彼女の彼女の彼女の、
掲載中の短編小説「彼女の言葉は真実か」→「彼女の言葉の裏側に」続編です。宜しければ先に前二編ご一読下さい。
重い湿度をたっぷりと含んだ夏の夜。あくまで現実主義を自負する俺の前に、伶俐な空気を纏った黒髪の女が佇んでいる。
彼女は左手に何かを持っている。だが俺にはそれが何か分からない。何かを持っている。『何かを持っている』ということだけしか分からない。
その物体が『なに』か、俺には考えることができない。まるで脳の一部分だけ、麻酔がかかっているように。
あれは一年前だ。
彼女は前触れもなく現れて、俺を『殺しに来た』と言った。自称『死神』だなんていう、悪趣味なロマンチストだ。
俺は誰かに命を狙われるような憶えはなかったが、彼女を気に入ったから迎え入れた。はいどうぞと殺されてやるつもりは毛頭なかったが、俺のこれまでのみみっちい人生と、この『死神』との駆け引きを天秤にかけた時、彼女のどこか諦めきったような気怠い魅力が勝ったのは確かだ。
―殺しに来たけど、生きたかったら逃げてもいいわ。
彼女はそう言った。
―随分寛大な死神だな。
俺が笑うと彼女は意外なほど真剣に目を伏せた。
それから丸一年。その『死神』は、ふとした時に現れて気付くといなくなっているという全く理解し難いシチュエーションを繰り返していた。一体どこから現れてどこへ帰るのか俺は知らない。そもそも俺の知った事ではない。ただ分かっているのは俺の行動が彼女に筒抜けらしいということだ。でなければそんなに都合良く顔を出せるわけがない。
付かず離れず、絶対的な存在を感じるのに捕らえることは出来ない。
ほらまた今夜も。
「こんばんは」
振り返る先に彼女がいる。いつの間にこんなに近付かれたのか分からない。
「おう」
「今日も無防備ね」
会う度に言われる言葉だ。今日も無防備ね。無防備でいることを咎められている気がする。
俺は明日も無防備でいようと思う。その言葉が唯一、彼女の生身の言葉に聞こえるからだ。
「ねえ、まだ、…明日があると思ってる?」
それは夏と形容される季節ごと凍るような、何の感情もない口調だった。
ああ。そうか。
彼女は優秀な野良猫に似て、音もなく俺に近付いてくる。近付いてくるのが見える。が、気配はない。
不穏な光を宿した、いっそ芸術と呼びたくなるほど深い、黒の瞳が、俺を捕らえる。
「逃げないの」
彼女が囁く。俺は笑った。
狂ってるのは俺だ。彼女じゃない。
「逃げて、くれないの」
そう言われて、どのぐらい心地良いか教えてやれたら。
彼女の左手が視界を横切った。不思議な衝撃と、浮遊感が俺を包む。最後に見た彼女の顔は、ずたずたに傷付いて見えた。
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