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彼氏は祖母の治療費を、初恋の相手が欲しがった絵に使った。私は彼を捨て、その会社の出資者と結婚した

作者: 熾星
掲載日:2026/09/08


 出張中の恋人・榊原蓮司を少し試してみたくなり、Instagramに捨てアカウントを作った。

「今、一人? 今夜、少し飲まない?」

 返事はすぐに来た。

「悪いけど、そういうの興味ない。俺には婚約者がいるから」

 婚約者、という言葉を見た瞬間、少しだけ嬉しくなった。

 昨日、いつ結婚してくれるのかと聞いた時には、「会社もようやく軌道に乗ったばかりなんだから、そんなに急がなくてもいいだろ」と言っていたくせに。

 けれど、次のメッセージを読んだ瞬間、指が止まった。

「五年間海外にいた彼女が、明日帰ってくる」

 少し間を置いて、もう一通届いた。

「三日後に結婚式をするんだ」

 この五年間、私はずっと蓮司のそばにいた。

 しばらくすると、一枚のウェディングフォトが送られてきた。

 白いドレス姿で蓮司に寄り添っていたのは、五年前に彼を置いて海外へ行った初恋の人――白河紗月だった。

1

 写真を見つめたまま、しばらく何も考えられなかった。

 ようやく指を動かし、メッセージを送った。

「その人、五年も海外にいたんでしょ。その間、ほかに付き合ってた人はいなかったの?」

 蓮司はほとんど迷わなかった。

「いたよ」

 続けて、すぐに届く。

「でも、その子はすごく物分かりがいいんだ。俺のことも好きだし」

 さらにもう一通。

「昔かなえられなかった夢を紗月と形にするために式を挙げるって知っても、本気で俺から離れたりしないよ」

 見知らぬ相手だからこそ、話しやすかったのかもしれない。

 そこから蓮司は急に饒舌になった。

「その子には、一つだけ、ずっと申し訳ないと思ってることがある」

 数秒、メッセージが途切れた。

「三年前、その子の唯一の身内だった祖母が急に悪くなったんだ」

「保険のきかない治療で、三百万円くらい必要だった。その子は用意できる金を全部、俺に預けた」

 胸の奥がざわついた。

 次の一文が届くまでの数秒が、やけに長く感じた。

「でも俺、その金で紗月が欲しがってた絵を買ったんだ」

 指先が冷たくなった。

 さらに、最後の一通。

「結局、祖母は次の治療まで持たなかった」

 全身から血の気が引いた。

「最低」

 すぐに、疑問符だけが返ってきた。

「もうかなり高齢だったんだよ」

 しばらくして、また届く。

「その治療を受けたって助かった保証はない。でもあの絵は紗月に必要だった」

 最後に、信じられない一文が続いた。

「少なくとも、紗月のためにはなった」

 口元を押さえた途端、涙がこぼれた。

 三年前、祖母の容体が急変した。

 医師からは、星見循環器医療センターへ移り、保険適用外の治療を受けるという選択肢がまだ残されていると説明された。

 費用はおよそ三百万円だった。

 私は両親が亡くなったあとに残された郊外の古い家を手放し、その金を蓮司に預けた。

 当時は病院に付ききりで、転院の手続きまで自分で進める余裕がなかった。

 蓮司が自分から言ってくれた。

「転院先との連絡も、費用の手続きも俺がやる。美緒はおばあちゃんのそばにいて」

 だから、疑いもしなかった。

 ところが転院予定日の前日になって、病院から手続きが進んでいないと知らされた。

 何度蓮司へ電話をかけてもつながらなかった。

 祖母は次の治療を受けることなく亡くなった。

 その後、蓮司は私の前で膝をついた。

「美緒、ごめん」

 息が続かないほど泣いていた。

「治療が終わったあとも、リハビリや介護で金がかかると思ったんだ」

 何度も顔を覆った。

「だから、少しでも増やせないかって……短期の投資に回した」

 震える声で続けた。

「まさか持ち逃げされるなんて思わなかった。本当に俺が悪い」

 自分の頬を何度も叩き始めた彼を見て、私は止めることしかできなかった。

 あの時は、本当に投資で失敗したのだと思っていた。

 最初から全部嘘だったなんて、考えもしなかった。

 捨てアカウントに戻り、震える指で送った。

「今付き合ってる人の唯一の家族を犠牲にしてまで、初恋の人を優先したんだ」

 少し迷ってから、もう一言足した。

「ずいぶん一途なんだね」

 今度は文字ではなく、音声メッセージが届いた。

『誰が五年会ってないって言った?』

 再生が続く。

『三年前には紗月から連絡が来てたよ。それからは、時間が合えば会ってた』

 一拍置いて、蓮司は軽い調子で言った。

『バレンタインも、クリスマスも』

 続いて、何枚もの写真が送られてきた。

 海外の街角で薔薇を抱えた蓮司と紗月。

 浴衣姿で夏祭りに出かけ、二人で笑っている写真。

 クリスマスの夜、二人きりでテーブルを囲んでいる写真。

 そのうちの一枚に、私がずっと欲しがっていたネックレスが写っていた。

 あの年のバレンタイン前、蓮司がそのネックレスを買ったと知って、てっきり自分へのプレゼントだと思っていた。

 だから私も何軒も店を回り、彼に似合いそうな電気シェーバーを選んだ。

 蓮司に会いに行く途中で、事故に遭った。

 真っ先に電話したのは蓮司だった。

 何度かけても出ず、病院へ運ばれて三十分以上たってから、ようやくLINEが届いた。

「美緒、俺にも一人でいたい時くらいある」

 続けて、

「何度も電話されると、正直しんどい」

 あとになって、蓮司はたくさんのプレゼントを持って謝りに来た。

「もうバレンタインなんてやめる」

 私の顔を見ながら、困ったように笑った。

「美緒がまた余計なこと考えて傷つくくらいなら、その方がいい」

 バレンタインをやめたわけではなかった。

 私と過ごすのをやめただけだった。

 その時、捨てアカウントに新しいメッセージが届いた。

「もう話すのやめる」

