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火の国より来たる者(2)


 日常はすぐに押し寄せて、いつもの忙しない朝がやってきた。

 菜園の世話は早朝、日の射す前からはじまるし、そのためにはもっと早い時間に水汲みをしておかなくてはならない。洗濯や掃除や竈の番、危なっかしい手つきでの繕いもの、そうした雑事のくりかえしの日々。けれど、それらの時間は、以前とすっかり同じものではなかった。

 表面的にはなにひとつ変わっていない。それでも日々のささやかな出来事をとらえるわたしの心は、以前と少しずつ違ってしまっていた。

 菜園で、頭上から降り注ぐ光を受けるたびに、これよりもずっと眩しいのが当たり前だという、火の国のありように思いを馳せずにはいられなかった。ヤァタ・ウイラの足元に刻まれた模様を眺めているとき、天高くに数え切れないほど輝くという、星々のすがたを空想した。

 写本をつくるために、紙束を前に羽根ペンを手にしているときだけが、以前とまったくかわらなかった。心は自然と針のように引き絞られて、目の前の作業に集中した。紙もインクも、とても貴重なものだ。気を散らして書き損じるなんて、とんでもない話だった。

 けして間違いのないよう、一字一句に心をとぎすませて、わたしは古い書物を引き写していった。言葉が古くてわかりづらい言い回しがあれば、紙の余白に注釈を加える。虫に食われたり、インクが劣化して読めなくなった箇所は、導師と相談しながら失われた言葉をさぐり、ときには空白のままとして先に進んだ。写本を作る作業が、わたしはとても好きだった。ひとつの記録と濃密に向きあう、その時間が。

 まだ十四歳だったわたしにとって、一年というのは、途方もなく長い時間だった。そのあいだ、わたしは何度も何度も使者の語った言葉を思い返した。

 火の国には水が乏しいという一方で、なぜ彼らは毎年、あれほどたくさんの品々を運んでこられるのだろう。火の国の天に輝くというしるべの名前が、なぜわたしたちの暦や、わたしの名前に使われているのだろう。考えることはいくらでもあって、けれど、そのほとんどが、答えのみつからない問いだった。

 ひとりで考え込む時間が増えるにつれて、母さんのため息も増えたようだった。けれどその頃のわたしには、人のようすを気にするだけの余裕もなかった。新しく目の前に開けた世界に、夢中だったのだ。

 ようやく母さんの態度の変化をはっきりと意識したのは、その年も終わりに近づいてからのことだ。



 ある日、乾いた洗濯物を抱えて部屋に戻る途中で、誰かの話し声が聞こえてきた。

 声は、知っている人のものだった。ひとりはカナイの母さん。もうひとりはその兄、つまり、カナイの伯父だった。

 盗み聞きをするつもりはなかったのだけれど、部屋の前を通るあいだ、いやでも会話は耳に飛び込んできた。

「カナイにもそろそろ、相手をみつけてやらなきゃならんのだろう」

 わたしは一瞬、部屋のほうを横目に見た。姉さんの縁談がなかなか決まらないという話は、その前にも何度か耳にしていた。

「それがなかなか、いい人がいないのよ」

「バルトレイはどうだ。あれは真面目な、いい男だぞ」

 バルトレイ。その名前は、わたしも知っていた。

 成人前の男の子たちは、ユヴの月になると、この邸に学びにやってくる。ふつうはそのひと月のあいだに限ってのことだけれど、ときには書物に興味を持って、そのあともここに通うようになる人がいる。

 そういう男の人たちがいまも何人かいて、その中から誰かがいずれ、導師のあとを継ぐことになるだろうといわれている。バルトレイは、その中のひとりだった。わたしは直接話をしたことはないけれど、ときどき導師がおっしゃるのを聞くかぎりでは、カナイの伯父のいうとおり、気持ちのいい人物のようだった。

「だめなの。あの人はカナイにとっては、父方のはとこにあたるのよ」

 カナイの母さんはそういって、ため息を落とした。「ままならないものね」

 三代さかのぼるまでに父祖を同じくするものとは、婚姻をゆるされない。その戒律は、わたしも知っていた。

 けれどずっと昔には、そうではなかったのだそうだ。

 わたしたちの祖がこの地に移り住んできたという、あの古い物語のなかには、いとこ同士であるという夫婦が登場した。不思議に思って、導師にお尋ねしたことがある。古い時代にはそうしたことは珍しくなかったようだと、導師は教えてくださった。

