出発
紺色のコートを羽織り、お気に入りのマフラーをグルグルと首に巻いた。
物音を立てないようにそっと歩くと、窓のカーテンを人差し指で開き外を覗く。
「明け方から雪が降るでしょう」
という昨夜の天気予報と違い、うっすら白んできた空の雲間から、太陽の光が差し込みそうだった。
荷物が一つ減ったな、と、荷物を詰め込んであるリュックから長靴を取り出した。
奥においやられている折り畳み傘にも気付き、無理やりに取り出す。
今回は2人でお留守番だ。
キイっと鳴くドアに冷や冷やしながら、イキは忍び足で部屋を抜け出した。
階段を下りて様子を窺い、人影がないのを確認すると早足で玄関へ向かう。
玄関先には、最近母が買ってきた新品のスニーカーと、履きつぶして汚れたスニーカーが礼儀正しく出番を待っていた。
イキは迷うことなく、汚れているが履き慣れているスニーカーを取り出し、ぎゅっと靴紐を結び直した。
このスニーカーは、すでに家を出ている兄からの唯一の“おさがり”だ。
母に「汚れてみっともないから捨てる」と言われ、新品のスニーカーを目の前に差し出されても、イキは断固として手放すことを拒否した。
このスニーカーは、イキが初めてもらった兄の私物でもあるのだ。
その宝物とも言えるスニーカーが、これからの長旅を共にする、イキにとって一番目の仲間になったことにイキは心底喜んだ。
よろしく、と、手が汚れるのも気にせず撫でてやる。
リュックを背負うと、予想よりも重さがないことに気付き「さすが」と自分を褒めた。
と同時に、今度は荷物の重さもきちんと考えて荷造りしようと反省もした。
「行動するには1分あれば十分だが、行動する前に1時間考えなさい」というのは兄の言葉だ。
もしリュックが背負えないくらい重かったら、再び荷物の選別をするため時間がかかっていたことだろう。
玄関のドアノブをゆっくりと回して慎重にドアを開く。
ここで誰かを起こしてしまったら、今回の計画が台無しになってしまう。
靴音を立てないように外へ出、ドアを閉める刹那室内を見渡し、まるでそこに子犬を見つけたかのような笑顔を浮かべた。
「いってきます。しばらく、さよなら」
呟いた声は、ドアが閉まる音と共に静寂の広がる室内へすっと飲み込まれた。
ここまで来ればこっちのもの。
イキは白い息を吐きながら、駅に向かって走り出した。
時刻は4時00分を回ったところ。
この時間帯の街がどのような顔をしているのか、イキは今まで見たことがなかった。
太陽がないせいで街中がモノクロームになり、空気はいつもより冷たく鋭い。
足をうごかす度に頬が痛く、呼吸をする度にかき氷を食べたような爽快感で体が満ちた。
普段見ることのない街の様子に胸が躍り、走るスピードがどんどん速まっていく。
いつもなら20分かかる道程を、その半分もかからずに駅に到着してしまった。
肩で息をしながら切符売り場へ向かう。
5時にもならない時分では、さすがに人影は一切ない。
窓口の駅員は椅子に腰をかけ、ウトウトと夢を見ているようだった。
これなら切符を買わなくても良さそうだと悪い考えが浮かんだが、さすがにやめておこうと思い直す。
到着駅の駅員が、同じようにウトウトしているとは限らない。
ずるが発覚して自宅に連絡されでもしたら、イキはしばらく外出禁止だ。
一度、門限である17時を過ぎてから帰宅したとき、母にこっぴどく怒られたのは記憶に新しい。
そのときは、たった1時間門限を破っただけで1週間の外出禁止を言い渡されたのだった。
学校と自宅を行き来するだけの1週間は、決して行儀のいいわけではないイキにとって1ヵ月のようにも感じた。
あんなのはまっぴらごめんだ。
手のひらで額の汗を拭いながら、自動切符販売機の表示を見る。
値段は120円から3,700円までと様々だ。
3,700円もあったら、お菓子とゲームがいくつ買えるだろうと想像しつつ、4,000円を投入して3,700円の切符を購入した。
行き先は全く知らない場所。
だが、数時間後には知っている場所になっていることだろう。
片道切符をしっかりと握り、眠たげな駅員のいる改札口を通り駅のホームへ下りていく。
「大人と一緒じゃないと駄目」
と咎められはしないかと心配していたイキは、夢心地で切符を切ってくれた駅員に感謝した。