 続いて、

「美緒に電話するよ」

 最後の一文を見て、思わず笑ってしまった。

「あいつ、夜に俺の声を聞かないと眠れないから」

 指を動かした。

「電話しなくていいよ」

 少し間を置いて、送信する。

「私が雨宮美緒だから」

 最後の一文だけは、迷わなかった。

「もう二度と、あなたの声を聞きたくない」

2

 しばらく返事はなかった。

 待っている間にパソコンを開き、退職願を書き始めた。

 ほどなくして蓮司から電話がかかってきた。

 一度切ってもまた鳴った。

 二度目も切ると、今度は間を置かずにかけ直してきた。

 もう話したくはなかった。

 それでも最後に一度だけ、きちんと終わらせようと思って電話に出た。

「美緒、昔のことを今さら蒸し返して、俺の電話まで無視するのか?」

 声には明らかな苛立ちが混じっていた。

「祖母の治療費を勝手に使って、三年間も嘘をついてた人の電話を、どうして私が必ず取らなきゃいけないの?」

 少しの沈黙。

 向こうで蓮司が息を吐いた。

「祖母のことは悪かった」

 少し声が低くなった。

「でも、この数年、美緒への気持ちまで嘘だったわけじゃない」

「じゃあ紗月との結婚式は?」

「本当に結婚するわけじゃない」

 即答だった。

「学生の頃にかなえられなかった夢を、一度形にするだけだよ」

「結婚式を?」

「婚姻届は出さない」

 なだめるような声になった。

「本当の夫婦になるつもりもない」

 答えるより先に、向こうで別の着信音が鳴った。

「あ、悪い」

 蓮司の声色が変わった。

「紗月からだ。またあとで」

 通話は一方的に切れた。

 その夜、蓮司から連絡はなかった。

 きっと、自分から説明さえしておけば、翌朝には私もいつものように機嫌を直すと思っていたのだろう。

 実際、もう怒る気はなかった。

 許したからではない。

 もう、蓮司と一緒にいる理由がなかったからだ。

 翌朝、榊原テクノロジーズへ向かった。

 数人しかいなかった小さなオフィスが、今では二フロアを構える会社になるまで、その過程をほとんどそばで見てきた。

 退職願を蓮司の机に置いた。

 彼は一度目を通し、その場で破いた。

「美緒。俺たち何年一緒にいると思ってるんだ」

 破いた紙を机へ落とす。

「そんな駆け引き、俺には通用しないよ」

 何も言わず出ていこうとすると、腕をつかまれた。

 そのまま会議室へ連れていかれた。

 中にはすでに何人もの社員が集まっており、白河紗月も座っていた。

 今日が初出勤らしい。

 私を見ると、すぐに立ち上がって笑った。

「あなたが雨宮美緒さん?」

 上から下まで一度眺める。

「ずっと蓮司のそばで、仕事も身の回りのこともやってた人よね」

 紗月は当然のように蓮司の腕へ手を添えた。

「今日から私が社長秘書をやることになったの」

 それから会議室の外へ目を向ける。

「雨宮さんは、とりあえず総務を手伝ってもらえる?」

 笑顔のまま続けた。

「共用スペースの清掃が追いついてないみたいだし」

 蓮司を見た。

 彼は窓の外へ視線を逸らしたまま、何も言わなかった。

 それが答えだった。

 会社を立ち上げた頃から、私は蓮司のそばにいた。

 一番苦しかった時期には、御影家から五千万円の出資を受けられるよう、資料作りや交渉の準備も手伝った。

 当時、偶然知り合った御影千鶴さんが事故のあと療養中で、買い物や通院の付き添いを何度かしたことがあった。

 千鶴さんが私を気に入ってくれたことで、結果的に御影家と榊原テクノロジーズの縁もつながった。

 あの出資がなければ、会社はここまで残っていなかったかもしれない。

 蓮司が口を開いた。

「今日から白河紗月が社長秘書を担当する」

 社員たちを見回す。

「社長室関連の調整は、各部署とも彼女の指示に従ってほしい」

 そこで私を見た。

「美緒も同じだ」

「さっき退職願を出しました」

 蓮司の表情がわずかに固まった。

「清掃の手伝いなら、ほかの人に頼んでください。榊原社長」

 人前でそう呼ばれたことが気に入らなかったのか、眉がわずかに動いた。

 次に、私の後ろにいた大学四年生のインターン、森川菜々へ視線を向けた。

「雨宮さんは君の指導担当だったよな」

 菜々が緊張したように頷く。

「指示に従えない状態なら、君の評価書もいったん保留にする」

 菜々の顔から血の気が引いた。

 大学推薦で参加している選考直結型の長期インターンで、会社からの評価は大学の推薦枠にも、その後の採用選考にも影響する。

 会議が終わると、菜々が追いかけてきた。

「美緒さん、お願いします」

 今にも泣きそうな顔だった。

「大学に悪い評価が送られたら、推薦にも今後の選考にも響くかもしれなくて……」

 唇を噛む。

「卒業前に、それだけは困るんです」

 足を止めた。

 それとは別に、五年前には街中で倒れた蓮司の母・榊原綾子さんを助けたこともあった。

 救急車を呼び、家族と連絡がつくまで付き添った。

 それがきっかけで、その後も何度か入院中の買い物や手続きを手伝うようになった。

 当時は就職活動中で余裕などなかったが、綾子さんはそんな私のことをよく覚えていてくれた。

 元気になったあと、綾子さんは蓮司が立ち上げたばかりの会社を紹介してくれた。

 紗月が海外へ行ったあと、投げやりになっていた息子のことも気にかけてほしいと頼まれた。

 そんなことを思い出しながら、清掃用具を手に取った。

 蓮司のためではない。

 菜々にまで巻き添えを食わせたくなかっただけだ。

3

 午後、人事を担当している小野寺さんが私のところへ来た。

「雨宮さん、今日は本当にすみません」

 周囲を気にしながら声を落とす。

「白河さんの初日だから、社長としては指示系統をはっきりさせたいみたいで……」

 申し訳なさそうに頭を下げた。

「明日からは別の担当をつけます」

 軽くうなずいた。

 小野寺さんが去った直後、洗面スペースの入口に紗月が現れた。