 いつ頃から、どうして禁じられるようになったのか。気になるならば、自分で調べてごらん。導師はそうも仰った。古い記録を順に紐解けば、そうした戒律が出来たのは、いまから三百年ほど前のことのようだった。そしてそれは、当時の火の国の使者よりもたらされた助言なのだという。そうすることが何の役にたつのかは、記録の中には見当たらなかったのだけれど……。

 ともかく、その戒めがさまたげとなって、姉さんの婚約は、なかなか決まらないらしかった。カナイの曽祖父というひとには、とてもたくさんの子どもがいたのだそうだ。そのためにカナイには、血縁のある人が多い。

 部屋の前を通り過ぎていくらもいかないうちに、当のカナイが向かい側からやってくるのが見えた。

「姉さん」

 わたしはとっさに、カナイを呼び止めていた。このまま歩いていけば、二人の話が聞こえてしまうに違いなかった。そうなればカナイの機嫌は悪くなるだろう。

 なかなか相手が決まらないことを、姉はどうも、屈辱的なことのように感じているふしがあった。まだ嫁ぐのに遅すぎるという年齢ではないし、相手が決まらないのは、カナイのせいではないのだけれど。

 足を止めて、カナイは怪訝そうな顔をした。それもそうだろう、わたしのほうからカナイに話しかけることは、近ごろではあまり多くなかった。

「なによ」

「母さんを見なかった?」

 とっさの思いつきでそうたずねると、カナイは迷惑そうに首をすくめた。「さあ、知らないわ」

 そう、とあいづちをうったはいいけれど、あとに続ける話は何も思い当たらなかった。迷っていると、カナイのほうから口を開いた。

「それより、あんた、まだ洗濯も終わらせてなかったの? あんたひとりだけ裁縫も料理もへたなんだから、せめてほかのことぐらい、手早くこなしたら?」

 とげのある声でそれだけ言い捨てると、カナイはさっさと歩き出してしまった。

 わたしはため息をついて、自分の手の中の洗濯物を見つめた。

 どうしてカナイはわたしを嫌うのだろう。

 カナイが誰にでもおなじように意地の悪い口をきくのなら、がまんできる。でも、ほかの姉さんたちとは、仲良くしているのだ。ちょっとした失敗を、いちいち咎め立てることもなく。

 わたしの何が、あんなにカナイを苛立たせるのだろう。手先が不器用なことが? それとも、おかしなものばかりに興味をもつことが?

 いつからわたしたちは、こんなに険悪になってしまったのだろう。わたしは肩を落とした。昔からずっとそうだったわけではなかった……。

 わたしは気を取り直して、顔を上げた。わたしたちの交わした声はそれなりに大きかったから、向こうで話していたふたりも、カナイがいることに気づいただろう。

 カナイの相手が、早く決まるといい。あまり褒められたことではないかもしれないけれど、そのころ、わたしはよくそんなふうに考えていた。カナイも嫁いだあとまで、わざわざわたしに意地悪をいうために顔をだしたりはしないだろうから。



 そんなことがあってから、数日も経たないうちだった。じぐざぐになってしまった縫い目を相手に、わたしが苦戦していると、母さんが自分の針を止めて、ふと思い出したようにいった。

「そろそろあなたの嫁ぎ先のことも、考えなくてはならないわね」

 わたしはぎょっとして顔を上げ、その拍子に針を指に刺した。

「ほら、気をつけて。なにやってるの」

 わたしは慌てていった。「母さん、わたし、まだ十四よ」

 だけど、母さんは眉を吊り上げた。

「早すぎることはありませんよ。それに、話が決まってすぐにお嫁にいくわけではないもの。準備だっていろいろあるのだし」

 カナイの件といい、母さんたちが急にそろってそんなことをいいだしたのには、理由があった。エオンの月が迫ってきているのだ。

 婚礼は毎年きまって、エオンの月に執り行われる。去年はイラバが嫁いでいった。今年は、いまいる姉たちのうちで一番年かさの姉、シーリーンが。いま母さんが縫っているのは、その祝いに贈るための壁掛けだった。

