新王国暦524年
その場所は、アティス大陸の西方に広がる大平原――“虹の平原”の東北部に位置する森林地帯――“風の森”と称される場所。……そこは、風の妖精族たるフェアリー族の王国の一つである、「妖精公国」としても知られている。
その“風の森”の外延部に幾体もの人影があった。その人影は、その背に蝶の翅に似た翼を持ち、その手には細剣や短槍あるいは弓を手にしている。
その一団は、若き貴族種のフェアリー族であり、この森――「妖精公国」において騎士位を授けられている者たちであった。
彼等は鋭い気を纏いながら、先頭を駆ける人物のあとに続いた。
長くも短い疾走の後、先頭に立つ人物は不意に立ち止まり、上空を振り仰いだ。
「!! ……来るぞっ!! 総員、戦闘準備っ!!」
その人物――妖精騎士たちの長が発した叫びに、一同は上空を振り仰いだ。間髪入れずに、ある者は得物を握る手に力を込め、ある者は精霊魔法を行使する為の詠唱準備に入った。
彼等の振り仰いだ先に在ったもの……それは、“風の妖魔”、或いは“空の悪魔”の異名で恐れられる者ども。槍や矛で武装したグレムリン族の群れであった。
その先鋒である一体が放った槍の一撃を、妖精騎士の長が得物の細剣で受け止めた瞬間から、戦闘の火蓋は切って落とされた。
この“風の森”に住むフェアリー族――より正確にはノーブル・フェアリー族と、アティス大陸の上空を放浪するグレムリン族の戦いは、何も昨日今日始まったことではない。
その起源は、神代の終焉となった“神魔大戦”の時代まで遡ることができよう。
この大戦において、グレムリン族の始祖たる“最も高みに至りし者”、ルドル=ディヴォルストームが魔王の一人である“邪妖の女王”ガルドフィリアの元に降り、魔王軍の空戦における将となった。それに対して、フェアリー族の始祖で「妖精王国」初代女王フィアリア=ドーンウィンドは、流転神メルクリードに庇護を求め、その元で「妖精王国」の者たちは神人軍の一角を担うこととなる。
そして、同じく“風の精霊界”を故郷とする種族同士であった両者は、この大戦で熾烈な争いを繰り広げたのだった。
この戦いの終結以後も、両種族は歴史的な対立を続けている。それは、歴史的背景とともに、彼等種族の持つ矜持――あるいは倫理観の相違と言ったことも原因となっている。そして、それ以外にも原因はあるのだが……
さて、話を先程の戦いに戻そう……天空での戦いではグレムリン族が優位とは言え、今は森の木々の陰に潜んで戦いを行う妖精騎士の側に地の利があった。
自身の不利を悟った“空の悪魔”――グレムリンたちは、遥か上空へと撤退していく。
敵が去っていった空を見上げつつ、妖精騎士の長たる男性は、周囲にいる騎士達へと命を発した。
「よし! これで撤収する。……これから告げる者以外は帰還せよ。」
そして、彼はその場にいる者達――妖精騎士達の半数の名を挙げていく。「……以上だ。急ぎ帰還しろよ、“炎の満月祭”まであまり日が残っていないのだからな。」
「「「はい!!」」」
騎士長の言葉に一斉に頷くと、名を告げられた騎士達は来た道を引き返していった。
妖精騎士たる彼等は、公国の防備のみならず、公国の働き手としての役割があるのだ。
森の奥へと駆け去る者たちを見送り、騎士長は残った者へと振り返る。「これより、再度の来襲に備えて警戒を行う。一同散開せよ。」
その掛け声の下、残った妖精騎士たちは森の中へと散っていった。
暫しの後、先の戦いに程近い樹上に、物憂げな様子で空を見上げる女性の姿があった。
青い蝶の如き翅、草色に染められた皮鎧に細剣を佩いている。彼女は、先の戦いに参戦していた妖精騎士の一人だった。