「美緒さん」

 壁にもたれ、楽しそうに笑う。

「蓮司が苦しい時期にずっとそばにいたからって、それで蓮司の心まで自分のものになったと思ってた?」

 何も答えなかった。

「蓮司が本当に好きだったのは、昔から私よ」

 紗月は髪を耳にかけた。

「私が海外へ行って一度は置いていったのに、連絡すれば十時間以上かけて会いに来たんだから」

 少し間を置き、思い出したように笑った。

「そうだ」

「何?」

「綾子さんがあなたに渡した真珠のネックレス」

 わざとゆっくり言う。

「今は私が持ってる」

 綾子さんが亡くなる前、家に伝わる真珠のネックレスを私の首にかけてくれたことがある。

 もし蓮司と結婚する日が来たら、これを着けて式を挙げてほしい。

 そう言われた。

 その時、蓮司も母親の前で約束した。

「母さん、心配しなくていい」

 私の肩を抱きながら笑った。

「俺が結婚するなら美緒だけだから」

 あとになって蓮司は、正式にプロポーズする時に改めて渡したいと言って、ネックレスを預かっていった。

 まさか紗月の手に渡っていたとは思わなかった。

「もともと榊原家の物だし」

 紗月を見た。

「蓮司が誰に渡そうと、もう私には関係ないよ」

 笑みが少しだけ消えた。

 紗月は噛んでいたガムを紙に包もうとするような仕草を見せたあと、わざと床に落とした。

 そのままヒールで踏みつける。

「靴、汚れちゃった」

「床は掃除する」

 清掃用具を手に取った。

「でも、あなたの靴まで磨く仕事はしてない」

 廊下から足音がした。

 紗月の表情が一瞬で変わった。

「美緒さん、私が社長秘書になったのが気に入らないのは分かるけど……」

 困ったように眉を下げる。

「床を片づけてほしいって言っただけで、そんなふうに言わなくてもいいじゃない」

 ちょうど蓮司が入ってきた。

「何してるんだ?」

 紗月が先に答える。

「大したことじゃないの。私も今日が初日だし、まだ仕事のやり方が合わないだけ」

 私をちらりと見た。

「美緒さんも少し疲れてるみたいだから」

 蓮司は私を見た。

「美緒、今日は総務の担当になってるんだろ」

 床を指す。

「まず自分の仕事を終わらせて」

 少し声を和らげた。

「話があるなら、あとで聞くから」

 説明する気が失せた。

 しゃがみ込み、床に残ったガムを処理した。

 その時、紗月がスマートフォンを向けた。

 十分後、その写真が取引先も参加している共同プロジェクト用のSlackチャンネルに投稿された。

 私が紗月の足元にしゃがみ込み、まるで靴を磨いているように見える写真だった。

【雨宮さんは今日は少し体調が悪いみたいなので、秘書業務は私が引き継ぎます】

 少しして、もう一文。

【今後、社長室関連の連絡は私宛てにお願いします】

 それを見ても、もう胸は痛まなかった。

 その日のうちに人事にも退職の意思を伝え、必要な手続きを進めた。

 蓮司に退職願を破られたからといって、残るつもりはなかった。

 スマートフォンが震えた。

【もしよければ、一つ取引をしない?】

 送り主を確認する前に、もう一通届いた。

【俺と結婚してくれたら、ここから出るのを手伝う】

4

 送り主は御影直人だった。

 以前、千鶴さんを通じて知り合った御影家の跡取りで、榊原テクノロジーズの初期投資にも関わった人物だ。

 しばらく迷った末、電話をかけた。

「御影さん、ありがとうございます」

 いったん言葉を切った。

「でも、蓮司から離れるために、別の男性に頼るつもりはありません」

「うん」

「私はただ会社を辞めて、自分の生活を始めたいんです」

 直人は少し黙った。

「じゃあ、助けるって話じゃなくて、取引だと思ってほしい」

「取引?」

「母の体がかなり弱ってる」

 声は落ち着いていた。

「医者からも、先のことを考えておくように言われてるんだ」

 そこで少し間を置く。

「母はずっと美緒さんのことを気に入ってる。俺が家庭を持つところも見たいって言ってる」

「それで……?」

「一年だけ、俺と夫婦でいてほしい」

 思わず黙った。

「謝礼は三千万円」

「三千万円……」

「生活費は俺が負担する」

 すぐに続けた。

「でも、美緒さんの仕事や生活に口を出すつもりはない」

 私が何も言わないので、直人はさらに言った。

「一年たって、美緒さんが離婚したいなら、その時は俺も同意する」

「どうして私なんですか」

 少し沈黙があった。

「花屋をやりたいって、昔言ってたよね」

 言葉に詰まった。

 覚えていたのだ。

 蓮司はもう忘れているのに。

「母が美緒さんを好きなのは、本当だよ」

 目を閉じ、しばらく考えた。

「……分かりました」

 電話の向こうで、直人がわずかに息を止めた。

「じゃあ婚姻届の準備をする」

「はい」

「式は三日後でもいい?」

「三日後?」

「星見グランドホテルに、小さなチャペルと宴会場を押さえてある」

 戸惑っている私に、直人は説明した。

「母の体調を考えて、家族だけの式にするつもりだったんだ」

「もう予約してたんですか?」

「母に急かされてて」

 少し笑ったあと、急に言いにくそうな声になった。

「ただ、その日、別の宴会場でも結婚式がある」

 嫌な予感がした。

「蓮司と紗月?」

「そう」

 すぐに続く。

「嫌なら日を変える」

「大丈夫です」

 もともと御影家が運営しているホテルだ。

 あの二人のために、私が日取りを変える必要はなかった。

 電話を終えると、菜々が慌てた様子で走ってきた。

「美緒さん」

「どうしたの?」

「榊原社長が、家にある荷物を片づけてほしいって……」

 言いにくそうに視線を落とす。

「白河さんが、しばらく住むかもしれないそうです」

「分かった」

「美緒さん……大丈夫ですか?」

「昨日までなら、たぶん傷ついてた」

 少し笑った。

「でも今日はもう大丈夫」