「だけど、母さん」

 わたしが抗議の声を上げると、母さんは眉をひそめた。それでもくじけずに、わたしはいった。「わたし、お嫁になんか行きたくないわ」

「馬鹿なことをいわないの」

 母さんがそんなふうに強い剣幕でものをいうのは、めったにあることではなかった。わたしは首をすくめたけれど、引き下がりはしなかった。

「だって、お嫁にいったら、もう本は読めないのでしょう」

 母さんは手にしていた縫い物を床に置いた。その表情は、初めて見るくらい、険しかった。

「本を読むのが、お前の仕事ではないのよ」

「だけど……」

「わきまえなさい」

 ぴしゃりといって、母さんは首を振った。「いつまでもここにご厄介になっているわけにはいかないのよ」

 ぐっと言葉に詰まって、顎を引くと、母さんは眉間を指先で押さえて、ため息をついた。

 わたしは邸の厄介者なのだろうか。その考えは、ひどい悲しみをわたしにもたらした。導師はわたしがいつまでもここにいたら、お困りになるのだろうか……。

「トゥイヤ、よく聞きなさい。嫁いで子どもを産み育てるのは、すべての女の大切なつとめなのよ。いい家庭を作って、幸せになることもね」

 ふっと声音をやわらげて、母さんはいった。「心配しなくても、かならずいい人を探してあげるから。あなたを不幸せにするような、おかしな人のところになんて、お嫁にやったりしませんよ」

 わたしを安心させようとするように、母さんは微笑んだ。けれどわたしの心はちっとも晴れなかった。

 母さんは矛盾したことをいっている。二度と書物に触れることもなく、この世界について新たに何も学ぶことができないというのなら、夫となる人がどんなにいいひとだろうと、わたしの幸せはそこにはない。

 だけどわたしがそういうと、母さんはそんなものは甘えだといって、また眉を吊り上げるのだった。

 母さんが、わたしのためを思ってくれているのはわかっていた。だけどわたしは嫁ぐ相手に不満があるのではなく、このお邸を出てよそに嫁ぐということそのものが、嫌でたまらないのだ。

 微笑んだまま、母さんはいった。

「不安に思うかもしれないけれど、子どもを持ってみればわかるわ。わたしはお前を産んで、とても幸せでしたよ」

 話がかみ合わないのが悲しくて、悔しくて、わたしはそれこそ子どものように、声を荒げてわめいた。「そうじゃないの。そういうことじゃないのよ……」

 いいあう声は、響いていたらしかった。次の日になって、姉さんたちにからかわれた。

「おかしな子ね。わたしは早いことお嫁にいきたいわ。この辛気臭いお邸をさっさと出て!」

 そう明るく笑ったのは、三番目の姉だった。

「あんたの母さんのいうとおりよ。ここを出て行きたくないなんて、そんなのあんたが甘ったれてるだけだわ。どうせおおかた、男のひとが怖いんでしょ」

 カナイは鼻の頭にしわをよせて、そんなふうにいった。「自分の父親だって知らないんだから、無理もないかもしれないけどね」

「カナイ、それはあんまり意地悪ないいかただわ」

 シーリーンが眉をひそめて、そんなふうにカナイをたしなめたけれど、わたしは打たれたように固まっていた。カナイは鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまった。

「大丈夫よ、きっといいひとが見つかるわ」

「そうよ。心配いらないわ、うんと優しくて、トゥイヤのことを大事にしてくれるようなひとが、きっと見つかるから」

 ふたりの姉さんたちは、口々に慰めてくれたけれど、それらの言葉はわたしの心に、ろくに届かなかった。

 カナイのいうとおりなのだろうか? わたしは黙り込んだまま、そのことを考えた。父さんは、わたしが生まれる少し前に死んでしまったという。わたしは生まれたときから、ずっとこのお邸にいた。たまたまほかの姉さんたちにも、兄や弟はいないし、導師にも子どもがない。だから、わたしにとって男の家族は、導師ひとりだった。

 わたしにとっては、ずっとそれが当たり前のことだったけれど、姉さんたちは違う。姉さんたちにはみな、多かれ少なかれ、それぞれの父さんが生きていたときの記憶がある。それまで暮らしていた場所、ここではない家についての思い出が。

 だからわたしは、こんなに嫁ぐことがいやなのだろうか? 男のひとのことを知らないから、漠然と不安を感じているだけなのだろうか。だから姉さんたちのように、恋物語に強く心を惹かれたりしないのだろうか。

 たしかな答えは、すぐに見いだせそうにはなかったけれど、わたしはひとつ、大事なことに気がついた。少なくとも、母さんはそう思っているのだ。

 そう考えれば、これまでの母さんの頑なな態度のわけが、わかったような気がした。

 もうすぐお嫁にいくシーリーンが、ぽつりといった。

「不安になるのも、ちょっと、わからないではないわ」

 とっさにわたしが縋るような目を向けると、シーリーンはわたしを安心させるように、微笑を返した。「でも、大丈夫よ。イラバだって、いい人のところに嫁いだじゃない」

 わたしは落胆して肩を落とした。

 誰にもわかってもらえないのだと、そう思った。悲しくてたまらなかった。姉さんたちは、書物にも、その中に記されている世界のありようのことにも、ちっとも興味がないのだ。本が読めなくなるということが、わたしにとってどれだけつらいものなのか、誰もわかってはくれない。