そんな彼女の元に舞い降りる人影……先の戦いで妖精騎士を指揮していた長だ。
舞い降りて来た彼に向かい、彼女は声をかけた。
「あ……兄様……」
「任務中だ……その呼び方をするな。『騎士長』と呼べ。」
生真面目にそう返した騎士長――彼女の兄の言葉に、彼女は小さく笑いを漏らした。
それを見た彼――騎士長は憮然とした様子で溜息を吐く。「……笑うなよ。もっとも、もうすぐこんな風に叱り飛ばすことは出来なくなるか……」
「……兄様。」
その呟きに、彼女は眉を顰めた。
彼女の名は、ポリー=ポーラ=ブライトウィンド。妖精公国の有力家の一つであるブライトウィンド伯爵家の当主、ポーラ=フィーラ=ブライトウィンド伯爵の娘である。
そして、彼――騎士長の名は、ポール=ポーラ=ブライトウィンド。
ポリー=ポーラ=ブライトウィンドの兄にして、ポーラ=フィーラ=ブライトウィンド伯爵の息子である。
今の二人に与えられている公国の爵位は、最下級の騎士爵であり、年長であるポールが上位者となっているが、女性上位の公国――いや、フェアリー族の国家と言うべきか――においてこの状態は長くは続かない。
貴族種のフェアリーは、成人すれば一様に騎士爵を与えられる。そして女性は、嫡子であればある程度の時の経過を待って、爵位は順次昇格して家の爵位を継ぐ。嫡子ではなくとも、公国に功績を認められれば、爵位を昇格される機会は少なくない。
だが、男性に関しては、それらの例は当てはまらないと言って良い。
彼等の多くは、騎士爵のまま爵位が昇格することはない。もっとも、年長の男性は、妖精騎士達を率いる将軍等の地位に着くことも多々ある。そういった者でも、良くて「男爵位を取れるか否か」といったところで、社会的・政治的に重要な立場に立てることは殆どないのだ。
それらの例に漏れず、これから数巡り後に開かれる“炎の満月祭”の宴で、ポリーはブライトウィンド女爵位を授けられることが決まっている。そうなれば、ポリーとポールの立場は逆転することになるのだ。
そのことを指摘され、彼女は少し恨めしげな視線を自身の兄に向ける。そんな彼女の視線を受け、兄は素直に謝罪の言葉を口にした。
「すまない。言葉が過ぎたな……」「……いいわ。本当のことだから。」
そう言葉を交わした後、二人の間に沈黙が漂う。仄かな日の光と柔らかな風が、二人の間を暫し流れていく。
長くも短い沈黙の後、それを破ったのは彼――ポールの方であった。
「……何を……考えていた?」
「彼等を……グレムリンたちのことを――」
「……グ、グレムリン?」
妹の返した答えに、ポールは怪訝な様子を見せる。そして彼女が続けた言葉に、彼の表情は怪訝のものから唖然としたものへと変わった。
「彼らの言い分にも納得できると思えるから……彼らの高空を放浪する生活こそ、風の妖精としての誇りを体現していると思えない?」
「……何だって!?」
「何者にも囚われない……これこそ、風に属する者だと言えないかしら? そんな彼らグレムリンたちにしてみれば、私たちのことを『誇りを失い堕落した者』に見えるのも当然かも知れない……」
「……お前、何を言っているんだ!?」
妹の発言を、彼は狼狽の色濃い声で制した。
「そう、思っただけよ。他意はない……」
彼女は素っ気無く答える。
「そんなこと、母上や他の方々の前で喋るなよ……『気が触れた』と騒がれる。下手をすれば、処刑されかねんぞ。」
「分かっているわ……」
それだけ言うと、二人の会話は途切れた。
ノーブル・フェアリーの兄妹がこのような言葉を交わしているのとほぼ同じ頃、“風の森”から程近い場所の高々空を翔る、幾多の人影があった。