 蓮司と暮らしていたマンションへ戻ると、私の服や私物の一部は段ボール箱にまとめられ、玄関の横に置かれていた。

 蓮司はリビングに立っていた。

 少しの沈黙のあと、テーブルに厚い封筒を置いた。

「当面の生活費が入ってる」

「いらない」

「しばらく一人で暮らすなら使って」

 こちらの返事を待たず、続ける。

「紗月との式が終わったら、あいつは自分の部屋に戻る」

 まるで当然のように言った。

「そうしたら美緒も戻ってくればいい」

「いらない」

 もう一度言った。

「私たちは終わったから」

 蓮司の手が止まった。

 次の瞬間、手首をつかまれた。

「秘書を紗月に替えたくらいで、なんでそこまで話が飛ぶんだよ」

「それだけじゃないでしょ」

「最近の美緒は明らかに疲れてた」

 聞いていない。

 蓮司は自分の言いたいことだけを続けた。

「少し休んだ方がいいと思っただけだ」

「私は怒ってるんじゃない」

「今は冷静じゃないよ」

 なだめるような口調だった。

「数日、紗月の式の準備があるから」

 そこで私の肩へ触れようとした。

「そのあと、ちゃんと話そう」

 言い終わらないうちに、奥の部屋から紗月が出てきた。

 その時、リビングの隅から弱い鳴き声がした。

 振り返る。

 四年間一緒に暮らしてきた犬のコムギが、壁際でうずくまっていた。

 口の周りは血で汚れている。

 床には、ひっくり返ったペットフードの缶が落ちていた。

「コムギ!」

 急いで抱き上げた。

 紗月はソファに座ったまま、自分の小型犬ルナを抱いていた。

「その子、ルナのごはんを取ろうとしたの」

「何したの?」

「追い払っただけよ」

 面倒そうに答える。

「テーブルにぶつかったみたい。まさか歯まで折れるとは思わなかったわ」

 コムギの口から血が止まらなかった。

「蓮司、夜間の動物病院を探して」

 返事がない。

「お願い、早く!」

 蓮司がスマートフォンを取り出した。

 電話をしてくれるのだと思った。

 けれど、聞こえたのはシャッター音だった。

「何してるの?」

「勝手にルナの餌を取ろうとしたんだろ」

 蓮司は画面を見たままだった。

「これで少しは覚えるんじゃないか」

 言葉が出なかった。

 コムギを抱いて玄関へ向かうと、蓮司が前に立った。

「待てよ」

「どいて」

「その犬は二人で飼ってた」

「今そんな話してる場合?」

「登録も保険も俺名義だろ」

 信じられなかった。

「俺から何もいらないって言ったのに、都合のいい物だけ持っていくのか?」

「ケガしてるの!」

「分かってる」

 蓮司が腕を伸ばした。

「病院には俺が連れていく」

 私の腕からコムギを抱き取った瞬間、痛みで暴れたコムギがその腕から滑り落ちた。

 床に落ち、甲高い声で鳴いた。

 胸の奥が冷え切った。

 結局、騒ぎに気づいたマンションのコンシェルジュが、夜間救急の動物病院を探してくれた。

 コムギはそのまま治療を受けた。

 けれど頭部と口腔の損傷がひどく、翌朝まで持たなかった。

 病院の廊下で朝まで座っていた。

 あの子が死んだ瞬間、蓮司との間に残っていた最後のものまで、全部なくなった気がした。

 二日後、御影家が用意してくれたウェディングドレスを着た。

 式の打ち合わせをするうちに、いつの間にか私は彼を「直人」と呼ぶようになっていた。

 星見グランドホテルへ向かう車の中で、蓮司からLINEが届いた。

「今日は大人しくしてて」

 続いて、

「紗月との式が終わったら会いに行く」

 さらにもう一通。

「美緒に渡したい物もあるから」

 読み終えると、そのまま蓮司の連絡先を削除した。

5

 星見グランドホテルの前で車を降りると、反対側の受付スペースにいた蓮司と目が合った。

 ドレス姿の私を見て、一瞬驚いた。

 けれどすぐに、呆れたような顔になった。

「美緒。今日が俺と紗月の式だって分かってるだろ」

 私のドレスを見る。

「その格好で来て、何がしたいんだ?」

 答える前に、後ろから直人が腰へ手を添えた。

「榊原社長」

 蓮司が直人を見る。

「俺の妻が、自分の結婚式にウェディングドレスを着て来ただけですが」

 蓮司は意味を理解できないようだった。

「御影さん、美緒は仕事はできるけど、こういう時はすぐ意地になるんです」

 私を見ながら苦笑する。

「こんな芝居に付き合わなくていい」

 直人は小さく笑った。

「後ろ、見たら?」

 ホテルのロビーには、その日行われる二組の式の案内が出ていた。

 一方には、榊原蓮司と白河紗月。

 もう一方には、私と直人のウェディングフォト。

【新郎 御影直人】

【新婦 御影美緒】

 蓮司の顔から、ゆっくり血の気が引いていった。

「……嘘だろ」

 案内を見直す。

「こんなの、嘘だ」

 そこへ紗月もやってきた。

 案内板を見るなり、笑った。

「蓮司、信じちゃ駄目よ」

 私のドレスを見た。

「美緒さん、私が秘書になったのが悔しいだけでしょ」

 直人へ目を向ける。

「私たちが式を挙げるから、御影さんに頼んでこんなことしてるんじゃない?」

 直人は何も言わない。

 紗月はさらに続けた。

「雨宮さんから、いくらもらったんですか?」

 一瞬、周囲が静かになった。

「本当のことを言ってくれるなら、倍払いますよ」

 直人は呆れたように紗月を見た。

「社長秘書なら、せめて自社の主要取引先くらい把握した方がいいよ」

「何の話ですか?」

「ここ、御影ホテルグループのホテルなんだけど」

 紗月の顔が赤くなった。

「でも……」

 すぐに言い返す。

「御影家なら縁談なんていくらでもあるでしょ」

 私を指す。

「わざわざ雨宮さんと結婚する理由なんてないじゃない」

 蓮司まで口を挟んだ。

「俺もそう思う」

 直人を見る。

「美緒を助けたいだけなら分かる。でも、本当に結婚する必要なんてないだろ」

 直人の顔から笑みが消えた。