 それに嫁いでしまえば、もう使者さまとお話しできる機会だって……。

 けれどそれは、誰にもいえないことだった。母さんにも、姉さんたちにも。

 ほかの人には絶対にいわないでと、そんなふうに秘密をわかちあえるほど親しい女の子は、わたしにはいなかった。ただのひとりも。

 菜園や水場、あるいは竈で、近くの家の女たちとは、毎日のように顔をあわせる。年の近い子も何人かいる。雑事の合間に、ちょっとした短い会話をかわすことは多い。だけど、それだけだった。

 彼女たちの興味は、まだ見ぬ婚約者や、恋物語や、そうでなければ彼女らの家族のことに限られていた。わたしは本ばかり読んでいる変わり者で、そのうえ、導師のお邸の娘なのだった。

 何も、特別に避けられたり、嫌われたりというようなことではない。けれど彼女らとわたしのあいだの距離は、いつまでも埋まることがなかった。わたしがほんのちょっとでも真面目な話をすると――それが書物のことや、導師のお話のことではなくて、たとえば菜園に埋める肥料のくふうだったり、暦のなかに見出した不思議な法則のことだったりといった、彼女らにとってもけして全くの無縁ではないはずの内容であっても、彼女らはちょっと目を瞠って、首をかしげるのだ。トゥイヤはとてもかしこいのね。あなたのお話は難しくて、わたしにはよくわからないわ。導師のおそばで育ったひとは、やはり違うわね。

 そう、非はいつだって、わたしのほうにあるのだった。自分でも、よくわかっていた。ほかの女の子たちが好きなことに興味をもてず、皆が関心のもてないことばかりを愛するわたしがいけないのだ。

 どうしてわたしひとり、こんなふうなのだろう。

 ことさらに天邪鬼になって、わざとみんなと違うことを好きになろうとしたつもりはなかった。気づいたときには、皆が好むことをあまり好きになれず、皆があたりまえにできることがうまくやれなかった。人より得意なこともいくつかはあったけれど、それはほとんど誰からも喜ばれず、姉さんたちを呆れさせ、母さんの眉をひそめさせるばかりで。

 わたしが情熱をもって語ることを、導師だけはいつだって微笑んで聴いてくださる。だけど導師は誰のいうことにだって、やさしく耳を傾けてくださるのだ。わたしのいうことは、ほかのひとにはいつだって、まともに理解されることも、共感されることもなかった。しかたのない子ねと、やさしく呆れられることはあっても。

 そう、ヨブ・イ・ヤシャル、あの方のほかには。

 あのひとがわたしの話に興味があるといってくれたことが、わたしには、とても大切だった。たとえそれが、単なるものめずらしさのためだったとしても。

 遠く離れた国の使者さまには伝わる言葉が、いつも一緒にいる母さんや姉さんたちには、どうしてこんなにも伝わらないのだろう。

 いくらそばにいても、たくさん言葉を交わしても、本当にいいたいことをちっともわかってもらえないのは、もどかしくて、寂しい。

 そんなふうに思うのは、とてもぜいたくなことだ。わかっている。この邸のなかでいちばん末のわたしは、母さんたちからも、姉さんたちからも、よけいに甘やかされて、可愛がられてきた。それなのに、それ以上の何を望むというのか。そんなのは、ただのわがままだ。

 だけど、わかっていても、わたしはいつでも寂しかった。

 わたしはずっと、理解者に餓えていたのだ……。



 エオンの月が目の前に迫り、ひと月をかけての婚礼がはじまろうとする頃になると、わたしはため息をつくことが増えた。シーリーンが嫁いでしまったら、寂しくなる。

 当のシーリーンはというと、毎日とても忙しそうだった。婚礼衣装を自分で縫うのが近ごろの流行りだったし、そのほかの嫁入り道具だって、いくら支度をしても、しすぎることはないのだそうだ。あれこれと忙しなく母さんたちに相談するシーリーンの声は、いつも明るく弾んで、新しい暮らしへの期待に満ちていた。

