吾輩は鳩である
吾輩は鳩である。名前はまだ無い。というより、人間ごときの呼称している「名前」という個体の識別方法は、吾輩にとって何の意味もない。鳩は鳩である。それ以上でもそれ以下でも無い。
人間は、吾輩がこのように高尚な思考ができるとは思ってもいないのだろう。なぜならたいていの人間はぞんざいな態度だからである。足で追い払う、物を投げる等だ。加えて「コドモ」と呼ばれる小さな人間は厄介だ。吾輩が手の届かぬ所に飛び立つまで追いかけてくる。執拗で諦めが悪い。
しかし殊勝な人間もいる。「オジイサン」と呼ばれる人間だ。吾輩に食事を提供している。
「オジイサン」は白い毛並みをしており気性は穏やかである。吾輩に友好的であり、「ショクパン」という白い塊を振舞って寄越す。あの食べ物は良い。植物の種実も美味だが、「ショクパン」は柔らかく雲のようだ。
そうやって「オジイサン」からご馳走をいただくのだから吾輩も対価を支払わなければなるまい。その為最近は、「オジイサン」の肩や手に乗ってやる。そうすると「オジイサン」は
「いやあ、私にだけこんなになついてくれるなんて嬉しいねえ」
などと言う。言葉の意味は分かりかねるが、恐らく感謝の意を述べているのだろう。
だがやはり、吾輩から見るとほとんどの人間は害悪である。人間は木々を伐採し動物の住処を奪い生活している。鳩や鴉、鼠などの都市に適応できた一部の動物以外は、生きる術を失った。数多くの犠牲によって成り立つ人間。なんと罪深き生き物だろう。
吾輩はそんな人間共の愚考を止められぬことが歯痒い。だがどうすることも出来ぬ。鳩である吾輩と人間には体格、文明の差もある。しかし何より、鳩である吾輩ではこの高尚な思考を長く留めておくことが出来ぬからである。人間の諺に「鶏は三歩歩けば忘れる」とあるが、それは間違いである。鶏については詳しく分からぬが、我々鳩の場合はその限りではない。人間の時間にするとおよそ二分と言った所だろうか。それ以上は記憶が保た……
……吾輩は鳩である。名前はまだ無い。というより、人間ごときの呼称している「名前」という個体の識別方法は吾輩にとって何の意味もない。鳩は鳩である。それ以上でもそれ以下でも無い。
お楽しみいただけましたでしょうか。
「鶏は三歩歩いても忘れないだろ」と、あることわざに疑問を持ち、この作品を思いつきました。