「少なくとも俺は、美緒がどんな人か知ってる」

 私の手を取った。

「母にどう接してくれたかも、会社でどれだけ働いてきたかも見てきた」

 一度、蓮司を見る。

「肩書きや家柄より、そっちの方が大事だと思ってる」

 少し笑った。

「母も美緒のことが好きだしね。俺より先に気に入ってたくらいだ」

 そのままホテルの奥へ向かおうとすると、蓮司が追いかけてきた。

「美緒、待って」

 振り返らない。

「本当は違うんだろ?」

 足を止めた。

「何が?」

「俺と紗月の式を止めたいだけだよな?」

「蓮司」

 振り返った。

「私たちはもう別れてる」

 それだけで、蓮司の顔が強張った。

「直人と結婚するのは、あなたを困らせるためじゃない」

「そいつが美緒を本気で好きなわけないだろ」

 息が乱れていた。

「母親のために結婚するだけじゃないか」

 一歩近づく。

「今ならまだ戻れる」

「人の妻に近づかないでもらえますか」

 直人が間へ入った。

 スマートフォンを開き、今朝受け取った婚姻届受理証明書の写真を見せる。

「今朝、市役所で婚姻届は受理されてる」

 蓮司の目が画面へ落ちる。

「芝居じゃないよ」

 しばらく動かなかった。

 やがて目元が赤くなった。

「美緒……」

 声がかすれる。

「どうして、こんなことするんだよ」

6

 その言葉を聞いた瞬間、笑いそうになった。

「私が何をしたの?」

 蓮司を見た。

「祖母の治療費を紗月の絵に使ったのは誰?」

 顔色が変わる。

「私に隠れて、何年もバレンタインやクリスマスを一緒に過ごしてたのは?」

「美緒……」

「私が何年も支えてきた仕事を、簡単に別の人へ渡したのは?」

 声を荒らげる必要はなかった。

 それでも蓮司の顔は、言葉を重ねるたびに白くなっていった。

「全部、俺が悪かった」

 一歩近づく。

「祖母が亡くなったあと、墓のことだってちゃんと手配した」

「それで?」

「美緒にだって、そのあと何度もプレゼントを……」

「どんなに立派なお墓を用意しても、祖母は戻ってこない」

 蓮司は何も言えなくなった。

 数秒の沈黙のあと、急に言った。

「だったら、紗月との式はやめる」

 思わず眉を寄せた。

「何?」

「美緒が嫌なら、もうやらない」

「駄目!」

 紗月が駆け寄ってきた。

「蓮司、今さら何言ってるの?」

 腕をつかむ。

「両親も親戚も友達も、もう来てるのよ」

 蓮司は初めて、紗月を冷たい目で見た。

「紗月。この式、最初から形だけだっただろ」

「何それ」

「家から見合いを勧められるのが嫌だって言ったのは紗月だ」

 紗月の顔が強張る。

「俺と式だけ挙げて、しばらく黙らせたいって」

「だからって――」

「俺が付き合ったのは、美緒なら絶対に離れないと思ってたからだ」

 紗月から一歩離れた。

「でも美緒が本当に別の人と結婚するなら、こんな式を続ける意味なんてない」

 紗月は蓮司の頬を叩いた。

「形だけ?」

 声が震える。

「一か月前に一緒にウェディングフォト撮ったよね?」

 蓮司は黙った。

「婚約指輪も買った。ホテルも予約した」

 ネクタイをつかむ。

「今さら形だけだったなんて、誰が信じるのよ」

「紗月、離せ」

「今日やめるなら、今までのこと全部ネットに出す」

 蓮司の顔が変わった。

「榊原テクノロジーズの投資家がどう思うか、やってみれば?」

 二人が言い争っている間に、私と直人は別のチャペルへ向かった。

 私たちの式は小さなものだった。

 千鶴さんは一番前の席で、淡い色の着物を着ていた。

 体はずいぶん弱っていたけれど、私が歩いてくる間、ずっと笑っていた。

 式が終わると、私の手を両手で包んだ。

「美緒ちゃん、ありがとう」

 胸に少しだけ罪悪感が刺さった。

 千鶴さんはきっと、私が本当に御影家の嫁になりたいのだと思っている。

 直人は何も言わず、そばに立っていた。

 結婚後は、しばらく御影家で暮らした。

 千鶴さんの体調は少しずつ悪くなっていったが、家には専門の介護スタッフがいた。

 私は食事を一緒にしたり、散歩や通院に付き添ったりする程度だった。

 直人から、何かをしろと言われたことは一度もなかった。

 一か月ほどたったある日、直人が珍しく楽しそうな顔で迎えに来た。

「着替えて」

「どこ行くの?」

「見せたいものがある」

 連れていかれた先で簡単に髪とメイクを整え、黒いドレスに着替えた。

 夜、車が止まったのは星見芸術財団のチャリティーオークション会場だった。

 中へ入ってすぐ、蓮司と目が合った。

 結婚式の日より、ずっと痩せていた。

「美緒、元気だった?」

「うん」

 少し考えてから答えた。

「直人は夜中まで連絡もなしに帰ってこなかったりしないし」

 蓮司の顔が固まる。

「私を接待の席に連れていって、代わりに酒を飲ませたりもしないから」

 嫌味のつもりではなかった。

 本当に、生活が違ったのだ。

 直人は朝、庭に咲いた花を一、二本だけ切って、私の部屋に飾ってくれることがあった。

 仕事帰りに面白い物を見つければ、小さなお土産として持ち帰ってくる。

 食卓に好きなものだけが並ぶわけではない。

 けれど、嫌いな食材だけは覚えている。

 派手なことではなかった。

 ただ、これまで誰かにそうやって覚えてもらったことがなかった。

 オークションが始まった。

 注目の品の一つは、十九世紀末に作られたアンティークのダイヤモンドブレスレットだった。

 直人が小声で言った。

「ちょっとだけ付き合って」

「何するの?」

「まあ見てて」

 開始価格三百万円で直人が札を上げる。

 ほとんど間を置かず、蓮司が続いた。

「五百万」

 直人がまた札を上げる。

「八百万」

 蓮司は迷わなかった。

「一千万」

 隣に座っていた紗月が、蓮司の札を押さえた。

「蓮司、何考えてるの?」

 声を潜めながらも、苛立ちは隠せていなかった。