 姉さんたちにとっては、このお邸は仮の住まいで、いつか出て行くべき場所だった。わたしだけが多分、そのことを本当にはわかっていなかった。

 それを思えば姉さんたちが、学ぶことにあまり興味をみせなかったのは、賢明なことだったのかもしれない。好きになってもしかたのないものから、距離をおくというのは。

 そんなふうに考えると、自分がいかにも愚かしく、みっともないように思えてきて、気分は重く沈んだ。

 ふつうの衣服や日用品につかう布は、水草からつくる糸で織るけれど、婚礼衣装のそれは、火の国よりもたらされた、特別の布をつかう。滑らかな手触りの、白い布だ。縫いあがった衣装を、試しにまとってみせたシーリーンは、美しかった。

 いよいよ明日からエオンの月になるというその晩、イラバが邸に泊まりにきた。前に嫁いでいった姉さん、わたしにとっては血の繋がった唯一の姉だ。

 シーリーンも嫁いでしまうし、久しぶりに姉妹でゆっくり過ごそうということのようだった。イラバはその腕に、ちいさな男の子を抱いていた。姉たちは歓声をあげて、かわるがわる赤ん坊を抱いた。

「みんな、元気そうでよかったわ。もっと早くに顔を見にきたかったのだけれど、一度出てしまうと、ここはなかなか敷居が高くて」

 そういって微笑んだイラバは、以前よりも、少し痩せたようだった。

 その腕に、青黒く変色したあざがあることに、誰もがすぐに気づいた。ちょっとね、といって、イラバはわけを話そうとしなかったけれど、おそらく赤ん坊の父親が原因だろうということは、誰もが察していた。婚姻のときにはとても優しそうに見えた、イラバの夫。だけどそれを口に出してしまえば、いまからまさにお嫁にゆこうというシーリーンの幸福に、水をさすことになる……。

 わたしは口を引き結んで、姉さんの腕にしがみついた。

「あらあら、小さな子どもみたいね」

 イラバはそう笑ったけれど、わたしはその手を放さなかった。

 間近でみるわたしの甥は、まだ歯も生え揃わないようすだった。その丸い頬にそっとさわると、赤ん坊の肌はおどろくほどすべすべしていて、やわらかかった。くすぐったかったのか、赤ん坊は声を上げて笑い、わたしの指を、そのちいさな手で掴んだ。よだれでべとべとした指がくすぐったくて、わたしは戸惑った。

「可愛いでしょう?」

 イラバが微笑んでそういうのに、頷き返しながら、わたしは唇を噛んだ。母さんのいったことを思い出した。たしかに、子どもは可愛い。だけど……

 姉の腕に広がる痣に、わたしはそっと触れた。イラバは困ったように笑った。

「たいして痛くないのよ。なんでもないの」

 その言葉を素直に信じることは難しかったけれど、それでも寝息を立て始めたわが子を揺するイラバの横顔は、まるで本当になんでもないというように、穏やかだった。姉さんの長く白い指が、赤ん坊のやわらかい髪をそっと梳くのを、わたしは飽かずにじっと見つめていた。

 ――姉さん、いま、幸せ?

 喉のところまで出かかった質問を、わたしは何度も飲み込んだ。そうではないのだといってほしい自分が、浅ましいような気がして。



 もしわたしが、火の国に生まれていれば。

 その考えは、ふとした拍子に何度も胸の奥から立ち上ってきては、わたしの心を遠くへ飛ばした。その考えがあまりに不遜だというのはよくわかっていたつもりだけれど、それでも夢想は、それ以上に魅力的だった。

 もしわたしが、火の国で生まれ育っていたならば、何かが違っていたのだろうか?

 火の国でも、部族の記録をあつかうのは一部の男の人たちなのだと、ヨブはいった。それなら火の国でもやはり、女が学びたがるのは喜ばれないのかもしれない。そういえば、賢い女を好まない男もいるともいっていた。

 もしも、わたしが火の国の、それも男として生まれていたなら。それならもっと気兼ねなくいろいろなことを学んで、その知恵を、ひとの役に立てていられたのだろうか。あるいは天に輝くというしるべを読んで、みわたすかぎりに広がるという砂の大地を、自在に渡ることができただろうか。

 空想はひどく胸を高揚させたけれど、いつもそんな夢物語ばかりを考えていられたわけではなかった。

 エオンの月には、婚姻にまつわるさまざまな儀式が執り行われる。花嫁であるシーリーンの身内として、わたしも当然、それを手伝わなくてはならなかった。

 シーリーンの夫となる人とも、何度か言葉をかわす機会があった。なんだか気弱そうな話し方をする人だな、と思ったけれど、それ以上の印象はなかった。

 姉さんはこのひとのことを、好きになるのだろうか。ただ漠然と、そんなことを思った。そうして、幸せになるのだろうか。

 普段よりも忙しくはあったけれど、慌しいのはほかの人たちも同じことで、誰も勉強室を使わない日は、普段より多かった。それでかえって、わたしは本を読む時間をとることができた。

