指まで程度の長さ。小さな切れ目だ。

 が、どんな破滅も、小さな綻びから始まる。

 他よりも僅かに脆くなった裂け目に、化物の汚らしい中身が集中して押し寄せる。圧力は、もっとも弱い場所へとかかる。その圧力が、急所をさらに広げ、広がった急所がさらに圧力を集める。

 ぷっ、と汚泥が膜の内側から飛び出したのを皮切りに、遂に切れ目は決定的な物となった。ぶちぶちぶちと、音を立てて裂け目が大きな穴となると、中身が一斉に噴き出す。体積が減れば、おう人の形は維持できない。耳障りな音と共に、床に脳漿やら腐肉やら血が広がっていく。あの不気味な蟲も、大気に振れるとすぐに動きを止め、砂のようになって崩れていく。

 吸い集めた脳を失ったからか、それとも膜に開いた大穴が原因なのか、怪物は悲鳴の一つも上げない。代わりに、膜中におぞましく刻まれていた幾何学的な文様が徐々に薄くなっていくのが見えた。

「どうして、人間になんてなりたかったんだろうな?」

 構えを外し、鞘へと刃を収める。

 小さな呟きに、当然ながら、答えは返ってこない。

 この奇妙な生き物の残骸は、どうするべきだろうか?

 ミスカトニック大学に寄贈すると言う考えが一瞬浮かんだが、私は焼却することを選んだ。インバネスコートからスキットルを取り出し、蓋を開ける。濃い酒精の匂いが溢れ出す。中身は、黒神酒。修験道ではなく神道のアイテムだが、我が流派には様々な宗派の秘伝が組み込まれている。

 江戸時代頃からの話しだそうだが、その理由はもちろん、その方が格好いいからだ。

 スキットルの中身を適度に怪物の身体に撒くと、今度はマッチ箱を取り出す。何の変哲もない、ただのマッチだ。ご先祖様の時代は、こういった火薬類も自作していたそうだが、流石にそこまで拘る気はない。

 マッチをまとめて三本取り出し、まとめてよこぐすりで火をつける。赤い炎の揺らめきを一瞬だけ眺めた後、化物の上に放り投げる。小さな日は横に広がり、すぐに巨大な炎となる。炎は次第に緑色の煙を吐き出し、炎自体も緑色へと変わった。

 何故だかわからないが、奴らの身体は良く燃える。そして燃えた後は塵も残らない。

「『灰は灰に。塵は塵に』か。せめて、輪廻の果てにでも君が人になれることを祈っているよ」

 ただただ燃え続ける化け物を見つめながら、スキットルの飲み口を唇に当て、傾けた。唇を湿らせる程度の雫と、強い酒精の匂いが鼻孔をくすぐる。

 炎はまだまだ、鎮火しそうにない。


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― 新着の感想 ―
[一言] 読ませて頂きました。 ずっとホラーだと思っていただけに 妖怪退治になったときはびっくりしました。 読者の意表をつく良い作品だと思います。
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