「予想落札価格、四百万前後よ」

「離せ」

「新規事業だってまだ資金が必要でしょ」

 蓮司を睨む。

「一千万も出すつもり?」

 蓮司は冷たく見返した。

「白河。君は社長秘書だ」

 手を振りほどく。

「俺の個人資産にまで口を出さなくていい」

 紗月は笑った。

「ただの秘書?」

 身を乗り出す。

「結婚式までやったんだから、周りはみんな私をあなたの妻だと思ってるのよ」

「婚姻届すら出してないだろ」

 蓮司の声が冷えた。

「それで本当に榊原家の妻になったつもりだったのか?」

 そう言ってから、私を見た。

「俺が本当に結婚したかったのは、美緒だけだった」

 紗月の顔色が変わった。

「じゃあ私は何だったの?」

 蓮司は答えない。

「私はあなたの初恋でしょ」

 声が大きくなる。

「何年もバレンタインもクリスマスも一緒に過ごした」

 さらに畳みかけた。

「帰国したら、すぐ秘書にもしてくれた」

 蓮司は目を閉じた。

「それなのに今さら、美緒が一番だったって言うの?」

「俺が馬鹿だったんだよ」

 低い声だった。

「ずっと紗月を忘れられないんだと思ってた」

 一度、私を見る。

「でも美緒がいなくなって、初めて分かった」

 唇を噛んだ。

「そばにいるのが当たり前になりすぎてたんだ」

 それ以上は続かなかった。

 その時、オークションの槌が落ちた。

「一千万円で落札です。榊原様、おめでとうございます」

 蓮司は受け取ったブレスレットを持って、すぐにこちらへ来た。

「美緒」

 箱を差し出す。

「こういうアンティーク、前から好きだっただろ」

 私は手を出さなかった。

「今ならちゃんと買ってやれる」

 横で直人が笑った。

「榊原社長、ありがとうございます」

「何が?」

「それ、昔うちの母が財団に寄贈したものなんだ」

 蓮司の表情が止まる。

「今日はチャリティーだし、八百万までなら俺が買い戻してもいいと思ってた」

「御影……」

「まさか一千万まで来るとは思わなかったけど」

 直人はあっさり続けた。

「ちなみに、うちが最初に買った時は百八十万円くらいだったらしいよ」

 蓮司の顔が固まった。

「最初から俺を嵌めるつもりだったのか?」

「半分くらいはね」

 直人は悪びれなかった。

「でも八百万なら、本当に払うつもりだった」

 私をちらりと見た。

「美緒の分まで、少しくらい仕返しさせてもらった」

 紗月が完全にキレた。

「本当に馬鹿じゃないの!」

 蓮司の腕をつかむ。

「一千万も無駄にして!」

「離せ」

「会社の資金繰りだって楽じゃないのに!」

 蓮司が腕を振りほどいた。

「もう黙れ」

 会場の警備スタッフがすぐに二人の間へ入った。

 直人が私にだけ聞こえる声で言った。

「やっぱり秘書って大事だね」

「急に何?」

「美緒がいた頃の榊原社長、少なくとも人前でこんなふうにはならなかった」

 思わず笑った。

 後ろから紗月の甲高い声が飛んできた。

「蓮司! どういう意味よ!」

7

 振り返らなかった。

 もう、あの二人がどうなろうと私には関係なかった。

 ホテルを出たところで、蓮司がまた追いかけてきた。

「美緒、待って」

 車のドアを押さえられた。

 蓮司が小さな箱を開く。

 中にあったのは、あの真珠のネックレスだった。

「美緒、覚えてるだろ」

「覚えてる」

「母さんが美緒に渡した物だ」

 箱をこちらへ差し出す。

「母さんが嫁にしたかったのは、ずっと美緒だけだった」

「それ、紗月にあげたんでしょ」

「返してもらった」

「じゃあ紗月の物だったんだね」

「違う」

「一度でも紗月に渡した物なら、もういらない」

 ドアを閉めた。

 蓮司は雨の中に取り残された。

 車が動き出す直前、ゆっくりしゃがみ込む姿が見えた。

「美緒……行かないでくれ」

 隣にいた直人は、振り返らなかった。

「もう終わったことだよ」

 その言葉だけが、静かに車内へ落ちた。

 時間はあっという間に過ぎた。

 約束の一年が終わる頃、私の誕生日が来た。

 その日、連れていかれたのは星見市郊外の緩やかな丘陵地だった。

 車を降りると、目の前には一面の花畑が広がっていた。

 入口には木製の看板が立っている。

【MIO FLOWER GARDEN】

「……何、これ」

 直人は不動産の登記関係書類を差し出した。

「誕生日プレゼント」

「これ全部?」

「うん」

 中へ歩きながら、直人は向こうを指さした。

「あそこ、美緒が好きな紫陽花」

「すごい数……」

「四十種類以上入れてある」

 今度は左側を見る。

「こっちは梔子」

 私の反応を確かめるように笑った。

「水辺には睡蓮を植えられるようにしてある」

 少し歩き、奥の建物を指す。

「あの古い倉庫は作業場に改装した」

「作業場?」

「花の仕事を始めたくなったら、ここでもできるように」

 話しているうちに、どんどん楽しそうな顔になっていった。

「あとさ」

「まだあるの?」

「たまにここで一緒に暮らすのもよくない?」

「直人」

 彼が振り返った。

「もう一年だよ」

 笑顔が止まった。

「最初に決めた三千万円以外は受け取らない」

 書類を返す。

「この土地も、私の物にはできない」

「金で引き止めようとしてるんじゃない」

 直人はすぐに否定した。

「ただ、美緒がずっと自分の花畑が欲しいって言ってたから」

 視線を逸らす。

「誕生日くらい、喜ばせたかっただけなんだ」

 少しずつ声が小さくなった。

「俺はもう、契約だけの夫婦でいたくない」

 黙ったまま見つめた。

「美緒と、この先も一緒にいたい」

 長い間、私は蓮司だけを見てきた。

 本気で結婚したいと思った。

 年を取っても、そばにいるのだと思っていた。

 それだけ信じた相手に、一番深く傷つけられた。

 誰かが優しいからといって、すぐに次の恋を信じられるほど、まだ強くなかった。