 ある日、古い帳面をながめていた。火の国からの荷について書かれたものだ。そのほとんどが、ごく淡々とした記録だったけれど、そのときの変わった出来事や、使者の仰った言葉なども、併せて書き留められていた。

 じきに日暮れというころだった。ト・ウイラのほうから足音が近づいてきて、わたしは本を手に立ち上がった。誰か男のひとがここを使うのなら、いそいで出て行かなければならないので。

「入るよ」

 穏やかな声に、わたしはほっとして、本を机に戻した。いらしたのは導師だった。

 垂れ布をくぐって中に入ると、導師はわたしの顔を見て、微笑んだ。

「ゆっくりお前の顔を見るのは、何日ぶりだろうね」

 導師には、新たに生まれた夫婦への祝福をさずけるお役目があって、毎日のように、色々な祝いの場に呼ばれていた。なんせこの年には、里じゅうで十二組もの婚姻があったのだ。

 書棚に向かうと、導師は一番手前の棚から、一冊の厚い書物を取り出した。それがあまりに分厚く、重そうだったので、わたしは思わず駆け寄って導師を手伝った。

「ことし夫婦になった者たちの名を、控えておかねばな。早いうちに手をつけねばと思いながら、いまになってしまった。手伝ってくれるかね、トゥイヤ」

 近ごろ導師は眼のぐあいがあまりよくなくて、普通に過ごすにはともかく、読み書きに不自由するようになった。わたしは導師の口にした名前を、ひとつずつていねいに帳面に記していった。その中にはもちろん、シーリーンの名もあった。

 全ての名を書き終えると、導師は感慨深げに、ため息をついた。

「シーリーンが嫁いで、寂しくなったな」

 はい、とうなずいて、わたしはそっと、羽根ペンを拭った。ときおり蝋燭の灯芯がくすぶって、炎が大きく揺れる。その明かりに照らされて、導師はいっとき瞑目した。それから目を開いて、わたしの手元を見た。

「今日は、何を読んでいたのかね」

「火の国の記録です」

 わたしは答えて、さっきまで読んでいた記録を開いてみせた。導師はうなずいて、かすかに首を傾けた。

「何か、面白いことは書いてあったかね」

「荷の中身が、その年によってずいぶん違うのを、なぜだろうと考えていました。この年には、麦が不作だったのだろうかとか、次の年にはずいぶんたくさんの銀を運んでいかれたのだなとか……」

 そう答えると、導師はゆっくりと頷いた。

「さて、天つ国の方々にも、なにか私たちにはわからないご事情が、おありなのだろうが」

 導師はそこで言葉を切って、やわらかく苦笑した。

「お前は昔から、なぜ、と問うのが得意だった」

 わたしは反応に困って、首をかしげた。導師は懐かしげに目を細めて、机の上で、ゆっくりと指を組んだ。

「答えるのには、なかなか骨が折れた。思いもつかぬことを訊いてくるのでな」

「ごめんなさい」

 とっさに謝りはしたけれど、わたしはあまり悪びれてはいなかった。笑いを含んだ導師の声は、あきれているというよりも、むしろ楽しげだったので。

「火の国のことに、興味があるのかね」

 どきりとして、わたしはとっさに背筋をのばした。「少しだけ」

 導師は頷いて、わたしの顔をまじまじと覗き込んだ。その瞳は、母さんのそれと同じように、白い薄膜のかかったようになっていた。けれどその瞳にはいつでも、ほかの誰の目にも見たことのない、ふしぎな輝きがあった。

 導師はなにかご存知なのだろうか。内心では不安を感じていたけれど、わたしはなんでもないふうをよそおって、言葉を足した。

「わたしには、不思議に思えてしかたがないのです。火の燃え盛るという国で、どうして人が生きていられるのか。そのようなおそろしい場所で、どうしてあんなふうにたくさんの豊かな品々が得られるのか……」