それは先程まで“風の森”を攻め入っていた“風の妖魔”――グレムリン族の者たちである。
彼らの先頭を飛翔する者へと近付く一体のグレムリンがあった。先の戦いで、その先端を切った戦士である。
「兄者……」
「……ゲリューズか。」
近付いた戦士に微かに振り向いた彼は、戦士に聞こえる程度の小さい呟きを漏らした。
先頭を翔けるグレムリンの名は、ゲシュラード。ダーキッシュブラスト一族の一集団を率いる“刃の長”――戦士長だ。
そして彼に近付いた戦士は、ゲリューズ……ゲシュラードの弟である。
「……何を考えている?」
「何が言いたい?」
兄弟の間に、暫し訝し気な視線が錯綜する。口を開いたのは弟の方であった。だが、この会話は背後に続く者たちには、はっきりと聞き取られぬ程度の声で発せられた。
「兄者、妖精公国に度々攻め入るのは分かる……だが、何故本気で攻め入らない?」
「ほぉ……本気でないと何故言える?」
弟の発言に、兄は微かに牙を剥き出して――微笑んで――見せた。その様子に、少々向きになった弟が言葉を返した。
「敵や味方に手傷を負った者が出れば、さり気なく退く為の指揮に変えているだろう……?」
「……そうか、やはり気付いていたか。」
「フェアリーどもを殺す気もない癖に……何故、あそこに攻め入るんだ?」
「それはな……フェアリーのやり方を学んでみることを考えているからだ。」
「!? ……奴等のやり方を、学ぶ?」
兄の言葉の意味を理解できないと言わんばかりに、ゲリューズは声を漏らす。そこに兄――ゲシュラードが問いかけた。
「何故、奴等――フェアリーが他の亜人どもと争うことなく暮らせるのだと思う?」
「……何故?」
その問いかけに、ゲリューズの言葉は一時途絶えた。
さて、話から少し離れたことを語ろう。
彼等――グレムリン族は高々空を放浪するという生活を営んでいる。……当然ながら、その生活形態の基本は狩猟によって成り立っている。
いや、この言い方は正確とは言い難いかも知れない。彼らが生活の基としている行為の正確な表現は、「略奪」と言うべきだろう。
彼等は食料だけでなく、その他の生活物資や武具の類までも自ら生産することは殆どない。それらの入手には、人間を始めとする亜人種の集落を襲撃することで調達しているのだ。
当然のことながら、それらの調達――略奪を行うに際して、大なり小なり相手との戦いが必要となる。
対して、フェアリー族は貴族・平民の二種に分かれて異なる暮らしを送っている。
貴族種は森に定住し、平民種は地上の各地を放浪して暮らしている。森に住む貴族種は、人間等との関係に一線を引き、森の恵みをその生きる糧とし、一方で各地を放浪する平民種は人間等との共存している。
グレムリン族の視点からすると、そんな彼らの生活形態――平民種のそれはともかく、貴族種の一つ所に留まり、旅を伴わない生活形態は、“風の妖精”のそれとは言えなかった。
「……それは、“風の妖精”の誇りを無くしたからだろう?」
長い思案の後、戦士――ゲリューズはそう答えた。
「奴等が本当に“風の妖精”の誇りを捨て去ったと思うのか?」
「……?」
返された言葉に、ゲリューズは眉を顰める。
「奴等は“風の妖精”の名を捨てていない。それは、“風の妖精”の誇りを捨てていないということだ。」
ゲシュラードの言葉に、弟の眉は更に顰められる。その曇った表情を承知しつつも、彼の言葉は続いた。
「奴等は、自分たちの糧を得る地を確保することで、多種族との争いを回避しているのだ。」
「……な!?」
その言葉に、ゲリューズは目を見開いた。
驚きに返す言葉を忘れた弟に向け、兄は一つの言葉を呟いた。
「俺は、あの森の一角を、我が氏族が糧を得られる場としたいのだ……」