「直人と私じゃ、たぶん釣り合わないと思う」

 花畑から、一番きれいに咲いていた紫陽花を一輪だけ切った。

「これだけもらう」

 直人を見る。

「ほかは、今は受け取れない」

 直人の表情が曇った。

 帰り道、彼はほとんど何も話さなかった。

 夕食のあと、御影家のことを取り仕切っている石田さんがやってきた。

「美緒さん、門の外にずっと座っている方がいます」

「誰ですか?」

「どうしても会いたいそうで」

 少し困ったような顔をした。

「警備の者に帰ってもらいましょうか?」

 外へ出ると、蓮司だった。

 かなり酒を飲んでいるらしく、門の横に座り込んでいた。

 私を見るなり立ち上がり、皺だらけのジャケットを慌てて整えた。

「美緒」

 少し笑う。

「やっぱり放っておけなかったんだな」

「違うよ」

 門を指した。

「あなたがここに居続けると、家の人たちが困るから出てきただけ」

 蓮司はうつむいた。

「分かってる」

 長く息を吐いた。

「今の俺に起きてること、全部自業自得だ」

 紗月が会社の経理担当者と組み、会社口座から多額の資金を不正に移していたことを聞かされた。

 蓮司が以前与えていた権限や社内書類まで悪用され、榊原テクノロジーズは一気に資金繰りが悪化したらしい。

 一部の銀行融資には蓮司の個人保証も付いていた。

 会社だけでなく、彼自身も多額の債務を背負うことになった。

「俺さ」

 蓮司がぽつりと言った。

「ずっと、紗月だけが心残りなんだって思い込んでた」

 黙って聞いた。

「そうじゃなかったら……」

 一度言葉を飲み込む。

「俺と美緒は、とっくに結婚してたかもしれない」

 苦しそうに笑った。

「子どもだって、いたかもな」

「人生に、もしもなんてないよ」

 言葉を遮った。

「紗月に騙されたから、私を傷つけたんじゃない」

 蓮司が顔を上げる。

「何をしても、私は絶対に離れないと思ってたんでしょう」

 何も答えない。

「何度嘘をついても、最後には許してくれるって」

 まっすぐ蓮司を見た。

「紗月がいなくても、いつか同じことになってたと思う」

「美緒……」

「あなたはずっと、私がいなくなる可能性なんて考えてなかったから」

 後ろから直人が出てきた。

「その通りだと思う」

 蓮司を見る。

「せっかく来たなら、一つ見せたいものがある」

 そう言って、車を出すよう運転手に頼んだ。

8

 到着したのは、灯坂町にある高級ホストクラブだった。

 直人のあとについて上階へ行った。

 完全には閉まっていない個室の扉の向こうから、紗月の笑い声が聞こえた。

 赤いドレス姿で、何人もの若いホストに囲まれていた。

 テーブルにはシャンパンのボトルが並んでいた。

「榊原蓮司って、本当に単純なの」

 紗月が笑っている。

「たまにLINEして、ちょっと泣いたふりするだけ」

 グラスを揺らした。

「それだけで毎年お金まで出してくれてたんだから」

 一人のホストが笑った。

「そんなにですか?」

「ずっと私に悪いと思ってたみたい」

 別のホストが酒を注ぐ。

「紗月さん、すごいですね」

「当然でしょ」

 紗月は楽しそうに笑った。

「海外にいた時だって、男くらいいたし」

「じゃあ、榊原さんとは?」

「蓮司と式を挙げたの?」

 わざとらしく考える。

「向こうにいた人を、ちょっと嫉妬させたかったのもあるかな」

 また酒を飲む。

「それに家から見合いを勧められるの、面倒だったし」

「今後どうするんです?」

「もうお金も手に入ったから」

 グラスを持ち上げた。

「数日したら日本を出るつもり」

 その瞬間、扉が勢いよく開いた。

 蓮司だった。

 紗月の笑顔が消えた。

「今、何て言った?」

「……蓮司」

「俺のこと、最初から利用してたのか?」

 紗月もすぐに表情を変えた。

「あなたが勝手に信じたんでしょ」

「何?」

「それを私のせいにするの?」

 蓮司の顔が歪んだ。

「お前のために、美緒をあんなに傷つけた」

「それも私が頼んだ?」

「全部嘘だったのか?」

 二人の声が大きくなり始めた。

 直人が警備スタッフに目配せした。

「榊原社長」

 蓮司が振り返る。

「話をするなら警察でどうぞ」

 直人の声は冷静だった。

「ここで事件を起こされると困る」

 スタッフに引き離された紗月が、そこでようやく直人に気づいた。

「御影さん」

「久しぶり」

「あなたが蓮司を連れてきたの?」

「そうだよ」

 紗月は眉を寄せた。

「私、あなたには何もしてないでしょ」

「俺にはね」

 直人の声が低くなった。

「でも、会社で美緒にわざと嫌がらせした」

 紗月の顔が強張る。

「何年もやってきた仕事を奪った」

 さらに続けた。

「写真まで勝手に流した」

 一拍置く。

「それに、コムギのこともある」

 何も言わなかった。

 蓮司は、あの頃一度も何が起きたのか聞こうとしなかった。

 直人は全部知っていた。

 騒ぎを見た店側が警察へ通報していたらしく、ほどなくして警察官が店に入ってきた。

 その後、榊原テクノロジーズが被害届を出した。

 紗月と経理担当者による不正送金について、本格的な捜査が始まった。

 店を出る時、後ろから蓮司の声がした。

「美緒」

 一瞬だけ足を止めた。

「会社の洗面所の件」

 振り返らない。

「あとから防犯カメラを見た」

 声が震えていた。

「紗月が、自分でガムを落としてた」

 ほんの一瞬だけ、あの日の光景が浮かんだ。

 けれど、振り返らなかった。

 今さら何を知っても、もう意味はなかった。

 一年の契約期間が終わり、直人と離婚した。

 約束通り、直人は反対しなかった。

 ただ、離婚届受理証明書だけは、しばらく黙って見つめていた。

 契約で得た資金を元手に、花森町の通り沿いに小さな店舗を借りた。

 念願だった花屋を開いた。

 店の名前は「MIO」。