 その言葉に、嘘はなかった。導師はゆっくりとうなずいた。

「古い物語もそうだが、トゥイヤ、お前は、いまここにないものに、心を惹かれる向きがあるようだ」

 わたしは叱られているように感じて、首を縮めた。けれど導師は、いつもどおりの穏やかな声で、ゆっくりと続けた。

「遠くのものに思いをめぐらせるのは、悪いことではない。だが、すぐ傍にあるものにも、もっと目を向けてみるといい。みなお前のことを、心配している」

 わたしははっとして顔を上げた。みな、というのは誰のことだろう。姉さんたちか、母さんか。母さんが嫁ぐのを厭うわたしの強情さに困って、導師に相談したというのは、いかにもありそうなことだった。

 何か反論の糸口をさがそうとしたけれど、導師の眼を見つめかえしているうちに、何もいえることはないような気がした。導師は本当のことを仰っている。母さんはわたしのことを心配している。わたしの幸せを願ってくれている……。

 わかっている、間違っているのはわたしのほうなのだ。

 導師に頭を下げて、記録をもとの棚に片付けると、わたしは静かに勉強室を後にした。

 ヤァタ・ウイラを歩きながら、急に悲しくなって、わたしは唇を引き結んだ。どうしてわたしは自分の気持ちを、導師に打ち明けてしまわなかったのだろう。いえばよかったのだ。わたしは嫁ぎたくはないのです。ずっとこの邸においていただけませんかと。

 いえなかったのは、隠していることの重さが、胸をふさいだからだった。ああ、どうして秘密というものは、あんなに魅力的なくせに、ときが経つにつれて心に重くのしかかってくるのだろう?



 その年も終わりに近づき、ソトゥの月も残りわずかとなった頃、とうとう母さんが口火をきった。

「あなたも、名前くらいは知っているかしら。ムトという人がいてね。シーリーンのいとこにあたるのだけど。年が明けたら十七になるそうだから、あなたの二つ上ね」

 わたしは身構えて、手にしていた食器を置いた。けれど母さんは、何気ない調子をよそおって続けた。

「とても穏やかで、真面目な人らしいのよ。導師にもお聞きしてみたけれど、いい青年だと仰ったわ。導師がそう仰るなら、何の心配もないわね」

「母さん」

 わたしはとっさに声を上げたけれど、母さんはそれを無視した。「導師のほかにも、いろいろな人から話をきいたのよ。ほかにも評判のいい人は何人もいたけれど、この人が、一番あなたに合っていると思うの」

「母さん、待って」

「話を進めるけれど、いいわね?」

 呆然として、わたしは母さんの眼を見つめた。母さんは微笑んでいたけれど、その眼はとても真剣だった。有無を言わせない、強いまなざしが、わたしをじっと見つめ返していた。

 けれどわたしは、引かなかった。

「ちっともよくなんかないわ。わたしは――わたしは、お嫁になんかいきたくない」

 母さんは笑顔を消して、眉をひそめた。

「まだそんなことをいっているの?」

「いつまでだっていうわ――」

 わたしはいって、まっすぐに母さんの目を見つめ返した。息を吸い込むと、喉がひきつれた。

「女が本なんか読んでも仕方がないなんて、どうして母さんはそんなふうに思うの? たくさん勉強しても、何の役にも立たないの? ただ女だというだけで?」

 言い募るうちに、涙が滲んだ。「このお邸から引き離されて、もう本も読めなくなって、それでわたしが幸せになれるなんて、どうしてそんなことがいえるの? 相手がいいひとかどうかなんて、そんなことじゃないの。わたしは――」

「少し落ち着きなさい」

 母さんはぴしゃりといって、短くため息をついた。その目の色を見て、わたしは失望した。母さんの瞳には、理解の色どころか、わたしのいい分について考えてみようとする気配さえ、ちっとも見当たらなかった。

「そんなにすぐのことではないのよ」

 母さんは、静かな声――なるべく穏やかな調子を心がけようとしているのがわかる声で、噛み含めるようにいった。「でも、あなたもじきに十五になるのよ。もう子どもではないわ」

 母さんはわたしに喋らせまいとするように、早口に続けた。なにも心配いらないのよ、お前はずっとこのお邸で育ったから、不安になるのもわかるわ。だけどみんな最初はそうなのよ。わたしもそうだった、嫁ぐ前にはお前と同じように、不安でいっぱいだったわ。うんと悪い想像もした。でもね、あの人と一緒になれてとても幸せだった。イラバやお前を産んで、幸せだった。大丈夫、トゥイヤにも、これからたくさんの幸せが待っているわ――

 わたしは耐えられなくなって、部屋を飛び出した。母さんが慌てて追いかけてくるのがわかったけれど、足を止めはしなかった。走って、走って、闇雲に邸から遠ざかろうとした。