その呟きは、背後に続く“風の悪魔”の一群に聞こえることはなかった。
時は流れ、“炎の満月祭”まであと数日という日になった。
“炎の満月祭”とは、火竜の月の第一日――朱の月と蒼の月、二つの月ともが満月となり、光の太陽が天上に最も長く留まる日――を中心とした前後二巡りの期間に行われる、夏の始まりを祝う祭りである。
その日の夕刻、“風の森”の外縁部の一角……“ブライトウィンドの森”――あるいは“ブライトウィンド伯爵領”とも称される――の一角、その中の外縁に生える樹の上に座る妖精騎士――ポリーの姿があった。
彼女は森の警備を理由に、他の者から離れた場所へとやって来ていた。
今、森の中心では、宴の準備に多くの貴族種のフェアリー達――ブライトウィンド家と、その配下となっている下級貴族家の女性たち――が慌しく動いている。そんな女たちの姿を見るのが嫌で、彼女はこの場所にいた。
遥か西の地平に沈む光神竜――太陽をしばし眺め、彼女は頭を振り仰いだ。徐々に暗さを増していく空には、朱と蒼の巨人の瞳――“朱の月”と“蒼の月”――が静かに地上の様子を睥睨している。
自分を見下ろす天体の輝きを浴びながら、次第に夕闇が色濃く移り変わる空を、ポリーはただ見上げていた。そして、視線を落として森の向こうに広がる、夕闇に塗り込められた西の平原を眺めやった。
彼女は視界に広がる地を見ながら、物思いに耽っていた。妖精公国の名門であるブライトウィンド家の嫡子として生まれたポリー・ポーラであったが、彼女は常々他の貴族子女から、「貴族らしからぬことを言う」と言われていた。
ポリー自身は、そんなつもりは毛頭ないのだが……
物思いに耽るポリーの近くで、何者かが翔く音がした。
「……!?」
身を硬くし、腰の細剣に手をかけた彼女にかけられたのは、訛りの潜むフェアリー語だった。
「待て……そなたの身を害するつもりはない。」
その声に潜む訛りと翼の音から、彼女は声の主が何者かを察した。
「! ……グレムリン!?」
「……そうだ。」
振り返ったポリーの視界の先、隣の樹の木陰から獣の如き鋭い瞳が彼女を見据えていた。
その鋭い瞳と、気配もなく背後を取られたことに、彼女の背に冷たいものが流れた。
「……何の……用なの? こんな場所に……」
辛うじて搾り出された彼女――ポリーの声とは裏腹に、グレムリン――ゲシュラードは落ち着いた低い声で答えを返した。
「……お前と話がしてみたくなった。それでは、不満か……?」
「何故……?」
「お前が、他のフェアリーと違って見えたからだ。……“風の妖精”らしく、放浪の旅にでも出たそうだったからな。」
ゲシュラードの言葉に、ポリーは硬くしていた身を徐々に震わせる。そして、紅潮した顔で“風の妖魔”を睨み付けた。
「勘違いしないでっ! 放浪の旅に出たくないフェアリーなんていないわよ! 私たちだって“風の妖精”なのよっ! 平民種と同じように、あちこちを流離い歩く生活を送ってみたいと思うわよ……っ!」
大声で叫んだポリーは、ふと我に返り、グレムリンから視線を逸らせた。「……でも、私たちはここを守らなくちゃいけないの! 皆、ここに帰って来るんだから……」
彼女の言葉を聞いたゲシュラードは、不意に翼を拡げた。その行動に目を見張るポリーに小さく囁く。
「良い話を聞いた……他の者が近付いているようだから、退散させて貰う。」
そう言うと、彼は瞬く間に上空遥か高みへと飛び去っていった。
その飛影を見上げながら、ポリーは不思議な感慨を覚えずに入られなかった。
そんな彼女の耳に、兄の声が届いたのは間もなくのことであった。
これが彼女と彼――“少女”の両親の出会いであった。