 ところが、離婚したはずの直人は、当然のように店の仕入れ先になった。

 数日に一度、郊外の花畑から自分で花を運んでくるようになった。

 ついでのように、一束だけ薔薇を持ってくることもあった。

 ある日、とうとう聞いた。

「直人」

「ん?」

「直人なら、結婚したいっていう人なんていくらでもいるでしょ」

 花を並べていた手が止まった。

「どうしてそこまで私に構うの?」

 直人は少し黙った。

「本当に覚えてない?」

「何を?」

「中学一年の時」

 少し照れくさそうに鼻のあたりへ触れた。

「俺、美緒の学校に転校してきたんだ」

「……中学?」

「当時、すごく太ってた」

 苦笑する。

「ニキビもひどかったし」

「ごめん、まだ分からない」

「家も今みたいじゃなかった」

 花を一輪持ち上げたまま、ゆっくり話した。

「親は小さな商売を始めたばかりでさ」

 一度目を伏せる。

「俺も何人かに目をつけられて、よくからかわれてた」

 記憶の奥に、ぼんやりした顔が浮かんだ。

 廊下の隅で、何人かに囲まれていた太った男の子。

 先生を呼びに行き、その日の昼休みに自分の弁当から唐揚げを一つ分けた。

「また何かされたら言って。一緒に先生のところへ行くから」

 思わず直人を見た。

「……あの時の子?」

 直人の耳が赤くなった。

「今は痩せた」

 思わず笑った。

 直人が私の手を握った。

 契約を持ちかけた時とは違い、掌にうっすら汗がにじんでいた。

「美緒は、俺が初めて好きになった人なんだ」

 黙って聞く。

「その後また転校して、ずっと会えなかった」

「それで、千鶴さんの時に?」

「うん」

 少し笑う。

「やっと会えたと思った」

 それから視線を落とした。

「でも次に会った時、美緒はもう榊原蓮司しか見てなかった」

「……」

「だから言えなかった」

 苦笑した。

「本当にあいつのことが好きなの、見れば分かったから」

 そこで思い出した。

 中学の終わり頃、教科書を整理していた時、鞄の中から知らないメモが出てきたことがある。

【美緒、いつかまた会おう。今度は俺から会いに行く】

 誰が書いたのか、ずっと分からなかった。

「もしかして、あれ……」

 直人が私を見た。

「思い出した?」

 小さく頷いた。

 直人は一度、深く息を吸った。

「今度は契約でも、母のためでもない」

 手に少し力が入る。

「俺と、ちゃんと付き合ってくれない?」

 長い間、彼を見つめた。

「……うん」

9

 花屋を始めて半年ほどたった頃、店の前に一匹の犬が現れるようになった。

 毛色がコムギによく似ていた。

 少し痩せていたので餌を出すと、翌日もやってきた。

 三日目。

 その犬の向こう側に、蓮司が立っていた。

 前に会った時より、さらに痩せていた。

 着ていたスーツも、昔のような高価なものではなかった。

 榊原テクノロジーズは資金難の末に他社の傘下へ入り、蓮司は経営権を失ったと聞いている。

 紗月の事件もすでに裁判が終わり、巨額の不正送金に関わったとして実刑判決を受けたらしい。

 蓮司はゆっくり近づいてきた。

「美緒」

 犬を見る。

「この子、俺が見つけた」

 黙ったまま犬へ目を向けた。

「ずっと探してたんだ」

「何を?」

「コムギに似た子を」

 蓮司は犬の頭を撫でた。

「この子を保護してた人に頼んで、美緒の匂いがついたマフラーをしばらく一緒に置いてもらった」

「どうしてそんなことしたの?」

「少しでも、美緒に懐けばと思って」

 花桶から一本の薔薇を取り、店の外へ軽く投げた。

 犬は走って近づき、匂いを嗅いだ。

 そのあと、不思議そうにこちらを見る。

「コムギはね」

 犬を見たまま言った。

「私が花を投げると、必ず拾って戻ってきた」

 蓮司の目が赤くなった。

「……この子はコムギじゃない」

 しゃがんで犬の頭を撫でた。

「誰かの代わりなんて、いないよ」

 蓮司はうつむいた。

「分かってる」

 しばらくして、ようやく続けた。

「ただ、ここを離れる前に」

「離れる?」

「何か一つでも、美緒に残したかった」

「どこへ行くの?」

 蓮司は答えなかった。

 ただ、しばらく店の前に座っていた。

 やがて細い雨が降り始めた。

 蓮司の肩も、髪も、少しずつ濡れていった。

 昔なら、きっと傘を手にしてすぐに駆け寄っただろう。

 けれどその日は、店の中からしばらく見つめた。

 それから静かにドアを閉めた。

 もう、彼のために傘を持って走ることはない。

 その後、直人ともう一度婚姻届を出した。

 今度は契約も条件もなかった。

 結婚式も小さく、本当に大切な人だけを呼んだ。

 誓いの言葉を口にした時、直人は緊張しすぎて、私の名前だけ少し早口になった。

 自分でも気づいたらしく、耳が赤くなる。

 思わず笑みがこぼれた。

 豪華な式じゃなくても、隣に直人がいるだけで、不思議なくらい安心できた。

 八年後。

 私と直人は息子を連れて、南にある海岬町へ旅行に出かけた。

 車が大きな花畑のそばを通った時、息子が窓に張りついた。

「ママ」

「どうしたの?」

「あのおじさん、ずっとこっち見てるよ」

 指をさす。

「泣いてるのかな?」

 遠くの花小屋のそばに、髪のかなり白くなった男が立っていた。

 こちらを見つめていた。

 誰なのか、確かめる必要はなかった。

 直人が息子の方を振り返った。

「誰かと見間違えたんじゃないかな」

「そうなの?」

「うん」

 直人は前を向いた。

「ほら、もう帰ろう」

「帰るの?」

「うん。家に帰ろう」

 もう一度だけ窓の外を見た。

 遠ざかっていく花畑の中で、その人影はどんどん小さくなっていった。

 直人の手を握った。

「うん」

 彼を見る。

「帰ろう」

 それからは、もう振り返らなかった。




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