 悲しかった。どんなに言葉を尽くしても、なにひとつ伝わらないことが。母さんがちっともわたしのことをわかろうとしてくれないことが。それなのに、母さんはあくまでわたしの幸せを考えてくれているのだということが。

 走って、走って、途中でカナイの母さんとすれちがって叱られたけれど、それも振り切って、わたしは邸の外に飛び出した。誰とも話したくなかった。

 邸からずいぶん離れて、水辺へたどりつくと、わたしはやっと足をとめて、壁のくぼみに背中を預けた。ここには夜は誰もやってこないし、もし近くを誰かが通っても、ここなら水音がわたしの気配を押し包んでくれるのではないかと思ったのだ。

 そのままずるずると座り込むと、服越しに岩壁の冷たく硬い感触が伝わってきた。そこでじっと膝を抱えて、長い時間、水の流れを見つめていた。

 水面は黒々として、ところどころが白くきらめいている。ここの天井はひどく高くなっていて、菜園ほどではないけれど、上からかすかに光が降ってくる。ヒカリゴケの淡い明かりとはまた違う、その独特の光は、夜にはあるかないかのわずかなものだけれど、昼間にはもっとはっきりしていて、水面できらきらとまばゆく輝く。いまは、黒い水面がわずかにきらめく程度だった。

 水のそばは、空気が冷たく澄んでいる。わたしは何度も大きく息を吸って、気持ちを落ち着けようとしたけれど、その試みは、なかなかうまくいかなかった。

 嫁ぎたくないというのは、わたしのわがままなのだろう。本が読みたいというのも。里の多くの女たちは、書物になど触れることさえないまま生きてゆく。みなそれで不自由なく暮らしている。母さんのいうとおりだ。

 なぜ、わたしはそれで満足できないのだろうか。ほかの多くの女たちのように。

 ただ知りたいのだ。まだ見ぬものを、この眼で見てみたい。

 そう考えること自体が、強欲なのだろうか。戒律は、欲得をかたく戒めている。人より多くのものを得ようと思ってはならない。すべてのものは平等に分け与えられなければならない。

 食べ物や着るものを、欲張ったことはないつもりだったけれど、不相応に知識を得たいと思うのも、それと同じことだろうか。考えてもわからなかった。わかりたくなかっただけかもしれない。

 それでも、水の音をずっと聞いているうちに、いくらか気分がやわらいできた。

 日をおいて、母さんともう一度話をしてみよう。今度はできるだけ、感情的にならないように。そんなふうにようやく考えられるようになった頃には、かなりの時間が経っていた。

 遠くで、慌しい足音が交錯していた。探されているのかもしれない。

 母さんは心配しているだろう。気づくと急にいたたまれなくなって、わたしは立ち上がった。

 そこに、カナイがやってきた。

 姉さんはわたしに気づくと、足を止めて、うんざりしたように首を振った。それから来たほうを振り返って、こっちにいたわ、と一声叫んだ。その声が通路に反響して尾を引いて、遠くで誰かが叫び返した。

「あの……」

「馬鹿じゃないの」

 怒った声で、カナイはいった。「皆があんたに甘いからって、いくらわがままをいっても通ると思ってるんなら、あんたは馬鹿だわ。自分がどれだけ恵まれてるか、わかってるの?」

 何も言い返せなくて、わたしは黙り込んだ。いつものようにカナイに腹を立てるのも難しかった。

 カナイからしてみたら、わたしはさぞ腹立たしいにちがいなかった。姉さんは早く嫁ぎたいのに、うまくゆかない。わたしは嫁ぎたくないのに、お嫁にいかされそうになっている……。

 どうして逆ではなかったのだろう。代われるものなら代わりたかった。

「ごめんなさい」

 謝ると、カナイは舌打ちして歩き出した。足音がひどく怒っている。話しかければ、ますます機嫌を損ねそうだった。

 カナイの背中を追いかけて歩きながら、わたしは子どもの頃のことを思い出していた。小さい頃、わたしが道に迷って戻れなくなったり、おかしなところに入り込んだまま眠り込んでしまったとき、いつだって探し出してくれたのは、カナイだったのだ。ずっと昔には、わたしたちは、仲のいい姉妹だった。

 あの頃に戻ってしまったかのような錯覚を覚えて、わたしは切なくなった。本当にそうだったなら、どんなにいいだろう。まだカナイと険悪になる前。いつかお邸を出なければいけないだなんて、そんなことを考えてもみなかった頃に。


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